「ヴェニスの商人」という作品の観劇は、2007年9/30に市村正親シャイロックの舞台の東京公演千穐楽以来だ。
SSS=彩の国シェイクスピアシリーズでの全作品上演企画の中でもこれまで上演がなかったわけで、蜷川幸雄が惚れ込んでいる猿之助をシャイロックにすえてきて満を持しての舞台。メンバーズ先行で入手できる4枚枠をフルに使って4人でミニオフ会も合わせた観劇とした。亀治郎時代に老け役は昨年の新春歌舞伎の「南総里見八犬伝」で因業な庄屋爺を観ている。それがよかったので、今回もいいに違いないと確信はもっていた。
さらに、松井今朝子さんのHPでも9/5の初日に観て猿之助のシャイロックを褒めていらしたので、わくわくしながら猿之助の出を待った。
【彩の国シェイクスピアシリーズ第28弾「ヴェニスの商人」】
≪埼玉公演≫2013/9/5(木)~9/22(日)
彩の国さいたま芸術劇場大ホール(埼玉)
オールメールシリーズでの上演で、今回の主な配役は以下の通り。
シャイロック=市川猿之助 アントーニオ=高橋克実
バサーニオ=横田栄司 ポーシャ=中村倫也
ネリッサ(ポーシャの女中)=岡田正
ジェシカ=大野拓朗 ロレンゾー=鈴木豊
グラシアーノ=間宮啓行 石井愃一ほか
ヴェニスの社会の中の多数派はキリスト教徒で、ユダヤ人はごくごく少数派。キリストを殺したのがユダヤ人ということでキリスト教のルーツから反ユダヤ感情はつきものになっている。
また、表題の商人という生業は労働して物を生み出さないことから賤しいものとされていて、得た利益を貧しい人や教会に差し出すことで神の救いを求めていた。商人の中でも一番賤しいのが金貸し業とされていて、その職業を担ったのがユダヤ人。
こうした背景の中で登場人物のほとんどがユダヤ人を悪魔呼ばわりして憎み軽蔑する。こうしたことが日本ではあまり理解されていないので、この作品の人間関係の根底がわかりづらいのだと思う。
劇団四季で観た日下武史シャイロックはキリスト教徒のユダヤ人への差別に対する怒りと悲しみを深刻に訴えてきた。今回の猿之助シャイロックはキリスト教徒への憎悪に満ち満ちている。差別への怒りを通り越した憎しみ。
それを生み出すのがキリスト教徒側の蔑みと憎しみなのだが、よく聞くと台詞のはしばしにもそれが盛り込まれている。シャイロックの側の台詞にもそのことへの積年の恨みつらみが嫌味や皮肉としててんこもりになっている。
それを猿之助シャイロックは最大限に誇張してしゃべるので、実に嫌味で憎ったらしい。顔も徹底的にジジイにしている。地肌がみえるような長くて薄い白髪の頭、つけまつげも白く、ここまで高齢の拵えにしたシャイロックは初めて見た。好々爺の正反対のキリスト教徒を徹底して憎み嫌う因業爺だ。
それに屈してお金を借りるバッサーニオと保証人になったアントーニオ。自分の商売の邪魔をするアントーニオへの意趣返しをする機会をねらっていたシャイロックだから、返済できなかった時の条件に「身体の肉を1ポンド切り取る」と入れたわけだ。
そのシャイロックの娘のジェシカが父親の金や宝石を持ってキリスト教徒のロレンゾーと駆け落ちしてしまった。財産と娘をキリスト教徒に盗まれたことへの復讐を、破産したアントーニオから証文通りに肉を切り取って殺すことで果たそうとしている。
いわゆる「人肉裁判」の本質がここにあるということを、今回の舞台はまざまざと見せつけた。
猿之助の歌舞伎の型を自在に使った演技は、シャイロックのヴェニスの社会の中のユダヤ人の異端者ぶりを際立たせる。中でも「忠臣蔵」の師直や「夏祭」の義平治などなど歌舞伎の敵役の型が憎憎しい人物造形を滑稽にもみせ、重苦しい人物像になっていないのが日本におけるシェイクスピア劇として貴重な成功例となったと思う。
猿之助の存在感が圧倒的なので、もう一方のキリスト教徒側の登場人物たちはどうしても軽くなってしまったようにも思うが、それは今回の蜷川幸雄の演出のねらいなのかもしれないとも思う。
2007年のグレゴリー・ドーランの演出では、アントーニオの方がバッサーニオを深く愛している同性愛関係として描き出し、それに見合ったキャスティングにしていた。ドーラン自身も同性愛者ということを明らかにしている方なので、そこに力点がおかれた舞台にしていたのだろう。
今回の蜷川演出ではそういう解釈にせずに、アントーニオは裕福で名声も備えた商人で気に入ったバッサーニオのパトロンになっているという関係のようだった。そこらへんはアントーニオの方が命をかけてもいいくらいバッサーニオには惚れ込んでいるということが伝われば、物語としては成立するだろうという感じで今回のような描き方もありと思った。
ちくま文庫の松岡和子訳『ヴェニスの商人』を読み直している。松岡さんの解説で、当時の英語にあった二人称のyouとthouの使い分けにこだわって人物の関係性を読み解いたというのが興味深い。
戯曲を読んでもやっぱりアントーニオはバッサーニオがポーシャのところに求婚に行くのを複雑な態度で見送っているのが明らかで、そこらへんは面白くはある。妙齢なのに奥さんがいるように描かれていないというのもやっぱりそうなんだろうとは思うが(笑)
ベルモントの巨額の遺産相続人ポーシャと侍女のネリッサもオールメールシリーズならでのお遊び感覚が生きた。戯曲によると惚れ込んだグラシアーノが美しいと誉めるネリッサを岡田正にしたことが、コメディ要素を倍にした。侍女を3人並べて「金、銀、鉛」として鉛のネリッサを選んだというグラシアーノの台詞は戯曲にはないので、戯曲への変更を加えない蜷川公認のアドリブか?!
ポーシャの父が遺言で娘の婿には「見栄えで判断しない男を」という願いを託したことが、結果的には実ったわけで、それをポーシャが信頼する侍女を選んだ男にも同じような人物だったということで、祝祭感も倍増されている。
若手による女形ぶりはオールメールの楽しみのメインだが、今回のポーシャの中村倫也、ジェシカの大野拓朗の二人はいずれも声も姿も申し分がない。特に中村倫也のポーシャは惚れ込んだバッサーニオが父の遺言に従った「箱選び」で失敗したらどうしようというところでの逡巡の場面で、あまりにも可愛らしさが炸裂していて驚いた。オールメールの綺麗どころ月川悠貴が今回は不在だったのであれ?と思ったが、彼の持ち味は硬質な美しさなので今回は使わなかったのだろうと納得した。
それにしてもポーシャが出かけた留守を守るジェシカとロレンゾーの会話の中で「トロイラスとクレシダ」への言及があった。なんとうまく連動させているのだろうとSSSシリーズの企画の妙にも舌を巻いた。シェイクスピアー全37作品上演まであと9作品だという。これはしっかりと伴走して観続けなくてはと決意する。
ポーシャとネリッサが若き法学博士と書記に男装しての法廷場面は、法廷内で他の人物に近寄られて女であることがばれないかとヒヤヒヤしながらの論戦も実に面白かった。これはシェイクスピアの時代の男性だけの上演と同様な感覚なんだろうと嬉しくなる。
契約の履行という正義を振りかざすシャイロックと慈悲を求めるキリスト教徒。そこに若き法学博士が乗り込み、ついにシャイロックの「正義」を逆手にとってたたきつぶす。
「あくまで正義をと迫ったのはお前だ、だからお前が望む以上の正義をかなえてやるのだ」
「正義」という言葉に思わず反応!
「正義なき平和」と「平和なき正義」のいずれが大事なのか??今の政権は後者が大事というだろう。国民の多くもそれになんとなく引きずられがちだ。しかしながら、「正義」というものは相対的なもので絶対のものではないということを考えると、絶対ではない正義のために平和がおびやかされ、そこでつらい思いをするのは一握りの為政者ではなく、少なくない民衆なのだ。そう、「正義」というものは絶対ではないことを肝に銘じよう。
アントーニオの命をねらうような契約を迫った罪で、シャイロックは全財産を没収されることとなる。シャイロックはうちのめされ、キリスト教徒の慈悲はいらない、命をとれと言う。それをアントーニオの申し出た2つの条件、キリスト教徒に改宗すること、駆け落ちして改宗した娘の婿に遺産相続をさせる譲渡証書を書くことを約束させることで放免となった。キリスト教徒たちによる冷笑、嘲笑がシャイロックの惨めさを際立たせる。
上手の舞台から、客席通路を通ってのシャイロックの引っ込みは、さながら歌舞伎の座頭役者の花道の引っ込みのようで、右の脇席に陣取っていた私はその姿をずっと追ってしまった。(偶然にも右列がとれたことに感謝!)
男装した2人組は恋人たちを懲らしめるために約束の指輪を御礼と無理矢理にもらっておいて、後から勝手に人にやってしまったという痴話喧嘩を引き起こし、法廷での活躍もすべて明かしての大団円。
ところが、ここでは終わらないのが今回の蜷川演出マジックである。
左右に開くオペラの時のような幕の間からシャイロックが登場する。首には法廷で侮蔑的に投げかけられたロザリオ(同じものではないのは双眼鏡ですぐにわかったが)。右手でその十字架をひきちぎり、右掌を客席に向けて掲げて握りしめる。キリスト教徒の今回の仕打ちへの怨み憎しみを全身でにじませる。その十字架を握りしめた掌から鮮血があふれ、舞台にしたたり落ちた。シャイロックの魂は傷つき、その傷からは血がしたたった。
これは十字架にかかったキリストと同じではないか?
こうして、宗教対立、異なった価値観の人々の不寛容によって、お互いに傷つき、復讐をえんえん連鎖していっているのが、いまの人間の姿だということの象徴なのだろうか??
今回のプログラムも充実している。小田内隆氏の「『高利貸し』ユダヤ人のイメージの歴史的背景」、水落潔氏の「シェイクスピアと歌舞伎」もよかった。
特に蜷川・猿之助対談が面白い。二人が芸術家として相思相愛の中で今回の舞台が生まれたことがよくわかる。さらにシェイクスピア作品を離れても一緒に何かやろうという話のところでは、そんな舞台は絶対に観てやろうという気持ちでわくわくしてしまった。
そういう舞台も力にしながら、人生の後半戦をなんとか生きていきたいものだと祈るような気持でもある。
さぁ、これから歌舞伎座の花形歌舞伎で新作「陰陽師」を観に出かける。出かける前にアップをするという課題は頑張って達成した。行ってきます(^_^)/