はたやんさんがご自身のブログに「執筆は大仕事」というのを書いていらっしゃいます。
それとは別のケースですが、私も自分の書いた文章が公になったときのことについて、思い出したことを書いてみます。
大げさな言い方ですが、原稿は筆者が全身全霊をかけて書いているものだから、それなりの扱いをしてもらいたいものだと思っています。
私は、以前よく新聞に投書をしていたのですが、読者のページなどは、「投書を掲載するときに趣旨を変えずに文を変えることがある」という但し書きがありました。
それで、私の名前で文が掲載された時に、私が書いた言葉がぜんぜん違う言葉に変えられていることがよくありました。文字制限を守っているのにもかかわらず、わざわざ別の表現になったり、文の順番が変わったりして、重視する部分が違ったりしているわけです。そうすると、私としては、私の意思とは全然違う文章になっていて、こんなの私が書いたものじゃないと思ってしまいます。文を変えれば趣旨はあきらかに変わるものなのです。
しかし、すでに私の文として掲載されてしまったのですから、もうどうしようもないのです。頭にきて新聞社に抗議したこともありました。
人の文を勝手に変えるのは編集者のおごりではないでしょうか?そして、大作家の文章に勝手に手を加えるなんていうことはありえないのに、投稿者が素人であるというだけで、新聞社の人がプロであり文の達人であるという立ち場のもとで、そういうことを当然のように行う。人の書いたものを土台にして、その人がいいと思うような文に変えてしまうのです。しかし、こっちは一言一句吟味して書いた文章で、その言葉じゃなければだめだという気持ちがあります。
まあ、変更されたものが、自分の許容範囲内であることも多いし、たしかに自分の表現より変えられた表現のほうが角が立たないな、などと思うこともありました。
やはり、そのときの編集の人によって、あるいは、その場合によって、状況は違います。しかし、大なり小なり自分の文章に手が加えられることは確かでした。
そして、結局、「2000円もらえるから割り切ろう」などと思うようになりました。
私の書いた文は、新聞に掲載されたときはすでに自分の文じゃありません。だから、私は自分の名前で掲載された新聞記事は、ひとつも記念に残さずに捨てています。そして、最近はぜんぜん投稿しなくなりました。
新聞に個人名で載せられた投書文は、そこに載せるという選択がされた時点で、すでに編集者の意見が反映されています。ですから、読者のページと言っても、投書を選択する時点と、その文に手を加える時点で、かなり編集者の色が付け加わっていることになります。
そうやって、他人の判断が反映されることによって、個人の偏見に満ちた意見などはそぎ取られ、全体的に均衡のとれた内容になるのかもしれません。そのようにして新たに生まれた文章は、原作者から離れて、それなりの価値を持つといえるでしょう。
しかし、筆者本人にとっては、もうそれは自分の名を付してもらいたくないと感じることも多いです。
筆者と編集者の関係、原文と他者による修正の関係は難しいなと思いました。
その点、ブログは自分自身が書いて、自分で編集するので、そういう問題はないはずですが、それでも不適切な表現とか事実に関する間違いなどがあって、修正したり悩んだりすることも多いです。
私にとって、完璧に文が完成するなんてことはありえないでしょう。
それとは別のケースですが、私も自分の書いた文章が公になったときのことについて、思い出したことを書いてみます。
大げさな言い方ですが、原稿は筆者が全身全霊をかけて書いているものだから、それなりの扱いをしてもらいたいものだと思っています。
私は、以前よく新聞に投書をしていたのですが、読者のページなどは、「投書を掲載するときに趣旨を変えずに文を変えることがある」という但し書きがありました。
それで、私の名前で文が掲載された時に、私が書いた言葉がぜんぜん違う言葉に変えられていることがよくありました。文字制限を守っているのにもかかわらず、わざわざ別の表現になったり、文の順番が変わったりして、重視する部分が違ったりしているわけです。そうすると、私としては、私の意思とは全然違う文章になっていて、こんなの私が書いたものじゃないと思ってしまいます。文を変えれば趣旨はあきらかに変わるものなのです。
しかし、すでに私の文として掲載されてしまったのですから、もうどうしようもないのです。頭にきて新聞社に抗議したこともありました。
人の文を勝手に変えるのは編集者のおごりではないでしょうか?そして、大作家の文章に勝手に手を加えるなんていうことはありえないのに、投稿者が素人であるというだけで、新聞社の人がプロであり文の達人であるという立ち場のもとで、そういうことを当然のように行う。人の書いたものを土台にして、その人がいいと思うような文に変えてしまうのです。しかし、こっちは一言一句吟味して書いた文章で、その言葉じゃなければだめだという気持ちがあります。
まあ、変更されたものが、自分の許容範囲内であることも多いし、たしかに自分の表現より変えられた表現のほうが角が立たないな、などと思うこともありました。
やはり、そのときの編集の人によって、あるいは、その場合によって、状況は違います。しかし、大なり小なり自分の文章に手が加えられることは確かでした。
そして、結局、「2000円もらえるから割り切ろう」などと思うようになりました。
私の書いた文は、新聞に掲載されたときはすでに自分の文じゃありません。だから、私は自分の名前で掲載された新聞記事は、ひとつも記念に残さずに捨てています。そして、最近はぜんぜん投稿しなくなりました。
新聞に個人名で載せられた投書文は、そこに載せるという選択がされた時点で、すでに編集者の意見が反映されています。ですから、読者のページと言っても、投書を選択する時点と、その文に手を加える時点で、かなり編集者の色が付け加わっていることになります。
そうやって、他人の判断が反映されることによって、個人の偏見に満ちた意見などはそぎ取られ、全体的に均衡のとれた内容になるのかもしれません。そのようにして新たに生まれた文章は、原作者から離れて、それなりの価値を持つといえるでしょう。
しかし、筆者本人にとっては、もうそれは自分の名を付してもらいたくないと感じることも多いです。
筆者と編集者の関係、原文と他者による修正の関係は難しいなと思いました。
その点、ブログは自分自身が書いて、自分で編集するので、そういう問題はないはずですが、それでも不適切な表現とか事実に関する間違いなどがあって、修正したり悩んだりすることも多いです。
私にとって、完璧に文が完成するなんてことはありえないでしょう。