手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

稲苑大学(手稲区の老人大学)思い出

2018-05-31 20:41:21 | 身辺雑記
  私は稲苑大学の13期生です。退職して数年後、当時町内会の副会長をしていて、かねてから聞き知っていた稲苑大学に応募することにした。応募して直ぐ、町内会長の若林さん(既に他界されている。当時は私の詩吟のお弟子さんになっていた)に私が申し込んだから、あなたも一緒に応募してみませんかと声をかけた。直ぐ応じて彼も申し込みをした。ところが、応募者が定員を上回っていて抽選となり、結果若林さんが当選、私は落選となりました。  
 当時、居酒屋「いの平」が私たちのたまり場になっていた。ママの小野さん(既に他界)が稲苑大学の9期で、稲苑大学9期の集いの場でもありました。そのころ手稲に適当な宴会場がなく、たまたま「いの平」の隣の東会館の二階が宴会場として貸し出されていて、小野さんの手配で稲苑大学の各年度のOB会が開かれたりしていました。 「いの平」の小野ママは稲苑大学OB会の世話役みたいな感じでした。そんな中で若林さんが12期として私より一年先輩になったのですが、この12期に佐藤由昭さんがいて、とてもいい友達になりました。ある日、今までに書きためていた原稿を持ってきて、読んでほしいという。読ませていただいたらとても素敵な随筆で、そのままにしてしまうのも惜しいと思い、私のPCで編集して印刷してあげました。そしてそれをお上げしようと思い始めて電話を入れたら、なんと、階段で転んでお亡くなりになったという日でした。12期で親しくしてもらえる方が何人もいて、12期になれなかったのが本当に残念に思いました。翌年改めて応募して13期生になったのでした。稲苑大学に入学するのに一つの目標を持っていました。それは詩吟の仲間を見つけるということでした。結果的に二人の方が私の会に入会してくれたのですが、流派の違う岳風会の先生とか、既に岳風会の経験者などがいて思うように集めることができなかったのです。12期だったら多分一つの会を作ることができたと思います。でもこの折9期の北出さんも入会してくれて、一定の成果を得たのでした。そのころいの平の仲間が何人も会に入ってくれて私の会も最高に盛り上がったりしていたと思います。その時の仲間の多くが他界しています。いい仲間が多かった。懐かしい思い出になっています。
コメント
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