最近、日々気になる「木の実」といえば、サクランボである。
海を背にして、坂道を登ると、ほぼ上り詰めたところに、実をつけた桜の木が、数本ある。いずれの木も、それは見事なほど実をつけている。枝を低く垂れた小枝にまで、たわわに実がついているので、熟す前から色づくのを楽しみに眺めてきた。
今年、最も早く花を咲かせた桜の木々である。3月1日のブログに、「桜 1号」と題して書いた花が、今サクランボに変身しているのだ。
最近は日ごとに色づきを増し、惚れ惚れするほど艶やかである。(写真)
そのサクランボのことを友達に話すと、昔からあの桜は沢山実をつけるが、一夜にして、ヒヨドリに食べられてしまう、とのことであった。勿論、<一夜にして>というのは、誇張表現だろう。
その話を聞いて以来、いつヒヨドリが現れるのだろうかと気になった。毎朝桜の木の下に近づくと、サクランボの健在な様子にほっとしながら、鳥の気配を窺ったものだ。
ヒヨドリは色を識別するのだろうか。
かなり赤く色づくと同時に、ヒヨドリの影を折に見かけるようになった。が、暫くはその数も、そう多くはなかった。
ところが、ついに昨朝、その数、30羽以上に達したのだ。葉蔭で実を啄ばんでいたらしいヒヨドリたちは、折から通り過ぎた車の音に驚いて、一斉に飛び立ったのだ。私もびっくりして、思わずオウと声あげたほどだ。なかなか壮観な眺めであった。
美しい実が、みんなヒヨドリの餌になるとはもったいない話だが、どうしようもないのだろう。そんなことを思いながら、最後の坂を上っていると、一番背の低い桜の木にだけ赤いネットがかぶせてあった。急激にヒヨドリの数が増え始めたところで、木の所有者のとられた計らいなのだろう。<少しは俺たちに残して置けよ>といった思いなのかもしれない。サクランボの美しさを楽しむ私からすると、張られたネットのために風情をそがれてしまったが、それは仕方のないことだ。
散歩のおかげで、木に実った桜桃の見事さを眺めることができ、ヒヨドリの飽くなき食の旺盛さまで眺めさせてもらうことになった。所有者のはかない抵抗の姿勢も。
だが、まだ暫くは、美しい実の輝きが眺められるだろう。その数は相当なものだから……。
しかし、それは私の願望であって、突如、実のない葉桜の姿に変身しないとも限らない。梢を見上げる楽しみを、できるだけ長く奪わないで欲しいのだが……。
海を背にして、坂道を登ると、ほぼ上り詰めたところに、実をつけた桜の木が、数本ある。いずれの木も、それは見事なほど実をつけている。枝を低く垂れた小枝にまで、たわわに実がついているので、熟す前から色づくのを楽しみに眺めてきた。
今年、最も早く花を咲かせた桜の木々である。3月1日のブログに、「桜 1号」と題して書いた花が、今サクランボに変身しているのだ。
最近は日ごとに色づきを増し、惚れ惚れするほど艶やかである。(写真)
そのサクランボのことを友達に話すと、昔からあの桜は沢山実をつけるが、一夜にして、ヒヨドリに食べられてしまう、とのことであった。勿論、<一夜にして>というのは、誇張表現だろう。
その話を聞いて以来、いつヒヨドリが現れるのだろうかと気になった。毎朝桜の木の下に近づくと、サクランボの健在な様子にほっとしながら、鳥の気配を窺ったものだ。
ヒヨドリは色を識別するのだろうか。
かなり赤く色づくと同時に、ヒヨドリの影を折に見かけるようになった。が、暫くはその数も、そう多くはなかった。
ところが、ついに昨朝、その数、30羽以上に達したのだ。葉蔭で実を啄ばんでいたらしいヒヨドリたちは、折から通り過ぎた車の音に驚いて、一斉に飛び立ったのだ。私もびっくりして、思わずオウと声あげたほどだ。なかなか壮観な眺めであった。
美しい実が、みんなヒヨドリの餌になるとはもったいない話だが、どうしようもないのだろう。そんなことを思いながら、最後の坂を上っていると、一番背の低い桜の木にだけ赤いネットがかぶせてあった。急激にヒヨドリの数が増え始めたところで、木の所有者のとられた計らいなのだろう。<少しは俺たちに残して置けよ>といった思いなのかもしれない。サクランボの美しさを楽しむ私からすると、張られたネットのために風情をそがれてしまったが、それは仕方のないことだ。
散歩のおかげで、木に実った桜桃の見事さを眺めることができ、ヒヨドリの飽くなき食の旺盛さまで眺めさせてもらうことになった。所有者のはかない抵抗の姿勢も。
だが、まだ暫くは、美しい実の輝きが眺められるだろう。その数は相当なものだから……。
しかし、それは私の願望であって、突如、実のない葉桜の姿に変身しないとも限らない。梢を見上げる楽しみを、できるだけ長く奪わないで欲しいのだが……。