旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

御文

2007年02月03日 20時21分16秒 | Weblog

  白骨の御文



  それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきも
 のは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、い
 まだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いま
 にいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

  我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれ
 さきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。され
 ば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

  すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに
 とじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の
 よそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめ
 ども、更にその甲斐あるべからず。

  さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりと
 なしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろ
 かなり。

  されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人
 もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいら
 せて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 
  
 (注)
  浮生 ふしょう   
  始中終 しちゅうじゅう   
  万歳 まんざい   
  人身 にんじん   
  形体 ぎょうたい
  朝 あした  
  紅顔 こうがん
  桃李 とうり
  眷属 けんぞく  
  夜半 よわ 
  不定 ふじょう  
  後生 ごしょう

  蓮如「御文・第五帖」真宗聖典(東本願寺)842ページ



レモン哀歌

2007年02月03日 20時17分01秒 | Weblog
                     
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

             高村光太郎



永訣の朝   

2007年02月03日 20時07分18秒 | Weblog
 
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ



              宮沢賢治
 
 
 
 


●ルビ
陰惨(いんざん) 蓴菜(じゆんさい) 
陶椀(たうわん) 蒼鉛(さうえん) 二相系(にさうけい)

●註
※あめゆきとつてきてください
※あたしはあたしでひとりいきます
※またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます