Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

ヴァン・ホルンボーの「ベネディク・ドミノ」を聴きながら二俣川から東戸塚駅まで歩く

2008-03-31 08:37:16 | 古典~現代音楽デンマーク編
昨日は二俣川から東戸塚駅まで歩きました。
途中聴いたのは、ヴァン(ヴァーフン)・ホルンボーの作品。
1909年デンマーク生まれの彼は、1926年から29年にかけ、
コペンハーゲンの王立デンマーク音楽院で学んでから、
1930年にはベルリンで短い期間ではあるが、
エルンスト・トッホに師事したようだ。
1933年から34年にはルーマニアで民謡を研究し、
そこでルーマニア人のメータを結婚したようだ。
その後コペンハーゲンに戻り、1940年から1949年には
コペンハーゲンにある視覚障害者のための教育機関で教え、
1955年から65年にはコペンハーゲン音楽院で
作曲科の教授として働いたようである。
CDの英文の解説書などからは、
そのような情報をつかむことができる。

「ベネディク・ドミノ」という曲は1952年に作曲されている。
6声部からなる合唱曲で、聖書の詩篇130を使用している。
第1曲目「我が魂よ、主をほめたたえよ」は、
厳かな雰囲気で始まり、中間部は軽快な曲調になる。
曲の最後は祈るような音楽になり静かに終わる。
第2曲目「人の日は」は、静かな歌いだしで始まる。
途中、強弱を繰り返すメリハリの音楽になるが、
最後は消えるようにして静かに終わる。
第3曲目「主をほめたたえよ。御使いたちよ」は、
やはり静かな歌いだしで始まり、
途中激しい音楽になるが、このあたりは
ルーマニア民謡を研究していたことによるものか、
バルトークからの影響か分からないが、
そんな影響を感じてしまうのである。
曲は途中ユニゾンの合唱になるが、最後の方では、
各声部に分かれた合唱に戻り、静かに曲を閉じる。
何となく、北欧の合唱曲とは思えない作品であるが、
彼の人生を概観すれば、なるほどなと納得するのである。

なお、前回とりあげた声楽曲・合唱曲北欧編
に関するCD等の情報は、以下のアドレスに載せてあります。
http://www1.ocn.ne.jp/~bocchi07/vocal-music-cd-shoukai.html

を参考にしていただければ幸いです。
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アルヴォ・ペルトの「私達はバビロンの河のほとりに座し、涙した」を聴きながら西谷から二俣川まで歩く

2008-03-30 09:13:08 | 古典~現代音楽バルト3国編
昨日は西谷駅から二俣川まで歩きました。
途中聴いたのは、1935年エストニア生まれのペルトの作品。
「私達はバビロンの河のほとりに座し、涙した」は、
1976年に作曲された作品である。
まるで中世の時代に戻ったかのような、
そんな錯覚を起こしてしまうかのような、
旧約聖書の「詩篇」をテキストとするこの曲は、
素朴で、暖かく、深い信仰心を思わせる。
オルガンの音がやさしく心にしみてくる。

「デ・プロフンディス(深淵より)は1980年に作曲され、
同じく旧約聖書の「詩篇」をテキストとした作品である。
4人の独唱者とオルガンと打楽器によるこの曲を聴いていると、
ゆっくりとした時間の流れを感じるのである。
その感覚は現代では失われつつある感覚かもしれない。
「何年もまえのことだった」は、1984年の作品。
アルトとヴァイオリン、ヴィオラによるこの作品は、
前の二つとは楽器編成も違い、弦楽器が使われるが、
その音楽は、いわゆる吟遊詩人の音楽を思わせる。

「スンマ」は1978年に作曲された合唱のみによる作品。
生まれては消えていく旋律と、その繰り返しは、
単純ではあるが、彼の信仰に対する真摯な姿勢を感じる。
「スターバト・マーテル」は1985年に作曲された作品。
3人の独唱者とヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる
これら演奏者が作り出す宗教音楽は、現代に生きる人々に、
あるメッセージを伝えようとしているみたいに思える。
静かに、ゆっくりと染み入るように心に訴えかけてくる。
今回聴いた曲の中では、劇的な展開がみられ、
動きのある曲といえるかもしれない。
一時期は話題になったアルヴォ・ペルトであるが、
今は当時ほどとりあげられることは少なくなった。
とはいえ、忘れることのできない作曲家である。
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「緑の木の間がくれに」を聴きながら上星川から横浜国大まで歩く

2008-03-29 07:06:05 | 古典~現代音楽フィンランド編
昨日は上星川駅から横浜国大まで歩きました。
昨日は、懇親会で久しぶりに再会した人もいた。
どこで人との再会があるのかわからないものだ。
やはり、人との出会いは大切にしたいものだ。

途中聴いたのは、「緑の木の間がくれに
(Tuoll’ on mun kultani)」。
その他、フィンランドの民謡を集めた合唱曲集である。
なにしろ、「緑の木の間がくれに」は私の好きな曲で、
小学生の頃からよく聴いていた曲の一つである。
素朴なメロディーとさびしげな詩の内容、
それがフィンランド民謡の魅力なのかもしれない。

ヘルシンキ大学合唱団による合唱曲集の中には、
ヒューゴ・アルヴェーンの編曲によるものや、
ツルネン・マルティ(議員で活躍している人ではない)が、
民謡を編曲したものもある。
合唱曲として聴くと、素朴なメロディが、
一層美しく聴こえてきて、心地よいのである。
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ニールセンの「愛の讃歌」と「眠り」を聴きながら横浜から星川まで歩く

2008-03-28 06:41:23 | カール・ニールセンの作品
昨日は横浜から星川駅まで歩きました。
途中聴いたのは、カール・ニールセンの「愛の讃歌」と「眠り」。
カール・ニールセンの「愛の讃歌」作品12は、
デンマークの民俗学者アクセル・オルリックによりかかれたものを
テクストに使った作品で、4部分から構成されている。
最初は「少年時代」、二つ目は「青年期」、
そして三つ目が「成人期」、最後が「老年期」となる。
独唱と合唱と管弦楽のための作品で、
ブラームスの影響を受けていることを感じさせる。
初演は1897年4月27日コペンハーゲンで行われ、
聴衆から暖かく受け入れたようなことがCDの英文の解説に書いてある
彼が結婚して間もない頃なのでロマン風であり、
幸福感が伝わってくるようでもある。

「少年時代」は室内楽的な序奏に続き、
少年合唱によるかわいらしい歌から始まり、
独唱者も加わり、高まりをみせるが、
最後は最初の少年合唱の歌が再び現れ、
切れ目なくテノールの独唱から始まる「青年期」に入る。
「青年期」は管弦楽がドイツ風の
重厚な音楽を奏でながら合唱とからまっていく。
曲は切れ目なく、3曲目の「青年期」に続く。
ソプラノの独唱が中心に展開されていく。
古典様式的な歌とニールセンらしい音楽が、
融合した曲で、合唱が加わり再び重厚な音楽となる。
最後の「老年期」は独唱者たちによる歌から始まる。
バスが中心となってテノールが加わり曲は展開される。
管弦楽は牧歌風の音楽を奏でるが、
最後少年合唱が加わって、独唱者の歌が続き、
曲はいよいよクライマックスを迎える。
鐘の音が加わり、ブルックナーを思わせるような
持続する音の繰り返しの中、輝かしく曲を終える。

もう一つの「眠り」作品18は管弦楽と合唱による作品で、
初演は1905年5月21日、作曲者自らの指揮で行われた。
曲は3つの部分から構成されている。
第1曲は最初の序奏からしてよりニールセンらしさが出ており、
北欧的な音楽が管弦楽によって奏され、合唱が加わり、
緩やかな音楽の中、対位法的な音楽が展開されていく。
第2曲目は全曲中、一番動きのある劇的な音楽である。
合唱とともに激しい管弦楽の音楽が最初奏され、
金管楽器が活躍する場面が多く、盛り上がりを終盤に見せ、
そのあとは静かな音楽へと変わり、そのまま第3曲に入る。
第1曲と同じような眠りの世界に戻っていくような
穏やかで牧歌的な音楽が管弦楽と合唱により展開され、
最後は消え入るようにして終わる。
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アハティ・ソンニネンの「恋は通り過ぎていく」を聴きながら星川から横浜まで歩く

2008-03-27 09:30:52 | 古典~現代音楽フィンランド編
昨日は星川駅から横浜まで歩きました。
横浜近辺の桜の木はだいぶ咲いており、
今週末には満開になりそうな感じである。
浅間町の公園の中の桜も半分以上開花しているようすである。

途中聴いたのは、アハティ・ソンニネンの「恋は通り過ぎていく」。
アハティ・ソンニネン(Ahti Sonninen)は
1914年生まれ1984年没のフィンランドの作曲家である。
「恋は通り過ぎていく(El Amor Pasa、過ぎ去った恋)」作品40は、
1953年に作曲された作品であり、ソプラノ、
フルートおよび室内管弦楽のための作品である。
フィンランドの管楽器音楽のCDの中におさめられている。

「恋は通り過ぎていく」は、4つの曲からなる。
CDの英文の解説によると、
この作品の作曲のきっかけは1953年の冬の時期に、
作曲者のソンニネンが女性の友人アンナ・コッコ-ザルクマンに
ソロ・フルートが一緒に参加できるような
歌の作品はないのといわれたことから始まる。
ならばそれに見合ったテクストを提供してくれよと言ったのに対し、
彼女が提供したのは1836年スペイン生まれのロマン派の文学者
グスターボ・アドルフォ・ベッケル(Gustavo Adolfo Becquer)の詩で、
その2つの詩をもとに最初の2曲を完成させたようである。
その後同じ作家による4つの詩を12の楽器と
フルートを加えた作品に仕上げたようである。

3つの歌はフルートが加わることで、
過ぎ去っていくはかない恋を表現しているようにもみえる。
最初の1曲目では、恋することによるためいきが、
やがては大気(空気)に戻っていってしまうことや、
恋することによりあふれ出る涙は水となって、
やがて海に流れていくように、
恋もやがてはどこにいったかわからないように
忘れ去られてしまうものだといっているようである。
最初管弦楽は曲の導入にしか出てこない。
1曲から3曲の中で次第に管弦楽の導入部が、
次第に長くなっていることが特徴である。
そして3曲目では途中でも管弦楽が一部加わる。
4曲目は管弦楽が歌の伴奏に完全に加わる。
最後は「何が起きたのか?それは過ぎ去った恋」
という意味の歌詞を歌って終わる。

恋とは、何だろう?
後になって考えると、なぜあの頃恋をしたのか
その時の気持ちの高ぶりが、不思議に思えてしまう。
でもその時はその気持ちをおさえられないほど、
真剣になってしまうのだから、
人間の心理というものはおもしろいものである。
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