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はんぐおーば

二日酔いを意味する英語の「はんぐおーば(a hangover)」
まあ“酔っ払い”の言うこと。by.NA-094

ピッポパ…♪:オイ、シンジン!?

2021年03月08日 07時30分29秒 | 寒空小人

新社会人の頃、電話の取り方を徹底的に指導されたことがある。
社内の電話が鳴ったら、
まず(右手が利き腕の場合は)左手で電話機の受話器をとり。
必ずメモを取るように徹底された。
左右のどちらの手で、とっても同じだろう…などと言うものに限って、
受話器を持ち換えようとしながら、
机(デスク)のまわりから、メモとボールペンを探して、
受話器もろとも電話機を落としたヤツまでいたけど。
相手は、用事があって職場の電話にかけてきているのだから、
伝達漏れや未報告が許されるハズもなく。
用件を書き留めておけるように準備するのは、当たり前だとも言える。
“これ”ができない人は、意外なほど多く。
ロクすっぽに用件を聞いていなかったりもする。
ヒドいものになると、相手の名前すら覚えていないことまである。
“あーっ、名前なんて言ってなかったすっよ”
“ウソつけ!張り倒すぞ”となり。
かなり怒られることとなった(ダメじゃん!)。




こんな話も、もう大昔のこと。
職場の新人研修では、色々と指導されたものです。
今でも、あまり頭の良い大人ではないけど。
一般常識もロクに分かってもいなかっただけに、
傍若無人にも思える行動(マネ)をしては、迷惑をかけていました。

新入社員は、怪社員に備えよ!?:ケイカイセヨ

2021年03月04日 22時10分00秒 | 寒空小人

他者に負担を求める上で、最も大切なのは、信頼だけど…。
どんな社会にも、他人をスケープゴートにして、
自分の責任から逃れようとする人間はいる。
そのような行為に味をしめて、
入社したばかりの新入社員まで、そそのかすものまでいる。
終身雇用など、前時代の言葉にも思えるけど。
営利企業にとって、不利益にしかならないような人物でも、
社員を解雇するのは、簡単ではなく。
こんな経験を積み上げている年数もあれば、
かなりタチが悪く、リモートワークの時代でも油断がならない。



まだ20~30代の頃、仕事上の問題でのことを、
「完璧な人間などいない」という実体のない言葉で、
ゴマかされてしまったときがある。
こんな詭弁に振り回されてしまったのは、
仕事の場数を踏んでいなかったから…。
言動と行動が一致していない人物と仕事で関わるときは、
注意しないといけない。
とくにおかしなロジックが働いているとき、
”これは間違っています!”の一言を伝えるだけでも、
1つずつ、突き崩していかなければならないものが多く。

大変な労力(負担と時間)を必要とする。
まあ、善意や好意に見合わない人間だと、見抜けなかっただけのこと。
ちょっとマヌケな話。



偽善としか思えない行為が、美徳のように扱われ、
「善意」や「親切」だと呼ばせる同調圧力を感じるときがあった。
善行は「美徳」であり。
社会において「美徳」が、望まれる人だっている。
それが「善意」という言葉に対して、懐疑的な気持ちにさせる。


チョコレートは、空箱の思い出。

2021年02月12日 07時05分02秒 | 寒空小人
(画像の場所は、JR東日本亀戸駅とアトレ周辺)
数年前、現場の社員へと、本社の営業担当が、
“チョコレートの差し入れ”を持ってきたことがあった。
男性の営業担当者であったもの、ちょうど2月だったことからだった。
バタバタとしていたこともあり、
仕事の後でいただくことにして、休憩所に置かれることとなった。
さて、一区切りもついたから、一緒に対応した同僚たちと…、
「珍しく、本社から“差し入れ”もあることだから、一息入れてもいいかな」
「男からかよ。色気ねぇなぁ」などと言っていたもの。
箱の中は、空っぽ!!
「おいおい、どうしたんだよ!」
「差し入れなんて、調子のいいことを言って、ヌカ喜びじゃねえかよ!」
…となってしまった。
確認したところ。
業務に追われているうちに、
電話番をしていた同僚が食べてしまっていたのが分かった。
「いや~あ、みんな食べないなぁ♪と思ってね。あっはっはは♪」
などとゴマかしていたが、気分が悪くなる話だった。
この同僚は親会社からの出向ということで、
職場に配属されてだけど。
その後、別のことでもタチの悪いマネをしており。
関連する過去の記事⇒
色々とカタをつけられないままとなっている。



「食べ物の恨みは、怖いから、ね」とは言われるけど。
これは、仕事への姿勢や立ち位置の問題。
本社が、わざわざ経費で差し入れを行なったのは、
職場の士気(モチベーション)をあげる意図があってのもの。
それを親会社の身であることを鼻にかけて、
仕事もせず、好き勝手しているような人物が、
貪り(むさぼり)食ったのだから、モチベーションは、一気に急降下した。
しかも、親会社からの“お客様”ということで怖気づいた役職者たちは、
このことを注意することもなく、黙認していた。
これが、より気分を悪いものにしていた。

蛇足:
この物語は、多少の誇張と脚色が加えられており。
年明けだったけど、2月だったかは疑わしい。
それに、全部食われてしまったのだから、空箱など、即、ゴミ箱行き!!
それにして…、
ずいぶんとイヤなことを思い出したものだ。
イヤな思い出を、別(かわり)の思い出で消すこともできない。
こんな気分では、甘いものなど、口に入れる気にもなれない。
だから、辛めのキーマカレーでも食べに行くかな。

今だから言えること、今となっては言えないこと。

2021年02月09日 23時10分00秒 | 寒空小人

数年前…、
「他人(ひと)の善意は、お金には換えられない」という言葉を、
当時の上司から、よく聞かされることがあり。
今でも思い出すことがある。
そして…。
「他人(ひと)の善意には、対価は不要なのだろうか?」
「善意は、タダなのか?」と…、
まるで呪いのように、暗い感情を残している。
(関連する過去の記事「かたり、たかり:逸~誤」)

その後、この「善意の強要」を強いた上司との諍いもあって、
社内で干されることにもなり。
かなり悩まされることになった。



学校教育などでは…、
「人の善意は、お金には換えられない」と教えられる。
また、社会通念上、善意を期待される状況下においては、
多少の不都合があっても、文句は言いづらい。
善意への対価は、善意であるべきだが…。
“なんと言っても、金額を明記できないのですから、ねぇ”
“金額に換算すれば、いくらだか分からない”
“つまり、善意への対価は決まってなく“
“決まっていないのなら、タダでもいいことになる”
…と、言葉に惑わされる訳でもないけど。
「対価をともなわない?」
「値段のつけられないものは、無料(ただ)?」
もちろん…。
こんなのは、他人の善意にたかるクズたちの身勝手な思い違い。




それが、“当たり前”となっていることは、
“何故、そうなのか”を説明するのは、難しく。
そして、“当たり前”のようになっていることが、
明らかに間違っているときも…、
“何が”、間違っているのかを説明するのが難しい。
いつもの生活と行動から、
「善意への対価は、何なのか?」を、少し考えてみた。
他人からの好意や善意をあれば、その負担に報いようとする。
だがら「ありがとう」と言う言葉も、自然に出てくる。
それは「善意への感謝」があるから…。
そうか!!
「善意」への対価は、「感謝」だったのだな。
他人からの善意を、当たり前のように考えるようになれば、
感謝など忘れて、ぞんざいな態度となる。

「君の上司は、とくに悪いことをしている訳でもない」
「だから、善人だ」
こんな言葉ではなかったけど…。
似たような意味のことは言われた。
ミソもクソも、まとめてしまった世界は、狂気か平和か?
正直、分からない。




追記:
煩雑な仕事に追われていると…。
「“面倒なこと”などは、
誰か、他(ほか)の人にやってもらえればいい」

そんな都合のいいことを考え、
押しつけてしまっていることが1つや2つある。
年末調整などの書類は、経理部の人間に任せたままで、
職場のスケジュール調整などは、
希望だけ出して、上司に任せきりでもある。
もちろん、大人の世界では、
一方的に、誰かのお世話になってばかりなどは許されない。
そんな気持ちが、“負い目”となっていたのだろうか?
今、考えれば、無能なブラック上司だったと分かるけど。
そう言い切れるほどのものが、当時はなかった。
それだけのことだったのだろう…。
<2022年3月加筆訂正>

迷言と妄言:小人たちの黄昏

2020年08月29日 11時43分25秒 | 寒空小人

悪党(泥棒)の世界にも、心得(こころえ)とも格言とでも、
言うべきものがあり…。
「泥棒だぁ!」と言われたら、
「お前こそ、泥棒だろう!」と言い返せ、と言うものがある。

ロクでもない話だけど、
こんなデタラメな言動によって、動揺や混乱させられることもあり。
うやむやにされてしまったこともある。
案外、警察が頼りにならないことを知ることにもなり、
ちょっと世の中を呪うような気分にもなった。
分かりやすく言うのなら・・・。
「チックショー!!グレてやるぅ!!」と言うところ。
(いい大人が言うようなセリフじゃないんだけど、ね:とほほ…。)

悪いことを知っているということは、
悪いことを行っているということでもなく。
忘れることはないけど、あまり思い出すこともない。
楽しい記憶(思い出)には、程遠いから、
あまり思い出したくもないということもあるけど。
このような考え方や言動は、日常生活においては、弊害でしかなく。
“不当な言いがかり”や“防犯”などへの対策として、
考えなければいけないときはあっても、
世間の良識から外れたような人間たちの知恵など、
非生産的で、きわめて有害であるという結論しかない。
もっとも、本来、“知恵”とは、良識をともなったもの。
だから、これは知恵ではなく、ただの詭弁。



追記:
「常識? それって、何です?」
「自分の言葉でも態度でも、証明できてもいないことを
分かったように言わないでください。」

ちょっと厄介な顧客対応があり。
直属の上司から「常識の範囲で考えれば分かるだろう」という言葉で、
責任を押しつけられたことがある。
そんな身勝手な言い分が、世間の常識であるハズもなく。
かなり激しいやり取りになったもの。
顧客側とのやり取りに追われているうちに逃げられてしまった。
教養を身につけていけば、一緒に身についていくのが「良識」。
何故なら、自分本位な善悪の価値基準など、
他人からすれば、身勝手な道理に過ぎないからだ。
だから教養がなければ、良識と言うものを理解できない。
しかし、正しいことを知っているということは、
正しいことが出来ていると言うことでもなく。
教養の高さを証明するハズの学位はあっても、非良識的な人物はいる。
以前にも記したけど、“忘れる”とは、“心”を“亡くす”と書く。
おそらく自分で考えることを忘れているのだろう。



色々な物事に対して、
何が悪いことなのかを考えることも多くなってきた。
しかし、“答え”など出てこないことばかり。
因果関係を明らかにして、
誰が見ても、当たり前だと思うほどの「常識」を構築するのは、
簡単ではなく。
安直に“常識”などと言う言葉が使われるときには、
踏みツブしたくもなるような気分にもなる。