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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

多趣味は、趣味無しと同じ

2018-03-17 19:13:38 | 随想

 人生の最晩年となり、一生の趣味について振り返ってみる。1930年生まれの私の生きてきた時代は波瀾の時代で、じっくり何かの趣味に没頭することの難しい時代だった。生まれ育った環境も田舎ので趣味を見つけることもむつかしかったように思う。

 小学校に入学したのが日中戦争の始まった昭和12年で、永山農業学校に入学したのが敗戦の年昭和20年だった。

 小学校は体育館もない複式のの学校だった。同級生も15人ほどだった。同級生はほとんどが農家の児で、お店の太郎さんと校長先生の息子の私が異色だったかもしれない。球技の道具は全くなく、夏は川で泳ぐか魚釣り、冬はスキーとも言えないスキーを履いてのスキーを少し。戦時中だから本もまともに買えない。私は父の買っていた大衆文学全集青表紙全7巻?を繰り返し読んでいた。蓄音機があったが、レコードは軍歌か浪花節、私は浪花節が好きでよく聞いていた。

 お店の太郎さんは御家が裕福で、良く本を買ってもらっていて、時折見せてもらったりしていた。しかし、我が家は本を買う余裕はなかったのです。

 神社に土俵が作られていたけれど、お祭りに子供相撲がやられるくらいで、普段は使われていなかった。

 高等科のころ、同級生の一人が将棋を覚えてきて、教えてくれた。へぼ将棋だけれど、学生時代寮で囲碁を教えられた。むつかしい。それで将棋をやろうといって将棋を私が教えることになった。囲碁は難しく負けてばかり、将棋では私が上で時に王だけ残してみんな取るなんてことをやって相手を怒らせたりしたこともある。又、結婚してから家内の関係のおじいさんと将棋を指してこともある。この時も私が勝ったりした。囲碁は沼田高校に奉職してから本格的にやりだして、初段くらいまでになっていた。しかし、きちんと指導を受けたり、基本的な勉強をしなかったので、美唄東高校で初段に推薦すると同僚の高段者の先生から初段の免許を取ることを進めらたが、基本的な勉強もしていないで段をもらっても仕方がないと思っていただかなかった。そのころは2段で打っても通用するょといわれていたが、札幌に出てからは囲碁から遠ざかり、昔やったというだけの趣味になった。

 美唄にいたとき碁盤と碁石を買った。更に札幌に来てから、美瑛の義弟がトド松のきれいな木目の厚さは八寸くらいの素晴らしい碁盤を呉れた。しかし、それで一度も打たないまま二面とも当時詩吟のお弟子さんだった方に呉れてあげました。結局囲碁もやったことがあるというところで終わりました。いろいろのことに手を出してて来ましたが趣味といえるまでのものは今も続けている詩吟だけのようです。

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