昼過ぎまで日本語教室のボランティアに励んだ。昼は連れと観音の「りょう火」でラーメンと餃子を食べることにしていたので、太田川放水路を南に向けて車を走らせた。白い水鳥や芦の緑が続く。帰路、気温がかなり上昇している模様(車の温度計では38度)だ。フタバ図書の「ギガ古書部」で涼むことにした。しばらく古本を漁ったが興味がわく本はない。有り余る休暇で読書時間があるから、「快適睡眠のすすめ」(岩波新書)と「さらば『受験国語』」(朝日新書)の2冊を買った。のどが渇いたのでマックに移動してマックシェイクを飲みながら何か月かぶりに日本経済新聞を読んだ。気温が34、5度を超えるとガラス越しの光景の輪郭が薄紫に映る。
昨日は1年ぶりにほろ苦くも芳醇な酒を飲んで二日酔いを懸念した。日が昇る前に目が覚めた。起き上がってみてアルコールが霧散していることを体感した。日が昇るころに愛犬ごんたのお供をした。この2、3日は早朝に秋の気配を感じる。ひんやりとした風と空気が胸に心地よい。
数年前までのように、アルコールで満たされた胃袋に、さらに灼けつくような濃いアルコールを流し込むような飲み方はできない。酒は飲むもので飲まれるものではない。ほろ酔いでいい。日々の生活の過酷さが薄らいでいる。高血圧は数十年来の飲酒癖が原因だと考えるようになった。
今日は偶数週だから日本語教室のボランティアがある。
暑い日だった。ホテルの一室に親族が集った。好い肴がでた。存分に酒を飲んだ。近いうちにふたりで飲みに行こうと約束をしていた。数年がたってようやく果たすことができた。今日は身内の法事だった。
「統幕・維新の政治活動の中心になった面々は、ペリー来航(1853年)の時に20代か10代だった。倒された側の代表、徳川慶喜(一橋慶喜)は17歳、近藤勇が20歳、越前藩の橋本佐内はやはり20歳だった。
これらの人物と密接に関係しながら明らかに彼らとは違う世代に属している、もうひとつの人物群の存在に気づかされる。佐久間象山、緒方洪庵、藤田東湖、横井小楠が40代、島津斉彬、三条実万、徳川斉昭は50代である。志士たちはこの世代の師弟にあたる。」 松浦玲著「勝海舟」(中公新書)から引用の上改竄。
勝海舟は、ペリーが来航した年に数えで31歳だった。
群像シリーズ3 「勝海舟」を読み始めた。「維新改革の全コースの中で、多くの日本人を新しい統一国家を目指す運動へと駆り立てる決定的な契機になったのは、なんといっても、嘉永6年(1853年)6月のペリー来航である。」とことわったうえで、ペリーが来航した年に、維新の志士たちが何歳であったかを明らかにしている。
薩摩藩:西郷隆盛 27歳、大久保利通 24歳、小松帯刀 19歳。長州藩:吉田松陰 24歳、水戸孝允(桂小五郎) 21歳、高杉晋作 15歳、久坂玄瑞 14歳、伊藤博文 13歳。土佐藩:坂本龍馬 19歳、後藤象二郎 16歳、板垣退助 17歳。肥前藩:大隈重信 16歳。公家:三条実美 17歳、姉小路公知 15歳、岩倉具視 19歳。
貝田桃子著「小論文トレーニング」(岩波ジュニア新書)、中村昭典著「親子就活」(アスキー新書)、新妻昭夫著「体の部品辞典」(岩波ジュニア新書)を買った。前の2冊は仕事の参考にするために買い求め、後の1冊は興味本位で買った。
学校を出る前に休暇届を出した。明日から10日間の休暇に入る。神経を休ませるのが目的だから身と心を軽くして過ごすのが良い。「維新前夜の群像」シリーズの流し読みと、心のどこかに引っかかっているマイケル・ポランニー「暗黙知の次元 言語から非言語へ」の精読に励む。
西郷隆盛は佐藤一斎を愛読していたと「日本思想体系 大塩中斎 佐藤一斎」の解説にある。この解説を読んでいるうちに、買い込んだ中公新書を机の下に放り込んだままにしていることに気が付いた。維新前夜の群像シリーズ「高杉晋作」「坂本龍馬」「勝海舟」「木戸孝允」「大久保利通」「西郷隆盛上・下」「岩倉具視」(中公新書)の8冊に加えて「伊藤博文」「徳川慶喜」「幕末の長州」「幕末の薩摩」(中公新書)の計12冊がそろっている。志士たちを突き動かした原動力に興味がある。休みの間に目を通してみる予定だ。
仕事が引けてから本屋に寄らなかった。家でも読まなかったので昨日は休肝日ならぬ休本日になった。読まないと頭が軽くなる。軽くなったところで思った。全ての時間には限りがある。この世にいるうちにあと何冊の本を読むことができるのだろうか。
仕事から離れると思うだけで心がはずむ。仕事がつらいとか、うまくいっていないとか、そういうのではない。仕事は思うように進んでいるし、充実感もある。仕事がつらいと感じることがないから、このまま働き続けてもどおってことはないということだ。
ところが、わたしにはもって生まれた病がある。好奇心過剰症候群と名付けている。この好奇心がもっと「もの」に向いてくれたらよいと思う。ところが、わたしの好奇心のベクトルは「ひと」に向いている。仕事に燃えるほどに、人間についてあれやこれやを知りたくなる。この性向を鎮めるために休暇が必要なのだ。
論語 里仁篇 「子曰く、朝に道を聞きては(聞かば)、夕べに死すとも可なり。」
道とはひととして当然行うべき道理のこと。したがって「朝聞夕死」を、「人として当然行うべきことを師から聞けたら、夕べに死んでも思い残すことはない。」という意味だと理解してきた。ところが、宇野哲人のように、聞くとは心で悟ること、可なりの意味は心が安くて恨みのないことだと解釈すると「道理を真に悟りえるならば、生きては道理に順い、死んでも心が安らかで遺恨がない。」(講談社学術文庫)という訳になる。
金谷治は、「先生がいわれた、朝に正しい真実の道が聞けたら、その晩に死んでもよろしいね。」(岩波文庫)と訳している。さらに、木村栄一は「ある朝、真に人間らしく生きる道がわかったとすれば、仮に不幸にしてその夕方に死んでもその人の生涯に心残りはないのである。」(講談社文庫)と丁寧に訳している。倉石武四朗は「あさ、事物のさもあるべき道理を聞いたら、生きても心が穏やか、死んでも心が安らかだから、その晩に死んでもいいくらいだ。」(世界文学大系 論語 孟子 大学 中庸)。
以上は朱子の新注に近い解釈だ。貝塚茂樹は「世界の名著 孔子 孟子」で、朱子の新注は、「道を真理と解し、朝に真理を知りえたら、夕べに死んでもよい。」という真理を求める積極的な意思を示している。いっぽう古注によると、『道を聞く』の道は、現実に道徳的な社会が実現していることをさすとみる。そして道徳的な理想社会は、自分の一生のうちに実現することはなかろうという絶望に近い気持ちをあらわしたものだ。」と説く。
『言志晩録』 第60条
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず。
佐藤一斎
あさって日曜の日本語教室は休ませていただいて、この土日は本の整理に励む。無秩序に積み上げた本や段ボール箱の中で眠っている本を、系統別に区分し直して本の在りかが分かりやすくなるように並び替える。今回は教育、心理学、日本国憲法、哲学と思想の分野を軸にして本を移動することになりそうだ。
村松友視「力道山がいた」(朝日文庫)、夏目漱石「吾輩は猫である」上・下(集英社文庫)、渡辺淳一「孤舟」、同「鈍感力」を買った。渡辺諄一は好みではない。執筆当時の年齢が現在の私の年齢に近いからつい買ってしまった。新本同様のハードカバーで各84円だ。
「吾輩は猫である」の書き出し部を数10ページ読んだ。軽妙な語り口と間の置き方に感心した。身長があと10センチあったら、かなりの確率でわたしはプロレスラーになっていたことだろう。「力道山がいた」は力道山というスーパーヒーローの登場がもたらした熱狂を、時代背景を探りながら描いている。
フタバ図書の古書部で面白い光景を目にした。ひとりの女性が携帯を片手に105円の特価本を漁っている。フタバの買い物かごを70から80冊の特価本でいっぱいにして、なお本を一冊づつ点検している。本の扱い方からみて趣味が読書とは思えない。彼女が移動したあとで、新書の特価本コーナーを覗いた。売れそうな本ばかりが見事に抜かれている。携帯を片手にというのはブックオフでも数度目撃した光景だ。あの時は男性だった。本を値踏みするような眼は昨日の女性に似ている。ふたりの職業をしばし想像してみた。