灰野敬二の名前というかロスト・アラーフの名前を知ったのは、71年8月の三里塚での
ドキュメンタリー・レコード「幻野」を聴いてからである。目当ては単純に頭脳警察だったが
ZKはさておき、ここに収録された定型のロックに居心地の悪さを覚え、アルバムの最後に
収録されたロスト・アラーフの演奏に、混乱した収録現場に相応しい雰囲気というか、
強力な音の磁場のようなものを感じた。ただし、それは私が日常聴く音楽全てに当てはまる
のではなく、このアルバムを通して聴いて感じたことである。
しばらく、そんなことは忘れていたのだが裸のラリーズを熱心に聴きだした頃、改めて
灰野敬二を聴いてみようと思い、何枚かアルバムを集めライブを録音したテープも集めた。
自身のソロ、バンド「不失者」を始めとする様々な名義での演奏を聴き、へとへとに
疲れ果ててしまった。同じ演奏をしない故に(できないとは、決して言わない筈だ)
全ての音源は貴重なはずだが、それは共有する部分の少なさを意味することもあり、
聴き手は体力を試される。
結果、私は集めたほぼ全てのライブ・テープを破棄し、アルバムも何枚かを残し(それでも
10枚ほどは手元にある)処分した。悪しき取捨選択は古い物ほど有り難がる傾向を残し
また、ロックのフォーマットに近い演奏を収録した物を残す結果になった。
掲載写真は灰野敬二が81年に出した「わたしだけ?」。声もギターの音も神がかり的というか
これは音楽というより、シャーマニズムというべきかもしれない。
耳馴染みのいい音は一つも無い。アルバムを聴いている間、もう何回も聴いていると言うのに
便宜上タイトルがつけられ、トラック分けされた13の音の塊を「曲」と呼んでいいのか
考える瞬間というのが、フラッシュバックのように訪れる。
「うまくできない、自分のまねが」という歌詞に、とっくの昔に灰野は全てを悟っているのでは
と想うとゾッとする瞬間も必ずある。
そして、その「想い」は最後の「捧げる」で聴ける30分近いノイズに打ち砕かれる。
私は単純な古いロックを愛し、それはずっと変わらないだろう。
だが、このアルバムは自分を律する戒めとして所持し続け、これからも折につけ
聴いていくつもりだ。
ドキュメンタリー・レコード「幻野」を聴いてからである。目当ては単純に頭脳警察だったが
ZKはさておき、ここに収録された定型のロックに居心地の悪さを覚え、アルバムの最後に
収録されたロスト・アラーフの演奏に、混乱した収録現場に相応しい雰囲気というか、
強力な音の磁場のようなものを感じた。ただし、それは私が日常聴く音楽全てに当てはまる
のではなく、このアルバムを通して聴いて感じたことである。
しばらく、そんなことは忘れていたのだが裸のラリーズを熱心に聴きだした頃、改めて
灰野敬二を聴いてみようと思い、何枚かアルバムを集めライブを録音したテープも集めた。
自身のソロ、バンド「不失者」を始めとする様々な名義での演奏を聴き、へとへとに
疲れ果ててしまった。同じ演奏をしない故に(できないとは、決して言わない筈だ)
全ての音源は貴重なはずだが、それは共有する部分の少なさを意味することもあり、
聴き手は体力を試される。
結果、私は集めたほぼ全てのライブ・テープを破棄し、アルバムも何枚かを残し(それでも
10枚ほどは手元にある)処分した。悪しき取捨選択は古い物ほど有り難がる傾向を残し
また、ロックのフォーマットに近い演奏を収録した物を残す結果になった。
掲載写真は灰野敬二が81年に出した「わたしだけ?」。声もギターの音も神がかり的というか
これは音楽というより、シャーマニズムというべきかもしれない。
耳馴染みのいい音は一つも無い。アルバムを聴いている間、もう何回も聴いていると言うのに
便宜上タイトルがつけられ、トラック分けされた13の音の塊を「曲」と呼んでいいのか
考える瞬間というのが、フラッシュバックのように訪れる。
「うまくできない、自分のまねが」という歌詞に、とっくの昔に灰野は全てを悟っているのでは
と想うとゾッとする瞬間も必ずある。
そして、その「想い」は最後の「捧げる」で聴ける30分近いノイズに打ち砕かれる。
私は単純な古いロックを愛し、それはずっと変わらないだろう。
だが、このアルバムは自分を律する戒めとして所持し続け、これからも折につけ
聴いていくつもりだ。
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