ぶらぶら人生

心の呟き

サクランボとヒヨドリ

2007-05-02 | 散歩道
 最近、日々気になる「木の実」といえば、サクランボである。
 海を背にして、坂道を登ると、ほぼ上り詰めたところに、実をつけた桜の木が、数本ある。いずれの木も、それは見事なほど実をつけている。枝を低く垂れた小枝にまで、たわわに実がついているので、熟す前から色づくのを楽しみに眺めてきた。

 今年、最も早く花を咲かせた桜の木々である。3月1日のブログに、「桜 1号」と題して書いた花が、今サクランボに変身しているのだ。
 最近は日ごとに色づきを増し、惚れ惚れするほど艶やかである。(写真)
 そのサクランボのことを友達に話すと、昔からあの桜は沢山実をつけるが、一夜にして、ヒヨドリに食べられてしまう、とのことであった。勿論、<一夜にして>というのは、誇張表現だろう。
 その話を聞いて以来、いつヒヨドリが現れるのだろうかと気になった。毎朝桜の木の下に近づくと、サクランボの健在な様子にほっとしながら、鳥の気配を窺ったものだ。
 ヒヨドリは色を識別するのだろうか。
 かなり赤く色づくと同時に、ヒヨドリの影を折に見かけるようになった。が、暫くはその数も、そう多くはなかった。
 ところが、ついに昨朝、その数、30羽以上に達したのだ。葉蔭で実を啄ばんでいたらしいヒヨドリたちは、折から通り過ぎた車の音に驚いて、一斉に飛び立ったのだ。私もびっくりして、思わずオウと声あげたほどだ。なかなか壮観な眺めであった。

 美しい実が、みんなヒヨドリの餌になるとはもったいない話だが、どうしようもないのだろう。そんなことを思いながら、最後の坂を上っていると、一番背の低い桜の木にだけ赤いネットがかぶせてあった。急激にヒヨドリの数が増え始めたところで、木の所有者のとられた計らいなのだろう。<少しは俺たちに残して置けよ>といった思いなのかもしれない。サクランボの美しさを楽しむ私からすると、張られたネットのために風情をそがれてしまったが、それは仕方のないことだ。
 
 散歩のおかげで、木に実った桜桃の見事さを眺めることができ、ヒヨドリの飽くなき食の旺盛さまで眺めさせてもらうことになった。所有者のはかない抵抗の姿勢も。
 だが、まだ暫くは、美しい実の輝きが眺められるだろう。その数は相当なものだから……。
 しかし、それは私の願望であって、突如、実のない葉桜の姿に変身しないとも限らない。梢を見上げる楽しみを、できるだけ長く奪わないで欲しいのだが……。 
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梅の実

2007-05-02 | 散歩道
 草花舎の小梅の実は、庭を散歩するごとに見上げるのだが、他家の梅が実をつけているのに気づいたのは、この朝が初めてだった。
 N老人宅の庭に実る梅。(写真)

 私の散歩時間が遅かった冬の間は、全く出会うことのなかった、ビーグル犬を連れたN老人に、最近は道中ですれ違う日が多くなった。
 相変わらずビーグルは我侭そうである。従って、犬嫌いの私に吠えかからないように、N老人はいつも気を遣って、出会うごと手綱を引き締められる。
 N老人宅がどんな家族構成なのか知らないが、塀に囲まれた前庭には、木々も多いし、草花も上手に育ててある。
 最近では、君子蘭が5鉢、実に見事な花を咲かせているし、黄色い牡丹も数個花をつけている。百日紅あり、木瓜の木あり、名前の分からない木々や草花も沢山ある。
 余談だが、散歩をしながら、世の中に花作り上手は沢山いるものだと感心する。それだけ、心や財力の余裕があるということなのだろう。とてもいいことである。

 その日、N老人の家の前を通ると、ビーグルは散歩を終えた後らしく、家に帰っていた。暖かくなったせいか、犬小屋には入らず、板縁の上に寝そべっていた。居眠り中なのか、起き上がって吠えることもしなかった。
 私は安心して、塀越しに、いつものように植物を眺めた。
 人間の目は、細やかに観察しているようでいて、意外に見落とすことが多いのかもしれない。特に私は、関心が一点に集中しやすい気性のようだ。だから見落としの名人でもある。最近で言えば、庭空間の中で、君子蘭や黄牡丹にのみ視線を注ぎ、他を見ようとしなかったように思う。
 気まぐれに見上げた梅の木の枝に、初めて、実が沢山なっているのに気がついたのであった。考えてみると、小さな実が徐々に成長してゆく過程を全く見ていなかったようだ。突如目に飛び込んだ梢の青い実は、それぞれに雨滴をつけ、一部にほのかな紅色を帯びて、<命漲る!>といった感じであった。
 結実の姿を佇んで眺め、心が弾んだ。今日のささやかな幸せ!

 いずれ梅の実は収穫され、加工されるのだろう。
 枝々から梅の実の姿が消えるまで、当分はN老人宅にさしかかると、梅の木を見上げるに違いない……。
 
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5月の海

2007-05-02 | 散歩道
 前夜、もうお月様が上る頃だろうと、窓を開けてみた。十三夜の月影を想像しながら。
 お月様どころか、雨が降り始めていた。そういえば、天候は下り坂だと報じていた。
 窓を閉めながら、<明日の散歩はお休みね>と、自分の心に語りかけて、少々嬉しい気分になった。何も歩くことを強制されているわけでも、義務として嫌々歩いているわけでもないのに、朝をのんびりできると思うと、ほっとした気分になるのも否めない。

 ところが、朝になってみると、雨は上がり、散歩を取りやめる理由はなくなっていた。
 6時少し前に家を出て、いつものコースを歩いた。昨夜のうちにかなりの雨が降ったのだろうか、草木にはしっとりと雨水がたまっている。あちこちの窪地にも水が結構たまっていた。
 が、5月スタートの朝としては爽やかであった。

 海辺に出てみると、白波も波音もない穏やかな海であった。
 なぜともなく、よい5月になりそうな晴れやかな気分になった。
 深呼吸をする。
 波打ち際に砕ける波もなく、まるで紙漉の漉桁のなかを、水が揺れているような静けさである。
 前日は、お天気がいいのに、波は荒れていた。そういう日が魚釣りに適しているのか、駐車場には、北九州や広島ナンバーの乗用車が幾台か止まり、岩場のあちこちには釣り人の姿が見えた。(考えてみると連休の一日でもあった。)
 この朝は、車もなければ、人気も全くなく、ひそやかな海辺であった。
 視界はすべて自然界の風物のみで、生き物としては、私がただひとりだけ、存在しているかのような、不思議な感覚!
 こんな感覚に襲われるとき、波風の荒い時化の日であれば、沖に向かって思いっきり叫ぶこともあるのだが、あまり静かな海なので、大声を出して、遠い人に呼びかけることもできなかい……。

 帰宅後、部屋部屋のカレンダーをみな5月に変えた。
 気分が新たになる。月の始めのは、いつもそうだが、少し殊勝な気持ちになって、<さて!>、と意気込んでみる。
 
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