旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

犯罪

2007年10月21日 18時06分12秒 | Weblog
その昔、一般の殺人に対して、尊属殺(平たくいうと親殺しです。)の科刑を加重して無期懲役または死刑と定めた条文の憲法裁判で、少数意見として合憲を主張した最高裁の裁判官が、典型的な儒教的世界観を持ち出して、子が親を殺すなどという道徳律に反する行為が、一般の殺人の刑罰と同様であってよいはずがないと主張して学界から呆れられたことがあります。

当時、尊属殺に至った事例の殆どには実に悲惨な背景がありました。殺された尊属の大半が、精神的。肉体的に被告を虐待していました。その実態よりも、「子たる者は何が何でも、親の言うことに従わなければならない。それをいかなる事情があろうとも殺めるとは何たることか。」という忠孝を旨とする儒家的価値観で法律を論じる裁判官の少数意見だったのですから。

国家による刑罰権の限界といいますか・・・。当時は、犯罪を引き起こす要因が社会やそのシステムや家族制度にあるとみるのか、個人の資質にあるとみるのか、そのあたりの刑罰理論論争が活発でした。最近特に、人を死に至らしめておいて反省の色が全くないタイプの犯罪者が増えています。あなたと同様に、犯罪によっては現行の刑罰規定が甘すぎるのではないかと考えるようになりました。もちろん、尊属殺や子殺しについては量刑をもっと厳しくする必要がありそうですね。

教育刑

2007年10月21日 18時02分20秒 | Weblog
「法律学小辞典」有斐閣 1972年4月刊によりますと、 心神耗弱とは、「精神機能の障害により、是非善悪をわきまえること、あるいはわきまえたところに従って行動することが著しく困難な状態をいう。一時的なもの(神経衰弱・酩酊)継続的なもの(アルコール中毒・認知症)とがある。刑法はこれを限定責任能力として、その刑を軽減する。」 ということになります。

心神耗弱の概念は若き法学徒たちを大いに悩ませます。最近、呉智英さんが誰かと共著で、とんでもない理屈であると異議を唱えていました。誰が、正常な神経で人を殺せるか、たとえば殺人の場合、精神的に異常であるからこそ他人を殺せるのじゃないかというわけです。

あいつは罪を犯したのだから、「目には目を、歯には歯を」で刑によって相応の苦痛を与えるべきだという考え方は応報刑主義的な考え方の典型です。その対極に教育刑主義という考え方があります。刑の目的は犯罪者の社会復帰のための教育、更生にあると考えます。

応報刑じゃないと済まないような犯罪者が増えていることに戦慄を覚えます。私が法学徒であった頃は、同情すべき犯行というのが多かった。稀有の殺人鬼であるといわれた永山則夫ですら、その連続殺人の背景にはどうしようもない貧困という問題がありました。最近の殺人って、殆どが衝動的な殺人でもっともらしい理由がない。いやな時代になったものです