先日訪れた自転車道路で「フキノトウ」の新芽を目にした時、早速く摘んで帰ろうと思ったが、その道路が人家近くで、犬の散歩に良く使われているのに気付いて断念した。それ以来昨年味わった「フキノトウ」の味覚が甦り、その食欲の虜になっている。 山菜の一種で珍しくも何でもない、たかが「フキノトウ」に何故それまでに、と思われるかも知れないが、70余歳の老人には何にも替え難い、この時季ならではの旬の味なのである。 そんな矢先の今日の午後、娘がサイクリング出掛けた先の湿原で、新鮮な「フキノトウ」を見つけたからと云って届けてくれた。 それは顔を出したばかりと思われ、色合いまだ淡い薄緑のフキノトウであった。さっそくその日の夕餉の食卓に並べられ、まさに一年ぶりの懐かしい味覚を、心行くまで堪能した。 「フキノトウ味噌」は味噌の香に、独特のほろ苦さが程好く混ざり合って、実に味わい深い味覚を醸し出していたが、どちらかと云うと私は天麩羅の方が好きだ。皿の盛った場合の薄緑は、まさに春一番の味覚の象徴、フキノトウならではの色合いである。またフキ味噌には無い香りとほろ苦さは格別で、塩とテン汁の二種類で賞味した。因みに少量の酢を加えた衣のサクサク感は、更なる忘れ難い味わいとして残った。
たかがフキノトウに、これほどまでにと思われるでしょうが、野菜・果実・魚類の旬が無くなって久しい云われ、世の中の食生活はどんどん便利になって行きます。それはそれで良いことなのでしょうが、何故か一抹の寂しさを感じます。この年寄りの味覚への執着心は、古き良き時代に対する、一つの郷愁なのも知れません。
娘が釧路湿原から摘んで来た「フキノトウ」
早速く天麩羅にした「フキノトウ」
たかがフキノトウに、これほどまでにと思われるでしょうが、野菜・果実・魚類の旬が無くなって久しい云われ、世の中の食生活はどんどん便利になって行きます。それはそれで良いことなのでしょうが、何故か一抹の寂しさを感じます。この年寄りの味覚への執着心は、古き良き時代に対する、一つの郷愁なのも知れません。
娘が釧路湿原から摘んで来た「フキノトウ」
早速く天麩羅にした「フキノトウ」
良き時代の食文化は、いずれ廃れてゆくのでしょうが、せめて生のある内は楽しみたいと願っています。