陽射しの暖かさに誘われて、約20日ぶりに自転車道路の湿原部分を歩いて来た。秋に相応しいものを期待して出掛けたのだが、木々は未だ紅葉前で、其処に在ったのは一面の葦原が早々と立ち枯れ、見渡す限り枯れ色一色に彩られて、寂しいばかりであった。
秋空は何処までも高く澄み切り、時おり吹く風は秋と思えぬほどの暖かく、少し歩いただけで、背が汗ばんで来るほどだった。
あれほどまでに賑やかに囀り、飛び交っていた小鳥達は、もう既に南へ旅立ったのか、その影すら認められない。ただ阿寒連山からの風に吹かれて、枯れ葦たちが揺れて擦れ合い、さわさわと音を立てているばかりである。
枯れ葦を目にしながら歩を進めているうちに、妙なことに気付いた。一昨日夜の風は、住宅地でもかなり感じられたから、この辺りでは相当に強かったのだろう。それは葦原の倒れかたで良く分かった。
しかしふと不思議に思えたのは、枯れ葦原の倒れ方が一様である筈なのに、全く何事も無かったかのよう真っ直ぐのままのところも在り、また所々が恰も人間か獣でもが分け入ったかのように倒れて居る所もあった。見れば見るほどに不思議な光景だった。
歩みを停めてしばらく見入っていて、ふと思い当るものがあった。そして
これが物の本に良く出て来る「風の道」に違いないと気付いたのである。私のこの考えは、その「風の道」を指しているのか、如何か分からなかったが、私は取り敢えずそうと決めてかかり、驟雨の降り方にも似たようなものがあるのを思い出していた。
それは車で走っている途中で雨が降り出したにも関わらず、100メートルほど進んで橋を渡り切ったら、其処からの舗装は全く濡れていなかった。この時の雨の境(通り道)は川であったのだろう。
このように風は平均的に吹く訳でなく、とりわけ野分ともなれば、それぞれ勝手に道を付けて吹き進むのであろうと、私の想像は次から次へと広がり、それに没入して行ったのである。
さわさわと枯れ葦が擦れ合う音のみの静かな自転車道路
一面に枯れ葦が広がる湿原
倒れた枯れ葦が痛々しい
駐車場近くで見つけた、燃えるような真っ赤な潅木
この時季になっても未だハマナスの赤い実が・・・
秋空は何処までも高く澄み切り、時おり吹く風は秋と思えぬほどの暖かく、少し歩いただけで、背が汗ばんで来るほどだった。
あれほどまでに賑やかに囀り、飛び交っていた小鳥達は、もう既に南へ旅立ったのか、その影すら認められない。ただ阿寒連山からの風に吹かれて、枯れ葦たちが揺れて擦れ合い、さわさわと音を立てているばかりである。
枯れ葦を目にしながら歩を進めているうちに、妙なことに気付いた。一昨日夜の風は、住宅地でもかなり感じられたから、この辺りでは相当に強かったのだろう。それは葦原の倒れかたで良く分かった。
しかしふと不思議に思えたのは、枯れ葦原の倒れ方が一様である筈なのに、全く何事も無かったかのよう真っ直ぐのままのところも在り、また所々が恰も人間か獣でもが分け入ったかのように倒れて居る所もあった。見れば見るほどに不思議な光景だった。
歩みを停めてしばらく見入っていて、ふと思い当るものがあった。そして
これが物の本に良く出て来る「風の道」に違いないと気付いたのである。私のこの考えは、その「風の道」を指しているのか、如何か分からなかったが、私は取り敢えずそうと決めてかかり、驟雨の降り方にも似たようなものがあるのを思い出していた。
それは車で走っている途中で雨が降り出したにも関わらず、100メートルほど進んで橋を渡り切ったら、其処からの舗装は全く濡れていなかった。この時の雨の境(通り道)は川であったのだろう。
このように風は平均的に吹く訳でなく、とりわけ野分ともなれば、それぞれ勝手に道を付けて吹き進むのであろうと、私の想像は次から次へと広がり、それに没入して行ったのである。
さわさわと枯れ葦が擦れ合う音のみの静かな自転車道路
一面に枯れ葦が広がる湿原
倒れた枯れ葦が痛々しい
駐車場近くで見つけた、燃えるような真っ赤な潅木
この時季になっても未だハマナスの赤い実が・・・
自転車道路界隈の湿原もすっかり秋さびて来ました。しかしそのひっそりとした静寂さも、捨て難いものがあります。
この道路も歩けるのは、今のうちだけです。秋色一杯ですが、まだまだ魅力的です。 これからも精一杯歩くつもりです。
今日の熊子さんのブログは良かったですね。
それだけもう年なのかな・・・?
この道を自転車で飛ばしたら、きっと気持ちが良いのでしょうね。しかし残念ながら私には、叶わぬ夢です。
お互い風邪などに罹らぬよう気をつけましょう。