子の曰わく、其の似(な)す所を視、出る所を視、其の安んずる所を察すれば、人焉(いずくんぞ)んぞ痩(かく)さんや、人焉んぞ痩さんや。(先生がいわれた、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたら、その人がらは、どんな人でも隠せない、どんな人でも隠せない。」岩波文庫ワイド版)
この章が引っかかっている。まさしく「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。(説ばしいは悦ばしい)」の境地だ。「時には」は、たまにという意味に遠く、不断にという意味に近い。「学びて時にこれを習う」の「学ぶ」は、まだ知らないことを悟るというのが本来の意味だが、宇野哲人は、「論語新約」(講談社学術文庫)で、「先覚者に従って聖賢の道を学び、絶えずこれを復習して熟達するようにする。そうすると、智が開け道が明らかになる。」と訳す。
孔子さまに楯突くつもりはない。それにしても果たして、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたら、その人がらは、どんな人でも隠せない、どんな人でも隠せない。」のだろうか。それとも孔子さまの鑑識眼がそうさせるのだろうか。