二月七日、村中は三名を代表して
片倉衷と辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴した。
恐らく獄中で同情した憲兵の口から、片倉や辻の陰謀を聞いたものであろう。
・・・リンク ↓
・ 粛軍に関する意見書 (3) 告訴理由1
・ 粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2
・ 粛軍に関する意見書 (5) 告訴理由3
しかし、軍当局は彼の告訴を黙殺した。
「 このころ村中は、もう不合理な企てはしないといって
『 妻帯はしない、陸大には入らぬ 』 という、かつての盟約に背いて妻帯もし、陸大にも入っていた。
私のところへも手紙をよこし、『 もうこれからは上司を信頼し軍務に忠実に服します・・・・』
と いっていた。 」 ・・・リンク→ 荒木貞夫が観た十一月二十日事件
と、荒木があとで述懐しているように、当時の村中は不穏な計画などなかった。
磯部は威勢のよい急進論をぶってはいたが、実兵を握っていない彼にできることは、
せいぜい血盟団のような一人一殺の暗殺であるが、
彼が同志に先んじてやれば、同志は一網打尽でそれこそ幕僚たちの思う壺にはまることだ。
磯部はそれがいかに愚劣なことかは知っていた。
四月二日、こんどは磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (9) 告訴状 及 陳述要旨
ついで 四月二十四日、村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出した。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二
これは西田が執筆して、大蔵栄一が清書した長文のものである。
「 今回の誣告事件は 私的策謀と公的権力乱用との結託した所の彼等の陰謀の一つの現われであります 」
と、先づ辻等の陰謀の本質を衝き、
統制派、清軍派の人脈から、中央の幕僚たちによる三月事件、十月事件、神兵隊事件への関連性、
隊付青年将校への圧迫を述べ、片倉、辻、塚本の三名の背後関係に言及し、
誣告の全容を余すところなく暴露したものである。
しかし、陸軍当局は受理したのみでいっさい黙殺して、何の反応も示さない。
業をにやした村中は、
五月十一日、陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (2) 上申書
磯部は第一師団軍法会議に出頭し、
五月八日と十三日の二回に亘って告訴理由を説明したが、当局は何らの処置もとらなかった。
ここで村中と磯部は最後の肚をきめた。
幕僚たちの旧悪をあばき、その非違を糾弾しようと暴露戦術にでた。
もちろん免官は覚悟の上である。
昨年十一月二十日、逮捕されたのは三名であったが、
磯部は後輩の片岡は俺たちと行動を共にするなと、誣告の告発には加わらさなかった。
『 風雪三十年 』 には荒木の回顧談で
「 片岡、お前はお母さんがいる。親子二人だから、どいてくれ、俺たち二人でやる 」
と、片岡に参加させなかったとある。
彼ら二人が犠牲になる覚悟でいたのである。
以上、前頁 十一月二十日事件の経過 から
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七月十一日
「 肅軍に關する意見書 」
を 陸軍の三長官及び軍事参議官全員にナンバーをつけて、初めは十三部だけ郵送した。
「 ・・・実に皇軍最近の乱脈は所謂三月事件、十月事件、なる
逆臣行動を欺瞞隠蔽せるを動因として軍内外の攪乱其の極みに達せり、
而かも其の思想に於て 其の行動に於て 一点の看過斟酌しんしゃくを許すべからざる
大逆不逞のものなりしは世間周知の事実にして
附録第五 『 〇〇少佐の手記 』 によりて其の大体を察し得べし。
而して 上は時の陸軍大臣を首班とし中央部幕僚群を網羅せる此の二大陰謀事件を
皇軍の威信保持に藉口しゃこうし掩覆えんぷく不問に附するは其の事自体、
上軍御親率の至尊を欺瞞ぎまんし奉る大不忠にして
建軍五十年未曾有の此の二大不祥事件を公正厳粛に処置するを敢へてせざりしは
寔に大権の無視 『 天皇機関説 』 の現実と謂ふべく、
断じて臣子の道 股肱の分を踏み行へるものに非らず・・・」
これは文書の冒頭にしるした 「 粛軍に関する意見 」 の一節であるが、
陸軍の中央幕僚群を前にして、一歩も引かぬという激しい気迫と憤怒に満ちた抗議であった。
附録としてつけた文書のうち
第一から第四までは 「 十一月二十日事件 」 に対して、
村中と磯部が第一師団軍法会議に提出した上申書や告訴状の写しであるが、
第五の 「 所謂十月事件、ニ関スル手記、〇〇少佐 」
の 一文は
今まで軍の威信に傷がつくとして公表していなかった
三月事件と十月事件の克明な記録であったから、
異常なまでの反響をよんだ。
○○少佐とは当時参謀本部員であった田中清少佐 ( 陸士二十九期 ) のことで、
戦後公表した田中の手記によれば、
昭和六年十二月、十月事件が未遂に終わった後、
かつて上司であった石丸志都磨少将 ( 陸士十一期 ) の要望で、
自分の日記風の記録から抜き書きしてまとめたものという。
客観的な描写だからきわめて正確だということになる。
それを伝え聞いた持永浅治東京憲兵隊長が石丸から借り、
少部数印刷して極秘の憲兵情報として部内に配布した。
村中孝次が入手したのは恐らく持永少将かその配下の手からであろう。
筆者の田中少佐の諒解を得て匿名として附録につけた。
( そのため田中はこの後、姫路の聯隊に飛ばされる )
しかし、皇道派に不利な所は省き、かわりに桜会の趣意書や名簿をつけて判りやすくし、
いわば自刃をふりかざして敵陣に切り込むような淒壮な文書であった。
しかし、これも軍の長老たちから黙殺される気配があったので、
さらに五百部ほど印刷して全軍に配布したからたちまち大反響をよんだ。
折柄世間注視の的であった真崎教育総監の罷免とも重なって、
軍部はもとより、政、財界、言論界に大きな衝撃を与え、
なかには大金を投じてでもこれを入手しようとする者さえでてきた。
当然中央の幕僚たちは激昂し、緊急に手配してこの文書の回収をはかった。
それから二十日余り後の八月十二日、
陸軍省軍務局長室で執筆中斬殺された永田鉄山少将の机の上には
「 粛軍に関する意見書 」 が ひらかれたままになっていた。
「 一歩踏み入れてみて驚いた。
茶色の絨毯は血の海となり、
室内の中央稍々右寄に仰向に倒れている永田少将の無惨な斬殺屍体が、
窓から射し込む八月の陽を一杯に浴びていた。
屍体の傍には犯人のものと思われる軍帽が、血に染まって落ちている。
局長の机の上には、新見憲兵隊長が報告のため持って来たと思われる、
今朝私が報告した 『 粛軍に関する意見書 』 が、拡げた儘になっていた 」
村中と磯部が弾劾して止まなかった統制派の総帥の無残な最期と八月の烈日、
それに彼らが書いた文書の取り合わせは、何か象徴的ですらある。
八月二日、
村中と磯部は免官となり、陸軍から永久に追放されるが、
これも幕僚たちの理不尽な恣意しいに基くものであった。
荒木貞夫はこう述べている。
「 二人を行政処分によって、免官とした。
陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、
受恩給年限に達する前には行政処分による免官は出来ない。
裁判によるべきこととなっていた。
二人はこの処分を、非合法なりとして反対し、
われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、
上で非合法をやるなら、オレ達も非合法を採らざるを得ないというにいたった 」
村中孝次 磯部浅一
村中孝次と磯部浅一が 昭和十年八月二日、軍籍を剥奪されてから、
翌年二月二十六日の早暁蹶起するまでほぼ七ヶ月経っている。
この間、蹶起への主導力となり主人公となったのは磯部であり、副主人公になったのは村中である。
「 これは死んだ連中には気の毒だが、まさに天の配剤というべきであろうか。
沈毅で思慮に富んだ村中と、熱血漢で行動力に勝った磯部が組んだからこそ、
たかが元一大尉の身分であれだけの大兵力を動員できたのだ。
これがもし、磯部と栗原だったらこうまでも兵力は動かせないだろう。
せいぜい五 ・一五事件か血盟団のような散発的な暗殺に終わっていたであろう。
『 このままでは血がながされる 』
ことは、あの時点で心ある将軍や幕僚、青年将校はみな知っていた。
それほど切迫した空気であった。
しかし たとえ起っても五 ・一五事件に輪をかけたぐらいのものだと軽く見ていたことはたしかだ。
それが約千五百人の兵力を動員したことは村中の人徳 ( おかしな表現だが ) の然らしむところである 」
と、大蔵は追想している。
「 村中孝次は同期のうち隋一の人格者というべきであろう。
真面目で正直、温順、寡黙、軽々しいことは口にしない。秀才で人格者という珍しい男であった 」
とは、菅波三郎の追想である。
「 真に勇気と胆力のある者は、ふだんは平静温厚でめったに覇気を外に表さないというが、
村中は正にピタリの男であった。
第一頭が冴えている。 文才も豊かで、努力家で勤直、人間に深みがあった。
後輩や教え子が彼を慕ったのは、彼の人間的な深みに魅せられたからである 」
と、めったに人を褒めたことがない大蔵栄一も、村中のこととなると褒め賛える。
その人格で温厚な村中も
八月二日の免官を境にして次第に変わって行ったという。
次第に沈鬱になり、激昂することが多くなった。
後で考えれば免官によって心中深く決するところがあったのだという。
「 村中は陸軍の軍人であることに自信と誇りをもっていた。
腐敗し切った世の中でも、陸軍だけは正義があると信じ切っていた。
いやしくも天皇陛下御親率の軍隊に不正不義が存在することなど、
村中は夢にも考えなかった。
十一月二十日事件と それにつづく一連の処置によって、
陸軍も等しく腐敗の府であり、不正不義が罷り通っていることを否応なく知らされた。
村中は心の底から痛憤したのだ。
信じ切っていた陸軍に裏切られた、陸軍が軍閥によって毒された。
軍閥を倒さねば陸軍も日本も駄目になると信じたのだ 」
と、大蔵は語っている。
大蔵によると
半年後に起こった二・二六事件が
大部隊による空前の武力蜂起となったそもそもの原因は村中の決意にあるという。
つねに急進論を唱えていた磯部でも栗原でも多くの同志を心服させる器量はない。
平常は目立たないが温厚な野中四郎や村中孝次が起ったことによって、
安藤輝三が決心したのだという。
末松太平はその著書の中で、大岸頼好の言葉として
「 理窟が通る通らぬより、あの人のやったことだから間違いないと言われるようにならなければ嘘だ 」
と 言ったというが、村中の決意こそまさにその言葉通りであった。
二・二六事の件最中、陸相官邸に憲兵として乗り込んだ同期の岡村適三も
「 村中が起っているからにはまさしく昭和維新に間違いはあるまい 」
と、思ったという。 ・・・「 あの温厚な村中が起ったのだ 」
須山幸雄 著
二・二六事件 青春群像 から