旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

2009年10月09日 22時36分00秒 | Weblog
以下が原始仏典に記され、ブッダが説いたと伝承される「教え」の骨格である。最近の朝日新聞の紙上で、漢文訳の「経」や読み下し文の「お経」の難解さに鑑み、「お経」の口語訳を進めた方がよいのではないかと提案する識者がいた。古典を原文で読むか口語訳で読むかですら議論がある。また、宗教と思想との間にある乗り越え難い壁があることも承知したうえで私はこの提案に賛同する。

ブッダならば現代に生きる凡俗に対して時代遅れの文章で語りかけることはないであろうし、ブッダの思想を理解している者ならば難解な漢文で現代の凡俗に語りかけることもないであろう。「相手に応じて法を語れ。」ともいう。果たしてわれわれはブッダの思想を理解しているのであろうか。難解な漢文経典がブッダの思想を解明することを妨げている。口語訳で広くブッダの思想を民衆に知らしめた方がよいように思う。

四つの念ずることがら
1 この身は不浄なり。
2 受は苦なり。
3 心は無常なり。
4 法は無我なりと観ずること。

四つの努力
1 すでに生じた悪を除こうと勤めること。
2 悪を生じないように勤めること。
3 善を生じるように勤めること。
4 すでに生じた善を増すように勤めること。

四つの不思議な霊力
1 すぐれた瞑想を得ようと願うこと。
2 すぐれた瞑想を得ようと努力すること。
3 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること。
4 知恵をもって思惟観察して、すぐれた瞑想をえること。

五つの勢力
1 信
2 精進
3 念
4 定
5 慧

五つの力
1 信仰
2 精進
3 憶念
4 禅定
5 智慧

七つのさとりのことがら
1 教えの中から真実なるものを選び取り、偽りのものを捨てる。
2 一心に努力すること。
3 真実の教えを実行する喜びに往すること。
4 身心をかろやかに快適にすること。
5 対象へのとらわれを捨てること。
6 心を集中して乱さないこと。
7 思いを平らかにすること。

八種よりなるすぐれた道
1 正しく四つの真理(四諦)の道理を見ること。
2 正しく4つの真理の道理をよく考えること。
3 正しいことば。
4 正しい行動をすること。
5 身と口(ことば)と意(こころ)における三種の行動を清らかにして、
  正しい理法に従って生活すること。
6 正しく道に勤め励むこと。
7 正しい道をこころにおもいつづけて、邪念のないこと。
8 正しく精神統一をして迷いのない清らかなさとりの境地に入ること。

   岩波文庫 「ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)」中村元訳~訳注より



四苦八苦

四苦とは、生・老・病・死の4つである。これに、
愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
を加えて四苦八苦という。


四諦(したい)

集諦 [編集]
集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。

この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。

苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も「愛欲」も、苦の根本原因であり苦集諦である。

滅諦 [編集]
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。

具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。

道諦[編集]
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。


参考

【涅槃経における四諦
大乗の『大般涅槃経』の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。

苦聖諦
この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
集聖諦
苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
滅聖諦
苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
道聖諦
仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。】


    ウィキペディアより


 



コメントを投稿