薩摩藩の中流武士の子として生まれた。子供のころの刀傷が原因で剣道が不得手だった。成人男子の平均身長が160センチを切っていた時代に178センチに100キロの大男で体を生かした相撲がめっぽう強かった。
農業の振興を担当する役人として下積みが続いていたところ、開明的な藩主である島津斉彬の目に留まって側用人となる。安政の大獄で私淑する主君斉彬は隠居を強いられた。西郷は逃げ場を失ってある僧と心中未遂事件を起こして離島に追いやられて不遇な日々を送る。
島流しから呼び戻されて頭角を現す。思想的には藤田東湖、水戸学の尊王攘夷に共感するものの、翌年東湖が震災で命を落とすと勝海舟の開国論に傾いた。海舟の策略に呼応して薩長連合を推し進め討幕の総指揮官となる。
橋本左内は出会の際に才気を感じさせない凡庸な男だと感じた。また、勝海舟は維新の群雄のうちでも卓越した逸材だと評している。武士階級の価値観の中で頭角を現した。儒学思想がかれの精神的バックボーンになっているようだ。
理解しようとするから掴めないのかもしれない。西郷隆盛の実像を把握するのに苦労している。もっとも西郷は既に伝説なので、余計にわたしを寄せつけないのかもしれない。求められると西郷は「敬天愛人」と揮毫した。