昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

追憶・じゃこしか一代記(3)

2007-03-28 18:46:20 | じゃこしか爺さんの想い出話
 本来ならばこれが(3)として先に載せるべきところを、うっかりミスにより(4)と前後逆に載せてしまいした。なお前回分の番号は(4)と訂正いたしました。どうぞご了承下さい。
 
  ・・・住吉町にて・・・ 

 父が三菱の炭砿に就職して7年ほどの年月が経ち、一家の生活も落ち着きを取り戻していた。やがて父の一途な仕事振りが認められ、一般抗夫の上の助手という職制になり、住居も一番新しい助手長屋のある住吉町に引っ越すことになった。
 長屋の形こそ今まで同様で八軒長屋でしたが、部屋の造りが今までより大きくて、そのうえ間数が多かったのです。またそれに何よりも便利だったのは便所が室内にあったことで、更に当時の長屋には珍しい縁側が設けられていた。
 
 因みにその家の間取りを説明すると、先ず玄関が上り框を入れて三畳、また畳敷きの部屋は(十畳・八畳と四畳半の三部屋)があり、台所は三畳の広さでそこには幅一間半に高さ六尺・奥行き一尺のガラス戸棚が付いていていました。その他には、そこに裏口に接して三畳の物置があって、その一部は燃料の石炭の保管場所も兼ねていた。
 ただ水道だけは共同で長屋の端にあった。そこからの水汲みは、私と弟の役目で朝と晩の2回を交替で受け持っていました。こうした子どもの家の手伝いは、4・5年生になると何処の家でも決ってやらされていたのです。
 家の中で特に珍しかったのは、畳二枚ほどの板敷きの縁側で、夏には遊び場所として利用し、またとんでもない悪戯をして大目玉を食いそうになった時の、咄嗟に外へ逃げ出す恰好な所でもあったのです。
 なお十畳と四畳半の窓にはそれぞれ出窓があり、その下が物入れとなっていて雑多な小物入れとして利用され、またそこは私たちの簡単な予習や復習の机代わりにもなっていました。

 なおこの住吉町の家には、終戦の翌年13歳の頃まで住んでおりました。
小学校への入学や、また太平洋戦争開戦と終戦など多くのことを経験し、それに学校での友だちとの出会いや遊びなどの想い出が沢山あって、とても懐かしく忘れられない処でもあります。
 またこの住吉町時代には色々な仲間との交流が盛ん行われ、冬期間のスキー遊びや夏休み中の遊びなどは、全てここ住吉町で覚えたものでした。

    ・・・黄金の塔・・・ 
 ブログに載せるには極めて尾籠な話で恐縮ですが、これも極寒の地樺太ならでの、避けられない生活の一端として、伏してご容赦をお願いする次第です。

 樺太での少年時代の想い出には色々な事がありますが、その中でも特異なものの一つに、冬のトイレに付いても忘れられない事があります。当時の炭砿住宅、長屋の便所はいわゆる「ボットン式便所」と呼ぶ汲み取り式でした。
 普通は便槽にある程度溜まれば回収されるのですが、冬期間は積雪のために回収出来ず、大きい方がどんどん貯まって行きます。家族数が多かった分だけ便槽に貯まる量は当然多くなります。
 良く笑い話などで、北海道などの寒い地方での小便の際には、金槌を手にして凍った小便を叩き壊しながら用を足すのだと云われております。
それは冗談として、戸外は連日氷点下30度を越す酷寒ですから、大便とは云っても放って置けば、時を置かずにカチンカチンに硬く凍ってしまいます。
 それもただ凍結するだけなら未だしも、それが日を追う毎に高く積み上がり、まるで鍾乳洞の中に出来る石旬のように上に向かって伸びて来るのです。私たち家族はそれを「黄金の塔」と呼んでいました。その黄金の塔は日に日に伸びて、やがて便器を超えるほどまでになります。
 更に放って置くと、遂には尻に当るまでの高さになり、用便が落ち着いて出来ません。この対策には長い鉄棒(鏨状)で突き崩すのが最も良い方法なのですが、簡単そうで中々思う様にゆかず、狭い便所だけにかなり困難な作業でした。
 それにうっかりへまをすると、飛び散った大便の破片が顔に当たり、さらに油断していると口の中にまで飛び込んで来るのです。 
 この厄介な仕事は時々、私と弟にも回って来ることがありました。まだまだ背が低いうえに力も弱かった私たちにはかなり荷の重い作業だったのです。
 ボロ衣服を身に纏い、更に手拭などで口を覆って始めるのですが、直ぐに息苦しくなってそれも用をなさず、被害の受け方も尋常で無くとにかく閉口したものです。
 しかし「黄金の塔」を完全に突き崩した時の満足感と、その後の、上手に出来たことへの、母の労わりの言葉とお駄賃の喜びは一入のものがありました。