例年に無い連日の暑さが老体に応えて、図らずも半月ばかり休んでおりました。
お盆を迎えて漸く気温にも馴れて体調もやや回復し、パソコンに向かう気力が湧いて来ました。ボチボチながらブログ掲載を再開してゆきたいと思います。
何時も限り無いご支援をお寄せ下さいますブロガーの皆様、今後とも宜しくお願い致します。
盂蘭盆会
昨日は、あの忌まわしい戦争が終結して、否!敗戦した日から61年目を迎えました。これまでその年々の今日の日に想う事は何時も同じで、唯々「あの戦争が無かったら・・・」に尽きます。ですから今年に限って特別な想いは無いのですが、やはり想いは一つ、「あの戦争さえ無かったら・・・」と、両親のことや兄たちのことを想い出してしまいます。
13日の迎え盆に次いで、今日16日の送り盆のお参りを今年も済ませて来ましたが、戦後61年過ぎた今父は未だに行方不明のままで、お寺に在るのは位牌と空の骨箱のみです。その父の終戦時の経緯{終戦記念日壱・終戦記念日弐}に付いてはこれまでに何度と無く触れて来ましたので、ここではその概略だけにさせて戴きます。
その頃樺太のとある炭鉱町に住んでいた私たちのラジオは、ソ連軍のデマ放送からの混乱を恐れた憲兵によって悉く破壊されていましたから、肝心の玉音放送はもとより、15日に戦争が終わっていたなどは少しも知らずに、ただただソ連軍の侵攻を恐れ戦きながら、目差す当ても無く山野を逃げ回っていたのでした。いわゆる聾桟敷に置かれてような状態だったのです。
また父たち一般人の大人たちは、ソ連軍の侵攻に対する民間警備隊員として召集され、石炭積出港の守備に配属されていました。
しかし武器が竹槍だけの民間人では、ソ連軍の突然の参戦による艦砲射撃と上陸開始の前には為す術も無く、内陸の炭鉱町への撤退避難だけが唯一つの手段でした。
その時の撤退時には父も皆と一緒だったのですが、何故か父だけが幾日過ぎても家に戻って来ませんでした。せめて遺体だけでもと肉親はもとより、近所の人の手を借りて隈なく捜索したのでしたが、何の手懸りも無いままに歳月が過ぎてしまい、あれから61年今もって行方不明のままです。
恐らく撤退避難の途中で、不幸にも流れ弾にでも当たったのでしょう。
今になってこんな事は到底考えられないことなのですが、今年ウクライナから突然帰国された方が居りましたね。
私の父もロシアの何処かで生き長らえていたとするならば、ひょっこり連絡があるかも知れない・・・と。年甲斐も無くそんな夢を描いてみた盂蘭盆の一日でした。
しかし若し生きていたとしても丁度110歳もの高年齢・・・やはりそんな事は絶対に有り得ません。
本家の菩提寺山門内の紅白の蔓バラ
お盆を迎えて漸く気温にも馴れて体調もやや回復し、パソコンに向かう気力が湧いて来ました。ボチボチながらブログ掲載を再開してゆきたいと思います。
何時も限り無いご支援をお寄せ下さいますブロガーの皆様、今後とも宜しくお願い致します。
盂蘭盆会
昨日は、あの忌まわしい戦争が終結して、否!敗戦した日から61年目を迎えました。これまでその年々の今日の日に想う事は何時も同じで、唯々「あの戦争が無かったら・・・」に尽きます。ですから今年に限って特別な想いは無いのですが、やはり想いは一つ、「あの戦争さえ無かったら・・・」と、両親のことや兄たちのことを想い出してしまいます。
13日の迎え盆に次いで、今日16日の送り盆のお参りを今年も済ませて来ましたが、戦後61年過ぎた今父は未だに行方不明のままで、お寺に在るのは位牌と空の骨箱のみです。その父の終戦時の経緯{終戦記念日壱・終戦記念日弐}に付いてはこれまでに何度と無く触れて来ましたので、ここではその概略だけにさせて戴きます。
その頃樺太のとある炭鉱町に住んでいた私たちのラジオは、ソ連軍のデマ放送からの混乱を恐れた憲兵によって悉く破壊されていましたから、肝心の玉音放送はもとより、15日に戦争が終わっていたなどは少しも知らずに、ただただソ連軍の侵攻を恐れ戦きながら、目差す当ても無く山野を逃げ回っていたのでした。いわゆる聾桟敷に置かれてような状態だったのです。
また父たち一般人の大人たちは、ソ連軍の侵攻に対する民間警備隊員として召集され、石炭積出港の守備に配属されていました。
しかし武器が竹槍だけの民間人では、ソ連軍の突然の参戦による艦砲射撃と上陸開始の前には為す術も無く、内陸の炭鉱町への撤退避難だけが唯一つの手段でした。
その時の撤退時には父も皆と一緒だったのですが、何故か父だけが幾日過ぎても家に戻って来ませんでした。せめて遺体だけでもと肉親はもとより、近所の人の手を借りて隈なく捜索したのでしたが、何の手懸りも無いままに歳月が過ぎてしまい、あれから61年今もって行方不明のままです。
恐らく撤退避難の途中で、不幸にも流れ弾にでも当たったのでしょう。
今になってこんな事は到底考えられないことなのですが、今年ウクライナから突然帰国された方が居りましたね。
私の父もロシアの何処かで生き長らえていたとするならば、ひょっこり連絡があるかも知れない・・・と。年甲斐も無くそんな夢を描いてみた盂蘭盆の一日でした。
しかし若し生きていたとしても丁度110歳もの高年齢・・・やはりそんな事は絶対に有り得ません。
本家の菩提寺山門内の紅白の蔓バラ
戦争でお父様やお兄様を亡くされて、痛ましい限りです。そのような事情があれべ、何年たっても諦められるものではありません。恐らく貴方は生涯思いつづけることでしょう。では、ありますが、今を生きる貴方のほうが大切な存在なのだから、体には気をつけて頑張ってください。私は今も山に滞在しているので、当分の間、コメントはできませんので、あしからずご了承ください。
ご心配を戴き有り難く感謝しております。
本州の方々に比べたら夏日そこそこの気温なのに・・・何ともだらしない己に恥じる次第です。確かにpoloさん仰る通りで、常日頃の鍛錬が必要なのでしょう。
別荘での生活は快適でしょう。ゆっくりとタップリ楽しんで来てください。
この度は本当に有難うさんです。
日頃はすっかりご無沙汰です。
今年の釧路の夏は本当に変ですね。
例年ですと港祭りが終わると、一気に涼しく成るのに未だに寝苦しい夜が続きます。
樺太生まれで北海道で育ちましたから、暑さは大の苦手です。でももう少しの辛抱でしょうから頑張ります。
また宜しくお願い致します。