勝麟太郎(海舟)について読むほどに、これまでの人物像の輪郭がぼやけていく。
海舟は貧しかったとはいえ旗本の家柄で、父親小吉がやくざまがいの遊び人であったところまでは確かなようだ。小吉は8歳の時に形だけ勝家に養子に出された。小普請(こぶしん)つまり無役だったので勝家の義祖母とその孫娘(許嫁)ともども男谷家(当主は男谷平蔵)で育てられた。
小吉(三男)の父親である男谷平蔵の父親つまり麟太郎(海舟)の曾祖父は越後出身の盲人だった。往来で凍えているところを奥医師の石坂宗哲にに拾われた。利殖(金貸し)の才能を生かして財を成した。江戸に17か所の地面を持ち水戸家だけで17万両の貸し付けがあった。曾祖父は盲人としては最高位の「検校」を手に入れ、千石取りの旗本男谷家の株を買い取った。息子の平蔵を当主にして自ら男谷検校と名乗った。その平蔵が海舟の祖父である。
著者松浦玲は、この種の話には粉飾が多いとことわりつつも、海舟の曾祖父が利殖の才(金貸し)に長けた盲人であったという事実、当時、蓄財しだいで幕府直臣団である旗本の身分をかなり自由に売買(たとえば、養子縁組をして持参金として支払う)できたという事情は、海舟個人の性格を考えるうえで前提にしておく必要があると指摘している。