あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」

2018年03月06日 05時43分38秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

武藤与一は、
昭和七年 士官学校予科に入学、
予科卒業後、朝鮮竜山七十九聯隊へ配属され、

半年の聯隊生活を送り、
九年九月士官学校本科に入学した。

< 武藤与一談 >
私は岐阜の貧農の出身。
五つのとき叔父の家に養子に行ったが、叔父は、無理して私を中学へ上げてくれた。
だが、中学を出ても貧乏百姓では それを継ぐほどのこともなく、将来を考えて悩んでいたとき、
中学の先輩で士官学校に入った人があったので、世に出るには軍人の途を行くのが適当だと考えるようになった。
それに、士官学校だと何でも官給だから金の要らないのが魅力だった。
士官学校の試験に合格したときは、やっとこの貧乏から抜け出す希望が見え、将来の出世を夢みた。
   
村中孝次 


士官学校予科に入学すると、一中隊三区隊に所属した。
このとき、村中さんが六区隊長をしていた。
入校した生徒たちは、正式の入学式のある前に、とりあえず週番士官から話を聞くことになっている。
ちょうど、村中さんが週番士官だったが 自習室に生徒一同を集めて訓示した。
『 お前らは士官学校へ入って、将来の元帥、大将を夢みているかもしらん。
或は 出世して金が入るとおもっている奴もいるかも分らん。
だが、そんな甘い考えは一切捨てろ。 市ヶ谷はそんな人間を育てるところではない 』
私には村中さんのこの言葉が衝撃で、なるほど、自分は村中に指摘されたような人間だと思い、
これではいかんと反省した。
その矢先に五・一五事件があった。
村中さんは、事件に関連して士官学校を去った。
部内には、この事件に参加した士官候補生に同情的で、
校長以下幹部も、彼らの手段は悪いが、その純真な精神は買うべきだという態度であった。
私などはそれに力を得た。
村中さんは士官学校には出入り禁止だったが、一度会ってゆっくり話を聞きたいと思っていた。
予科二年のとき、軽い病気で医務室へ入室したが、そこに当時本科生の田中哲夫という人が治療に来て話をしていた。
聞いていると村中さんの名前が出る。
そこで、村中さんを知っていますか、
と田中に訊くと、
もちろん、村中さんも西田さんも、知っているという 田中の返事だった。
彼は一度連れて行ってやると私にいってくれた。
それをきっかけに村中さんへ出入りするようになった。

村中さんは旭川の二十六聯隊だが、当時陸大生で、明治神宮の近くのアパートに居た。
外出日にはちょくちょく 一人で行くようになった。
岡本という同期生も誘った。彼は山口県人で、同じ区隊だった。
彼とは革新運動をやるといって血判まで捺して誓った仲だったのに、後に運動は止めたと言って去って行った。
みんな 利口で、なかなか同志はできなかった。
思想運動をやると成績が下がる。
自分はあまり頭もよくないが、それでも一年は中ぐらいだったのに、
二年になると がた落ちになってビリ近くになり、区隊長に注意された。
しかし、『 国家改造法案 』 などは何遍も読んで勉強した。
それでないと運動からも置いてゆかれる。
日曜日に岐阜県人会の下宿で一生懸命 『 国家改造法案 』 を読んだ。
このころ、私は上級生とも会わず、村中宅へ個人的に出入りしていた。
百姓出の私は郷里での農民の生活を実際によく知っていたから、五・一五事件では大きな刺戟をうけた。
私はともすれば過激なことを口走った。
すると村中さんは、事件を起す起さぬ段階ではない、と、よくたしなめた。
しかし、農民生活の経験があり、政党や財閥の不正に義憤を感じて捨石になろうと誓っていた私は、
いつもそれを迎える村中さんに失望すら感じていた。
村中さんはこう言った。
『 やるやらないが問題ではなく、日本がこういうことではいかん、
という理論が国民の間に澎湃ほうはいとして起ってくることが必要なのだ。
人を斬らずにすめば、それが一番いい。斬るとか斬らないとかいうのは末の末の問題だ 』
村中さんのところで、磯部さん、栗原さん、安藤さんにも知り合った。
栗原さんは挨拶代りに 『 ぶった斬れ 』 という人だった。
磯部さんはちょっと おっちょこちょいみたいなところがあった。
安藤さんは立派な人だった。
岐阜県人だし、近づきたかったが、あまり機会はなかった。
或る日、西田税を紹介してもらって行くと、栗原さんに会った。
『 オイ 武藤、いっちょうやるか 』 という風だった。
過激なのは栗原さんだけだったと思う。
もちろん五・一五のときも村中さんは西田さんと同じ立場だった。
相沢さんにも村中宅や西田宅で会ったことがあるが、おっとりした、よく考えてものをいう人だった。

私は昭和九年九月一日に本科へ入学したが、
同期生の中だ只一人の同志だった岡本に去れらてとても孤独だった。
早く 四十八期に同志をもちたいと焦っていた。
そんなとき佐藤が向うから近づいてきた。
ある晩、屋上で夕涼みをしていると、
『 武藤だね 』 と 近寄って来た候補生が、自分は四十八期の佐藤だと名乗り、
天下国家を論ずるようなことをいい出した。
藁をもつかみたいような気持だった私は、佐藤とすぐ意気投合した。
『 西田を知っているか。村中を知っているか 』
と 訊かれて、前後の見さかいもなく私はそれに飛びついた。
『 じゃ、今度村中のところへ連れて行け 』
と 佐藤が頼んだので、次の外出日に二人で行くことにした。
後から考えれば、まことに不自然な出遭いだった。
中隊の違う人間が私を知って名指しで近づいてくるのも変である。
隊が違うと生活が全く別で、お互いに知り合う機会は少ない。
それに、私も相手の人間を見もしないで仲間となった。
しかし、まさか士官候補生がスパイをするとは思ってもみなかった。
彼との出遭いは九月の終りだったか、もっと後だったか、記憶がはっきりしないが、
十月初めだったとしても十一月二十日の事件まで外出日は数えるほどしかなかった。

村中さんのところへ次の日曜日に早速 佐藤を連れて行った。
村中さんは会うと初対面の佐藤が、
『 誰を殺りますか。誰地誰をいつ殺るんですか 』 などと言い出した。
村中さんがどぎまぎして、
『 殺るのが問題じゃないのだ。革新運動は斬った張ったではないんだ 』
と たしなめた。
それでも佐藤は自分から、
『 ××と××を殺るんでしょう 』 などと言い出したので、
村中さんはたまりかねて、
『 何を言うか 』 と 佐藤を怒鳴った。

事件の前の日曜日に西田税の家に二人で行った。
西田さんのところで佐藤が、『 あれとあれを・・・・』 というような事を言った。
西田さんはいいかげんに 『 いいだろう 』 とか 『 うむ、そうだな 』 とか、『 時期は近いうちだ 』
などと相槌を打っていた。
それで、具体的なことは西田さんのほうから云わずに、全部佐藤のほうから質問のかたちで言ったのである。
この日が事件の前の最後の日だから、具体的な話は西田の家で出たと思う。
村中さんは佐藤がうるさくなったので彼から逃げたのだ。
西田のところへ行ってみろと村中さんに云われて、この日二人で西田を訪ねて来たのだった。
そんなわけで、佐藤には村中、磯部、西田の三人を紹介したと思う。
二人で村中宅へ行ったのは二回くらい。
たとえ村中さんたちに何か謀議があったとしても、私達にそんなことを言うわけがない。
佐藤は入ったばかりだし、私もまだヒヨコだったから、村中さん達が大事なことを打明けるわけはないのだ。
それに、佐藤があんまり激しいことを言うので村中さんも警戒していたと思う。

十一月二十日に手入れがあり、村中、磯部、片岡太郎の三人が憲兵隊へ連行され、
私達候補生は校内に軟禁された。
自分は授業中に呼びにこられて中隊の小使室に入れられた。
別に見張りが付くわけでもなく、小使が居た様に思う。
中隊長と区隊長が蒼くなっていた。
この二人に調べられた訳だが、『 日誌を持ってこい 』 と言われて、
本当はつけていなかったのだが、『 下宿にある 』 と言うと、外出証明をやるから取ってこいと言われて下宿へ行った。
実はここにもないのを知っていたのだが、これを幸いに 『 改造法案 』 などを処分した。
誰か尾けてきたかもしれないが、ありませんでした と帰ると、何事もなかった。
自分のいる小使室へ一中隊の小使がやって来て、辻が呼んでいるという。
私は上官が使いをよこしたので隣の中隊へ出向いた。
辻が私を調べようとしたら、ろくにものを言わぬうちに自分の中隊長が怒鳴り込んで来た。
( 第二中隊長は古宮正次郎少佐、区隊長は田中義男中尉 )
辻はもう一度小使をつかって呼びに来た。
二回目は佐藤とどうとか言い出すと、やっぱり中隊長が呼びにきて駄目になった。
古宮中隊長は辻に 『 何だ、他人の中隊の候補生を・・・・』 と 怒鳴った。
辻は 『 悪い意味はない 』 と 弁解していた。
辻にとっては私が別の中隊だったのが全くの不幸だったといえる。
二中隊では私を監視するより、辻が捕まえにこないかと神経を使っていた。
これを見ても辻が工作したのは明らかだ。
この行為が校内で問題になって辻は重謹慎三十日かになったという。
我々の革新運動だけが問題なら、当局が辻にこの処分をするのがおかしいということになる。

何日か経って軍法会議へ行くと言って田中区隊長が付き添って学校を出た。
ところが、着いた先が代々木刑務所で、区隊長は驚き、学校側もあわてふためいて抗議した。
しかし、我々は未決へ入れられた。
学校が抗議するまでは犯人扱いだったが、後はストーブまで入れてくれた。
未決から軍法会議へ行く車で荒川達と一緒になり、佐藤がスパイだったと知った。
九十日間代々木の未決に居たわけだが、この間取調べは二度だけで、
一回は信念などを聴かれ、二回目は事件の経過を調べられた。
我々は証拠不十分で不起訴になった。
尚、片岡さんが事件に関係したとされたのは、私が
『 予科の区隊長に片岡太郎さんが居るから行ってみろ 』
と 佐藤に言ったことがあるので、佐藤が加えたのだと思う。
片岡さんはただそれだけの関係だ。
佐藤は会っても居ないはずだ。

我々は退校となり、一度隊へ帰り 満軍へ行って再出発を期すことになった。
満洲へ渡る前一度郷里へ帰った。
村中さんからハガキをもらって東京に残れと言われたが、私としては村中さんに会わせる顔もなかった。
自分がバカだったのだ。
満洲へ行ってもう一度出直そう、と新天地を求めて出発することに決めていた。
それからすぐ渡満したので、村中さんにはその後一度も会って居ない。
退校した五名は満軍に入り、私は軍務に励んだ。
だから、『 粛軍に関する意見書 』 も見ていない。
二・二六事件のとき、日本の憲兵隊に二度調べられた。もちろん、連絡もなかったので何事もなかった。

私は、永田事件が起ったのも、二・二六も自分の不明の致すところだと慚愧に堪えない。
今でも本当に申訳なく思っている。
自分が佐藤という人間を見抜けたら、もう少し警戒心があったら、
士官学校事件のようにバカなことも起きないで済んだと思う。
いつも、革新的気運を盛上げる仕事をすればよいのだと言っていた村中さんが、この事件で感情に走ったのは私の責任だ。
国民的支持のある革新を目指していた村中さんらしくない行為だと感じた。
相澤さんもああいう人ではなかった。
村中さん達を過激に走らせた責任を現在でも感じている。

松本清張 著  昭和史発掘 6  から