お正月が近づいて、世間はなにかそわそわし、スーパーは人間だらけになっている。
いつもの数倍もする値段のかまぼこや伊達巻が並び、肉も大きなパックとなり、すき焼き用の牛肉なども高いものになる。
正月を迎えるとなると、やはりお供え餅が必要だろうか、仏壇の花もそれなりのものを供えなければならないか、玄関のお飾りも買うか、おせちも一応作ったほうがいいだろうか・・・などと考えていくと、こりゃあ予算も大変だ。
それだけのものを混みあう店に出かけて行って買って持ってくる手間も、えらく大変なことに思えてくる。
明日は、私は田舎に帰るので、それまでに、大掃除や料理などをすませ、年賀状も作成しなければと思うと、おそろしい忙しさになるだろう。
だが、どうもなかなかエンジンがかからない。
餅なんか買っても食べないよな~
おせちは元旦からやっているスーパーでは、年が明けるとすぐに半額になるもんだ。
しかし、だからといって、大晦日に作らないで元旦におせちの買い物をするっていうのもどうかなあ。
「年が明けてからなら安い」とか、「べつに正月料理もいらないだろう」と思って、普通の人がすることをしないというのも、なんか、さもしいじゃないか。
そこで、千円や2千円節約ができたからってどうなんだろう。そこで、何千円かよけいにかかったからといって破産するわけじゃないんだ。
どうも貧乏性でいかん。
これは、先祖代々伝わる貧乏性である。
実家の母は、パソコン印刷なんかができないので、できた絵入りの年賀はがきを買ってきたそうである。それがきれいな色のものは高いから、一番安いほとんど色がないようなものを買ったと言っていた。
確かに、色刷りのデザインはがきは1枚あたりの値段が、切手代に加えてかなり高くなっているといえるが、たかが数十円のことであり、そこで5枚セットの値段が地味なものよりも100円くらい高かったからといって、50枚買っても1000円よけいに出してきれいなデザインのものが買えるなら、そんな金額は大したことではないのではないか。
私なら、そんなつまらない年賀状を送るよりも、少しくらい高くても、自分がもらって嬉しいようなきれいなデザインを選ぶと思う。
母は年金暮らしではあるが、そんなに貧乏で生活に困っているわけではないのだ。
しかし、母の金銭感覚とはそういうものであり、仮にどんなにたくさんのお金があったとしても、その習性は変わらない。できる限りの節約をする。
そんなやり方をしてきたからこそ家が建てられたのであり、私のように無駄なものに金を使っていたら家なんか建てられるはずがないと言うのだ。
それで、一軒家はあるものの、暖房もほとんどしないで暮らしているから、寒くてしょうがない。
母の場合、なぜか家を持つことだけは、一般人間の最低条件で、無駄な消費ではないと思っているようだ。
私は田舎に帰ると、そのたびに近くのショッピングセンターに行って、バーゲンの洋服を買ったりするのだが、母にはそれが気に入らない。「服なんかそんなに買う必要はなかろう、自分は10年間も同じ服を着ている」などと言う。
そりゃあ、今着ている服がぼろぼろになっているわけじゃないし、着る服は他にもあるけれど、やはり毎年新しい服を買うのが人間の楽しみではないかと私は思う。
10年間も同じ服を着ていてどこが楽しいのか、そんなの生きる楽しみがない。
このように、私は日常品を買うことにおいては母ほどケチ臭くはないが、それでも母の習性に洗脳されている部分が多く、お金を使うことに対する抵抗がしみついているため、正月準備もついつい躊躇してしまうことが多い。
いつもの数倍もする値段のかまぼこや伊達巻が並び、肉も大きなパックとなり、すき焼き用の牛肉なども高いものになる。
正月を迎えるとなると、やはりお供え餅が必要だろうか、仏壇の花もそれなりのものを供えなければならないか、玄関のお飾りも買うか、おせちも一応作ったほうがいいだろうか・・・などと考えていくと、こりゃあ予算も大変だ。
それだけのものを混みあう店に出かけて行って買って持ってくる手間も、えらく大変なことに思えてくる。
明日は、私は田舎に帰るので、それまでに、大掃除や料理などをすませ、年賀状も作成しなければと思うと、おそろしい忙しさになるだろう。
だが、どうもなかなかエンジンがかからない。
餅なんか買っても食べないよな~
おせちは元旦からやっているスーパーでは、年が明けるとすぐに半額になるもんだ。
しかし、だからといって、大晦日に作らないで元旦におせちの買い物をするっていうのもどうかなあ。
「年が明けてからなら安い」とか、「べつに正月料理もいらないだろう」と思って、普通の人がすることをしないというのも、なんか、さもしいじゃないか。
そこで、千円や2千円節約ができたからってどうなんだろう。そこで、何千円かよけいにかかったからといって破産するわけじゃないんだ。
どうも貧乏性でいかん。
これは、先祖代々伝わる貧乏性である。
実家の母は、パソコン印刷なんかができないので、できた絵入りの年賀はがきを買ってきたそうである。それがきれいな色のものは高いから、一番安いほとんど色がないようなものを買ったと言っていた。
確かに、色刷りのデザインはがきは1枚あたりの値段が、切手代に加えてかなり高くなっているといえるが、たかが数十円のことであり、そこで5枚セットの値段が地味なものよりも100円くらい高かったからといって、50枚買っても1000円よけいに出してきれいなデザインのものが買えるなら、そんな金額は大したことではないのではないか。
私なら、そんなつまらない年賀状を送るよりも、少しくらい高くても、自分がもらって嬉しいようなきれいなデザインを選ぶと思う。
母は年金暮らしではあるが、そんなに貧乏で生活に困っているわけではないのだ。
しかし、母の金銭感覚とはそういうものであり、仮にどんなにたくさんのお金があったとしても、その習性は変わらない。できる限りの節約をする。
そんなやり方をしてきたからこそ家が建てられたのであり、私のように無駄なものに金を使っていたら家なんか建てられるはずがないと言うのだ。
それで、一軒家はあるものの、暖房もほとんどしないで暮らしているから、寒くてしょうがない。
母の場合、なぜか家を持つことだけは、一般人間の最低条件で、無駄な消費ではないと思っているようだ。
私は田舎に帰ると、そのたびに近くのショッピングセンターに行って、バーゲンの洋服を買ったりするのだが、母にはそれが気に入らない。「服なんかそんなに買う必要はなかろう、自分は10年間も同じ服を着ている」などと言う。
そりゃあ、今着ている服がぼろぼろになっているわけじゃないし、着る服は他にもあるけれど、やはり毎年新しい服を買うのが人間の楽しみではないかと私は思う。
10年間も同じ服を着ていてどこが楽しいのか、そんなの生きる楽しみがない。
このように、私は日常品を買うことにおいては母ほどケチ臭くはないが、それでも母の習性に洗脳されている部分が多く、お金を使うことに対する抵抗がしみついているため、正月準備もついつい躊躇してしまうことが多い。