現在ROSSO E AZZURRO「第一聴」中。
映画と原作小説の場合は「見てから読むか、読んでから見るか」という言葉があるように、アルバム発売前にLIVEで見て確認し勢いをつけられる幸福もあれば、「LIVE前」に先にアルバムをビジュアル抜きの自由イメージ可で「耳」から摂取できるという幸福もある。自分の場合は今回後者である(逆に、まだLIVEを見ていないので、この「音」が「いわゆる雑誌の表紙を飾るとかテレビで愛嬌をふりまいているとかの堂本剛氏」といった像と、自分の中では実はまだあまり結びついていない。これがどう実物とつながるのかは見ないとわからない)。
LIVE前の予習として「耳」で気になった曲目を先に言及しておこうと思う(全曲ではない)。
LIVEパフォーマンスが加わった演奏曲とCD収録曲では印象が変わってくるだろうから、比較しても面白かろう。今後雑誌記事やラジオなどでの本人のコメントも加えられると思われるので、参考としていきたい。…※常々、KinKiのCDにがっちりしたライナーノーツがないのが不満(それゆえ種々雑誌記事等を研究・参照しなければならない。もしマジで企業が商業戦略として「30代以上購買層狙う」(日経エンタ9月号)なら、その辺いかがなものでせうか?凝ってもゼニにゃならんですか?>JE御中)なため、その勢いでまた勝手にいい加減なことを書いているが…後程改訂しながら検討したい。
1、心の恋人
「D-album」付近以降「なぜ剛氏は声にリキはいってるのか」(光一氏とのコーラスのバランス上なのかアレンジ上の問題なのか単に好みなのか)、C以前の声のように「抜いてる」のと緩急硬軟使い分けてもいいんじゃないか、という感想が正直あった。シンプルコードすぎる曲の場合、ケレン味が強すぎるかもしれない。今回の新作ではこの現状の「声」をどう扱う「曲」が来るのか、(さらに言えば「いわゆる剛ソロ曲=長調バラード」的なのが延々と来るのか、といった従来曲からの先入観・イメージのようなものもあり)その辺が実は最も気になるところではあった。
が、このM-12曲を聴いてちょっと気がついた。「この楽器の色」とサビのコードのテンションの高さなら「この声」がアリ、である。フェイクも。「こういうのをやりたい」と思っていて、全般的に「こういう声」に変化しているという経緯なのか、と一番思ったのが、この曲。
「不安は素敵なんだよ、昔より説得力はないけど…」逆説的な詞(KinKiの中では「つよし色」っぽい屈折系。J-popなどでありがちな詞だ、という考え方もあろうが、「剛が歌う」ことで付与される「意味」が「多義誤読可能」なところが重要^^→後述)は、確かに少年合唱団的でなく、こういう声で「演じられる」べき(笑)かと。
アレンジは「Back Fire」作曲・「キミは泣いてツヨくなる」「Peaceful World」など多くの編曲でおなじみ石塚知生氏。中道勝彦氏のピアノも渋いです。でもってそうる透先生!これLIVEメンバーは違うかもしれませんが、生で聴いてみたいです。
2、We Never Know
うおい。キャッチーやんけ。イントロからしてUKな刻み(「アーチスト」を標榜する普通ありがちなバンドものならこういうのを真っ先にsingleにしそうな曲)。
従って歌詞だけ見ると一見KinKiぽく応援歌風だったりしてもオトが全然「いわゆるKinKi」っぽく無い、といえようか?(そういう線引きもどうかと思うが)のの一つ(笑)。アレンジは、「あのときの空」や、最近作の“堂本剛ロックもの”編曲などでおなじみの知野芳彦氏。
3、GIRASOLE
これもキャッチーな感じするけどね。高くかわいいとこから入ってきます。「僕が言う優しさとか…」の林部直樹氏アレンジ。どんどこ、走る走る。
4、Purity
ねっ、Oasis好きでしょ?ねっねっ(なんだか、親近感があるぞ^^)アレンジは知野氏。
5、Panic Disorder
ちゃんと聴くと浮遊するスケールのでかい曲なのだった。Stringsも。やはり知野氏アレンジ。バッキングボーカルがつよしさんとなっているが、この高いのもそうですか?
6、花
鶴田海王氏アレンジで林部氏がperc.やギターなどに入っている。「つないでくように」の「に~」のところの抜き方と、アコギの入り方が好きだ。※1998年偶然最初に飛び込んだ会場で聴いたはず。自分的に初めて生で聴いた剛ソロで「声」に内心驚愕した記憶あり。(その時は、もうちょっとマイナーコード部分が多かったような気もするが…こういう曲だったかな?)
7、歩き出した夏
紙飛行機(2000夏)…も懐かしい「いわゆる剛バラード」なのだが、間奏以降のギターとオーケストレーションの広がり方が、こうして聴いてみると結構気になる。鶴田海王氏アレンジ。
4、5、6、7はコンサート等では会場音響設備の影響の関係か(※時々、ドーム等は上と下とで音が二重に割れたりする現象が起こる)、特に4、5は轟音で、それぞれ、いまひとつオト的によくわからなかった曲だけに、CD音源化でようやく作品としての全貌が見えた気がする(もちろん、ライブの時の状態より、構成やアレンジなど改編がみられるように記憶する)。
※自分が「キャッチー」と思っても、多分そういうものほどラジオなどでかかりにくいかもしれない(爆)ので謝っておきます。
基本的にKinKiアルバム等でもおなじみの音色のスタッフが動員されつつムードを変え、その上にゲスト協力スタッフが加わっているという印象を受けた。こういうのはこういうのでまとまるとまた一つの世界観になるのだったと再認識。
おっと、堂島先生や「すかぱら」なところは全然触れていないので、機会があれば後に。
歌詞についても後程。「今ある限りを伝えたい」。←この言葉が何を意味するものなのか、解釈の多様性はともかく(商品性にしても本質性にしても)、これはやはり「堂本剛」という人が歌うことによって発生してくる「意味」、「物語性」が、重要だ(別に、人類あまねく万民にとって重要だと主張する気はない。“物語”をこよなく享受する読者にとって、だ)。と、私は思っている。
…少し前にインタビュー記事を読んでいた時、「なぜ堂本剛が突然、太宰治リスペクトなのか?」と思ったものだが、今回アルバムを聴いていて、単純に“女言葉の使用”云々に限る問題ではなく、何となく「…そうかもしれない」と直感するところがあった。まだ現段階ではうまく言葉で説明できないが、いい表現が見つかったら書いてみたい。宿題。