ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

09/06/13 銀河劇場「炎の人」市村正親渾身のゴッホ!

2009-06-16 23:59:32 | 観劇

遠い昔、TVをつけたら劇団民藝の滝沢修主演の「炎の人」の一場面をやっていてしばらく見入っていた記憶がある。ロートレックが出ていたからタンギーの店の場面だろう。
それから上野の美術館のゴッホ展も一度観に行っている。玲小姐さんと高校時代にご一緒していたことが一昨日の夕食時に判明。すっかり忘れていた(^^ゞ
それから創元社「知の再発見」双書の『ゴッホ―燃え上がる色彩―』も古本屋で買ってしっかり読んでいる。画家の中で一番追求している人物だ。エネルギーのほとばしるようなゴッホの絵はそこまでしないではいられなかった。
さて、私の贔屓の市村正親がゴッホを演じるとなればやはりはずせず、しっかり観に行った。その日の簡単な記事はこちら
【炎の人】以下、銀河劇場のサイトより引用、加筆。
<スタッフ>
作=三好十郎 演出=栗山民也
<あらすじと主な出演者>
ベルギーの炭坑町で宣教師を志したヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(市村正親)だが、並はずれた献身ゆえに解雇され、放浪の果てに生きる道を絵画に求める。
オランダの首都ハーグに移り住んだヴィンセントは弟テオからの僅かな送金を頼りに修行を始め、やがて酒場で知り合った哀れな貧しいモデル、シィヌ(荻野目慶子)と同棲する。世間の嘲笑を浴びながら身重のシィヌをモデルに売れない画を描き暮らすヴィンセントに画業の師でもある従兄のモーヴ(原康義)は絶縁を告げ、シィヌもまた去っていく。悲嘆に暮れるヴィンセントの心を慰め、力づけてくれるのは弟のテオ(今井朋彦)だけだった。
孤独なヴィンセントは花の都パリに向かう。若い印象派の画家たちの色彩の新鮮さに刺激され、タンギーの店で、ロートレック(さとうこうじ)やシニャック(原康義)、ベルナール(斉藤直樹)やゴーガン(益岡徹)らと画論をたたかわせる。ゴーガンの才能はヴィンセントにとって憧れであると同時に憎しみすら覚えるものであった。ただひとり独自の技法と世界を追い求め、憑かれたように絵を描きつづけるうちに、肉体と神経はみるみるすり減っていくゴッホ。
パリの喧騒を逃れヴィンセントは、アルルの明るい陽光の中、ついに待ち望んだゴーガンとの共同生活が始まる。美しい田園風景と妖精のような踊り子ラシェル(荻野目慶子)のやさしさに癒されるヴィンセント。テオのために、と変わらない飢えの中で描き続けるヴィンセント。彼の真の才能を理解していたのはゴーガンだけだったが、強烈な二つの個性は激しくぶつかり合うことになる。そして、ヴィンセントに狂気の発作が起こる・・・・。
<その他の出演者>
渚あき、荒木健太朗、野口俊丞、保可南、中嶋しゅう、大鷹明良、銀粉蝶

第一幕の炭鉱でのゴッホ宅の場面。閉山ぎりぎりの収益の上がらない炭鉱でのストライキの炭鉱夫たちの代弁者としてゴッホが会社との交渉に出かけているのを待つ鉱夫(中嶋しゅう他)たちの会話で時代とこの地域の悲惨な状況がわかる。そこに会社側が連絡したためにゴッホの教会の上部の牧師(大鷹明良)がやってきて様子をつかみ、何の成果も引き出せずに戻ったゴッホが鉱夫たちに詫びながら神が見えなくなったと嘆く言葉尻をとらえて解職を宣告。
この場面はとにかく暗いが、実はかなり重要だと思えた。物事をつきつめて考えてしまうゴッホの性格も、貧しく不幸な人たちにできる限りのことをしないではいられない人柄もよくわかる。続く場面でゴッホが描く絵がとにかく暗いのもそういう経験を引きずっているのだとわかる。

ハーグでのシィヌとの暮らしがとにかく哀しい。モデルだけでは食べられずに身体を売っては父親の違う5人の子供を産み、ゴッホを父としない子を身ごもるシィヌ役の荻野目慶子とツケを回収しにきた売春も斡旋しているルノウ役の銀粉蝶が実にハマっていてよかった。ここで登場するテオ役の今井朋彦とは「デモクラシー」でも一緒に組んでいる中だが、兄への愛情あふれる実にいいテオだった。次の幕では兄との同居で生活がかき乱されることを愚痴りもするが、兄はテオの生きがいでもあることがよくわかる。

パリに出て画材を売るタンギーの店での場面は賑やかでいい。ゴッホは印象派の明るい色やいいと思った技法は次々と取り入れて次から次へとものすごいペースで絵を描いている。パリに後から現れた変わった男の作品は先輩作家たちの目を集めるが、その荒削りさは批判をも招く。作画方法論についての議論はゴッホが加わると白熱。ゴッホは熱くなり過ぎて見境をなくす。ここらあたりから後の狂気につながる気質を持っていることがわかる。神を見失ったゴッホが次に追求したのが対象として描く物の実態に迫ることだった。
この場面では大鷹明良と銀粉蝶がタンギーと夫人に扮するが、芸達者ぶりを堪能。名作「タンギー爺さん」の絵もこうして生まれたのかとわかるのも嬉しい。

静養も兼ねて気候のいいアルルで明るい太陽の下で貧しい画家たちが共同生活をしながら思い切り絵を描くというゴッホのプロジェクトがスタート。乗ってくれたのはゴーガンだけ。ゴーガンは後にタヒチに移り住むくらいだから街暮らしへの愛着がなかったのだろう。
先に家も借りて待つうちに知り合った若い酒場女のラシェルをゴーガンにとられるという心配もでき、自分の絵を歯に衣着せずに批評するゴーガンの言葉を歪んで捉えてしまうのはゴッホのコンプレックスのなせるわざか。
ゴッホが狂気の発作を繰り返し、ヒマワリの絵も自ら切り裂いているのにその記憶もなくし、ひたすら猜疑心に陥るのを見てゴーガンはタヒチに去ることを告げる。ゴッホが片耳の一部を切り落としてラシェルに会いに出て行く幕切れ。
シィヌとはまた違ってゴッホへの素直な愛情をもつ若い女を演じる荻野目慶子が可愛く、いい女優になったなぁと感心。
ゴーガンの益岡徹は舞台で見て一番いいと思えた。身体も態度も大きくてゴッホの痩せて自信のない様子との対照がきいている。倒れたゴッホを肩に組むとひょいと持ち上がってしまう様子に、この人を失ったらゴッホは正気でいられないだろうというイメージにつながった。

市村正親はまさに渾身のゴッホだった。普段から絵を描く趣味があるらしいが役作りでゴッホの模写を何枚も描いてロビーにも飾られていたが、絵を描く場面も実に画家そのもの。役者として突詰めて演じるタイプだし突詰める生き方をしたゴッホはこれから生涯の持ち役にするだろうことを予感させた。

最後のエピローグはその後のゴッホの生涯の概説とゴッホへの作者のメッセージの場面となり、こんな場面のある芝居は初めてなので少々面食らった。プログラムによると作者の三好十郎という人は私小説ならぬ私戯曲的な作品を書いた人ということなので、まさに最後の呼びかけは三好がゴッホへの共感をこめたメッセージなのだろう。1951年に民藝で初演されたが依頼されての書き下ろし作品だという。さすがに半世紀以上経た作品であるし民藝向けであるし、その頃の新劇の新作ってこういう感じなのかなぁという感じがする戯曲ではあった。
以下、中嶋しゅうの声で劇場に響き渡った最後のメッセージの一部。
「貧しい貧しい心のヴィンセントよ!同じ貧しい心の日本人が今、小さな花束をあなたにささげて 人間にして英雄 炎の人、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに拍手をおくる!飛んで来て、聞け 拍手をおくる!」
この「貧しい」という言葉はそのまま受け取ればよくわからず、捻りのある言葉だと捉えれば悩み苦しんでいる仲間くらいの感じだろうか?とにかく礼賛するのではなく、共感を持って描ききったのだと思う。

栗山民也の演出は戯曲そのものが何を言いたいのかをとことんつきつめるタイプ。ビジュアルにも緻密な計算があって、回り舞台を使った場面転換も、舞台の枠も額縁になり舞台全体が絵画に見えるようになっている舞台装置も含めて堪能。市村正親とは「氷屋来たる」以来2度目のタッグで、彼の魅力を存分に引き出している。そういえば中嶋しゅうも「氷屋来たる」のキャストの一人だったっけ。
とても重い内容の芝居だったが、いろいろと考えさせられる舞台だった。

写真は今回の公演のものが見当たらずりゅーとぴあ公演のチラシ画像。ゴッホの絵と市村ゴッホの写真のコラージュが好ましい。