<・・・初めに・・・>
暖冬といわれとおりに、確かに例年よりは暖かく、また降雪量も少ないようですが、日毎に吹く阿寒おろしは少しも変わらず、まるで身を切られるような冷たさです。
加齢からの体力の劣いで、外出や外歩きが年毎に減っており、たまたま暖かさに恵まれて戸外に出たとしても、目の前に広がるのは未だ枯れ色ばかりで、他に見るべきものも無く、これではブログのネタ探しも儘なりません。
そんなわけで家の中で無為に過ごして居るよりは、この時季を利用して、日頃から胸に温めて来た「自分史」のために、過ぎし74年生涯の想い出の整理をと思い至ったのでした。そしてそれらの想い出を先ず手始めに、「追憶・・・じゃこしか一代記」と名付けてブログに載せたいと思った次第です。
もとより一介の田舎ジジイの生涯など、多寡が知れ、取るに足りないものなのですが、とは云うものの全世界でただ独りとも云うべき己自身の生涯ですから,ゆくゆくは「自分史」に纏めてみたいとも思っているのです。
なお今回ブログに載せるものの中には、過去4年間のブログのものと重なるものがあります。例えば「少年の日の挫折」また「秘密基地」とか「海の日」「毛蟹釣り」などがあります。また日頃の出来事なども折を見て、今までどおり載せて行きますので、「一代記」の方は飛び飛びになるかと思います。
どうぞ宜しくお願いいたします。
<壱・生い立ち>
私は昭和7年8月18日、父(明治29年生れ)と母(明治36年生れ)との六男三女の九人の内、5番目四男として、樺太恵須取町字白伊という、聚落の殆どが半漁半農の寒村で生まれました。
そこは恵須取町(樺太西海岸北部一番の拠点都市)の在で、山が海岸近くにまで迫った細長い狭い土地に、大小併せて50軒ほどの家が点在する半農半漁の寒村でした。
後年母の話によれば、私が生まれたちょうどその日に、造材運搬に携わっていた父が事故で大怪我を負って帰って来たとのことでした。ですから父の事故と出産と重なり、その時の母の苦労は並大抵のものでは無かったようです。
その後大怪我から立ち直った父は、とかく危険の付きまとう造材の仕事に見切りつけて、職探しに転々と渡り歩いた末に、人伝に石炭産業で好況の塔路町を知り、そこで生涯の終の職を得たのでした。
もともと両親は釧路の人間でした。母の実家は明治から大正初期にかけて、一応名の知れた釧路の網元でしたが、母の若い頃に遭難で船を失い没落したと云うことです。
両親は釧路で大正11年に結婚して、2人の子(私には長兄と次兄)を設けました。その後当時樺太の恵須取町天内で、幅広く海運業を営んでいた母の姉を頼って釧路を離れたのでした。それは昭和の初期の頃だったと思われます。
樺太へ渡り海運業を手伝っていた頃の父は、とかく血の気が多く色々と無茶無謀ばかりを仕出かして、随分と母を困らせていたようです。
しかしその父も歳と共に落ち着き、酒こそは界隈でも名の通った酒豪でしたが、酔えば歌い踊るといった具合で、子供心にも明るくて楽しい酒だったことを覚えております。
その釧路出身の両親は、長兄一家の釧路への転居で、図らずも遺骨とは云いながらも40年ぶりに里帰りが叶ったのでした。恐らく泉下でホットしていることでしょう。
塔路町へ移住した翌年に年子で弟が生れ、後に弟1人と妹2人が生まれました。結局両親は併せて9人の子宝に恵まれたのです。当時でもかなりの子沢山の方でしたから、塔路時代の初めの頃は苦労の連続で、両親の苦労も大変だったと思われます。
暖冬といわれとおりに、確かに例年よりは暖かく、また降雪量も少ないようですが、日毎に吹く阿寒おろしは少しも変わらず、まるで身を切られるような冷たさです。
加齢からの体力の劣いで、外出や外歩きが年毎に減っており、たまたま暖かさに恵まれて戸外に出たとしても、目の前に広がるのは未だ枯れ色ばかりで、他に見るべきものも無く、これではブログのネタ探しも儘なりません。
そんなわけで家の中で無為に過ごして居るよりは、この時季を利用して、日頃から胸に温めて来た「自分史」のために、過ぎし74年生涯の想い出の整理をと思い至ったのでした。そしてそれらの想い出を先ず手始めに、「追憶・・・じゃこしか一代記」と名付けてブログに載せたいと思った次第です。
もとより一介の田舎ジジイの生涯など、多寡が知れ、取るに足りないものなのですが、とは云うものの全世界でただ独りとも云うべき己自身の生涯ですから,ゆくゆくは「自分史」に纏めてみたいとも思っているのです。
なお今回ブログに載せるものの中には、過去4年間のブログのものと重なるものがあります。例えば「少年の日の挫折」また「秘密基地」とか「海の日」「毛蟹釣り」などがあります。また日頃の出来事なども折を見て、今までどおり載せて行きますので、「一代記」の方は飛び飛びになるかと思います。
どうぞ宜しくお願いいたします。
<壱・生い立ち>
私は昭和7年8月18日、父(明治29年生れ)と母(明治36年生れ)との六男三女の九人の内、5番目四男として、樺太恵須取町字白伊という、聚落の殆どが半漁半農の寒村で生まれました。
そこは恵須取町(樺太西海岸北部一番の拠点都市)の在で、山が海岸近くにまで迫った細長い狭い土地に、大小併せて50軒ほどの家が点在する半農半漁の寒村でした。
後年母の話によれば、私が生まれたちょうどその日に、造材運搬に携わっていた父が事故で大怪我を負って帰って来たとのことでした。ですから父の事故と出産と重なり、その時の母の苦労は並大抵のものでは無かったようです。
その後大怪我から立ち直った父は、とかく危険の付きまとう造材の仕事に見切りつけて、職探しに転々と渡り歩いた末に、人伝に石炭産業で好況の塔路町を知り、そこで生涯の終の職を得たのでした。
もともと両親は釧路の人間でした。母の実家は明治から大正初期にかけて、一応名の知れた釧路の網元でしたが、母の若い頃に遭難で船を失い没落したと云うことです。
両親は釧路で大正11年に結婚して、2人の子(私には長兄と次兄)を設けました。その後当時樺太の恵須取町天内で、幅広く海運業を営んでいた母の姉を頼って釧路を離れたのでした。それは昭和の初期の頃だったと思われます。
樺太へ渡り海運業を手伝っていた頃の父は、とかく血の気が多く色々と無茶無謀ばかりを仕出かして、随分と母を困らせていたようです。
しかしその父も歳と共に落ち着き、酒こそは界隈でも名の通った酒豪でしたが、酔えば歌い踊るといった具合で、子供心にも明るくて楽しい酒だったことを覚えております。
その釧路出身の両親は、長兄一家の釧路への転居で、図らずも遺骨とは云いながらも40年ぶりに里帰りが叶ったのでした。恐らく泉下でホットしていることでしょう。
塔路町へ移住した翌年に年子で弟が生れ、後に弟1人と妹2人が生まれました。結局両親は併せて9人の子宝に恵まれたのです。当時でもかなりの子沢山の方でしたから、塔路時代の初めの頃は苦労の連続で、両親の苦労も大変だったと思われます。
楽しみがまたひとつ増えました。
私は、じゃこしかさんのこの「シリーズ?」が大好きなので、期待に胸膨らみます。
早速コメント有難うございます。お褒め頂き面映いばかりです。どんなものになるか分かりませんが、文中で記したように己の生涯の証しとして、できるだけ有りのままに綴ってゆきたいと思います。どうぞ宜しく願います。
南無さんのコメントで、いつも勇気付けられております。仰やるとおりに焦らずゆっくりと続けたい所存でおりますが、なにしろまだまだ未熟者ですので、ご教示を宜しくお願いいたします。
なおこの場で申しあげるのは本当に失礼なのですが、南無さんの先日の「最果ての地」と「ヨーロッパーの最果て」をとても興味深く拝見いたしました。
今度は勇気を出してコメント致したく思います。