Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

グノーの「アヴェ・マリア」、聖なる響き

2008-01-31 07:54:36 | 古典~現代音楽フランス編
昨日はウォーキングを休みました。
今回触れる曲は1818年生まれのグノーの「アヴェ・マリア」。
バッハの平均律第1巻の最初のプレリュードを、
使っていることで有名な曲である。
1859年に作曲されたこの歌曲は、
3分ほどの短い曲ではあるが、
美しさをもった名曲の一つである。

グノーは声楽や宗教曲の分野で、
知られるようになったようだが、
私が持っている声楽曲はこれしか今はない。
でも、バッハの作品の旋律を使うにせよ、
グノーの手にかかれば、フランス的な香りがついた
美しい歌曲に変身してしまうのだからすごい。
しかも、バッハの曲にはなかった
敬虔な宗教的な歌曲になってしまうのだから、
よくまあ、そんな発想が思いついたなあと
感心してしまうのである。
遊び心でバッハの平均律第1巻のプレリュードを
ピアノで弾きながら、これにメロディをつけたら
どうなるんだろうかをやって出来た曲なんだろうか、
などと勝手に想像してしまうのである。
それにしても名曲である。
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ブーレーズの「婚礼の顔」と「水の太陽」を聴きながら西谷から二俣川まで歩く

2008-01-30 06:40:06 | 古典~現代音楽フランス編
昨日は西谷駅から二俣川まで歩きました。
途中聴いたのはブーレーズの「婚礼の顔」と「水の太陽」。
ブーレーズは1925年生まれの作曲家であるが、
現在は指揮者としての活躍の方が目立っている。
代表作は「プリ・スロン・プリ~マラルメの肖像」
「主のない槌(ル・マルトー・サン・メートル)」
あたりになるだろうが、今回聴いた作品は、
これら2つの作品の前に作曲された初期の作品である。

「婚礼の顔」は、1946年に作曲され(のち改訂)、
シャールの詩を用いた作品で、5章から構成されている。
1章「案内」、2章「重力」、3章「婚礼の声」、
4章「エヴァドネー」、5章「後記」である。
曲はソプラノとアルト、そして合唱と管弦楽による作品だ。
いかにも当時としては前衛的な音楽らしいが
聴いているとこの音楽の流れは確実に、
20世紀の日本の作曲家に多大な影響を与えている感じがする。

「水の太陽」は1948年に作曲された作品で、
シャールの詩を用い、その後作品は何回か改訂されている。
曲は第1章「恋するトカゲの嘆きの歌」と
第2章「ソルグ河(イヴォンヌのための歌)」で構成される。
「婚礼の顔」と比較すると、作曲家としての成長も見られ、
第1章は歌と管弦楽の合奏の部分が分かれていて、
音楽として聴くにはこちらの方が聴きやすい。
それにしても現代音楽とはいえ、これらも今や古典。
ブーレーズの作曲家としての道は、
今どこを目指しているのだろうか。
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サティの「ソクラテス」と「貧者のミサ」を聴きながら横浜から和田町まで歩く

2008-01-29 11:14:29 | 古典~現代音楽フランス編
昨日は横浜から和田町駅まで歩きました。
途中聴いたのはサティの「ソクラテス」と「貧者のミサ」。
エリック・サティの音楽については、高校時代から聴き始めた。
「ソクラテス」のレコードも何度も聴いたものである。
高校時代の時は、ソクラテスについて関心を持ち、
倫理の授業でソクラテスの話の中で出てくる
ダイモン(ダイモニオン)について発表をしたものだ。
それは簡単には「内なる良心の声」と言えるかもしれない。
必ずしも十分な説明ではないかもしれないが、
ソクラテスが何かをしようとした時に、
この「内なる良心の声」が聴こえて来たことがあったようだ。

さて、サティの「ソクラテス」は、1918年に作曲され、
1920年に初演された代表作である。
一見表情のないような音楽の中、
歌は歌うというよりも、語りかけるという感じで展開される。
曲は「ソクラテスの肖像」、「イリアス河の岸辺」、
「ソクラテスの死」の3部から構成される。
そこにドラマティックな歌い方も音楽的な仕掛けもないのだが、
淡々と音楽が流れていく中、静かにドラマは展開されていく。
高校生の時に初めてこの曲を聴いたときに、
イメージするドラマティックな展開の音楽ではない、
不思議な音楽の作り方に感心してしまったのは言うまでもない。

「貧者のミサ」は1895年あたりに作曲された作品で、
オルガンと合唱によるこの作品は、
一番最初の「主よあわれみたまえ(Kyrie eleison)」と
「主は言われた(Dixit Domine)」のところで
合唱が登場するだけで、「オルガンの祈り」以降は
オルガンの独奏となっているところがユニークである。
サティにしてはやや保守的な感じもするが、
1890年代にサティはジョセファン・ペラダンが創始した
薔薇十字教団公認の作曲家となったが、
その後ベラダンとは絶縁して、自ら教会を設立したようだ。
それも「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」
しかも信者はサティ一人だけ。
「貧者のミサ」はこの教会のミサ曲として作曲したという。
さすがやることがサティである。
この曲には彼の決然とした思いが、
秘められているようでもある。
でも、なぜ合唱は最初だけなんだろうか。
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ベルリオーズのオラトリオ「キリストの幼時」を聴きながら横浜から和田町まで歩く

2008-01-28 03:53:10 | 古典~現代音楽フランス編
昨日は横浜から和田町駅まで歩きました。
途中聴いたのはベルリオーズの「キリストの幼時」。
ずっと前から買っていたが、聴いていなかったCDで、
レッジャーがイギリス室内管弦楽団を指揮した盤だ。
1854年に作曲され、有名な幻想交響曲を作曲してから
20年以上も歳月が経っているが、ここでみせる彼の音楽は、
時に斬新な部分はあるが、むしろヘンデルなどのような
バロック・古典的な部分を感じさせる音楽である。
第一部の対位法的な旋律の扱いをしている音楽を聴くと、
マーラーなどの音楽への影響を感じてしまうほどである。

印象的な場面は、第2部エジプトへの逃避の場面で、
「聖家族の憩い」のところでの語り手の歌と、
第3部「サイスへの到着」のところでの
マリアとヨゼフが町を歩きながら、
自分たちを助けてくれる人々を探し、
ローマ人やエジプト人に断られながら、
最終的にはイスマエル人の家の家長に助けられる場面である。
この場面の中では、歌と合唱の間に間奏が入る。
2つのフルートとハープで演奏される場面で、
フルートを吹いているのがウィリアム・ベネットである。
そういったところが、少しありがたい。
幻想交響曲で聴くベルリオーズとは違った音楽を,
ここでは聴くことができ、それはそれでおもしろい。
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ビゼーの歌劇「真珠取り」を聴きながら二俣川から湘南台まで歩く

2008-01-27 07:04:54 | 古典~現代音楽フランス編
昨日は二俣川から湘南台駅まで歩きました。
途中聴いたのはビゼーの歌劇「真珠取り」。
CDで以前ビゼーの歌劇であることは知りながら、
作品名は知らずに買い、今まで聴いていなかった。
今回全曲を通して聴くことにしたのだが、
ちゃんと調べてみると「真珠取り」であることがわかった。
CDの演奏はライブ録音で、ルッフィーニのソプラノ、
モリーノのテノール、プラティコのバリトン他のソリストと、
スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、
ピアンティーニ指揮のイタリア・オペラ国際管弦楽団である。

ビゼーの歌劇「真珠取り」は、1863年に作曲された作品で、
スリランカ(セイロン)を舞台にした作品だ。
主要な登場人物は、部族の長ズルカと漁師のナディール、
レイラとバラモン僧のヌラバッドである。
3幕ものの歌劇ではあるが、聴いた感じとしては、
第一幕がとてもよく出来ているのに比べると、
第二幕以降が少し物足りない気がする。
魅力的な曲が第一幕に集中しているということなのかもしれない。

あらすじは、セイロン島の浜辺、
漁師の村の部族の長ズルカのところに
真珠とりで彼の友人であるナディールがやってくる。
二人はかつてレイラという女性を愛して争ったことがあったが、
その過去を流して、親友としての友情を誓う。
それが第一幕の「Oh,oui! Jurons de rester amis!‥‥」以降の二重唱だ。
尼僧となっていたレイラは真珠とりの安全を祈るために、
バラモン教の高僧ヌラバッドとこの地を訪れる。
彼女の声を聴いたナディールはその声がレイラだと分かり、
彼女への想いを断ち切れず、彼女に声をかけてしまう。
その断ち切れぬ思いが有名なナディールのアリアで、
「je crois entendre encore‥‥」以降歌われる。
これを聴いて初めて確かにこの作品は「真珠とり」だと感じた。
なじみのある旋律が登場すると、歌劇も聴きやすい。

二人は駆け落ちをしようと決心する。
しかしそのことを知ったズルカは友人に裏切られたことを知り、
二人に死刑を宣告するのだが、ナディールを慕うレイラの気持ちが、
変わらないことを知り、処刑がなされる前に一帯に火を放ち、
二人を逃がそうとして、民衆の怒りをかい、息絶えるという話だ。
ビゼーの「カルメン」を知っている人からみれば、
まだ若い作品であることはわかるとは思うがその反面、
「カルメン」など後の作品につながるような似た旋律などが、
聴こえたりするところはなかなか面白い。
「真珠取り」なくして「カルメン」なしという感じがするのである。
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