四十年来読み続けている愛読月刊誌のことは、過去のこのブログでも二度ほど載せたことがあるので、もう既にご承知のことかと思います。
今こと改めて雑誌の掲載小説について、論じようなどと云う大それた気持などは毛頭有りませんが、ただ日頃から老人なりに気付いたことを、このブログで書いてみようと思っただけのことです。
ですから田舎ジジイの、取るに足らない戯言と聞き流し、否読み流して戴ければ幸いです。
その月刊雑誌ですが、普段はウォーキングやパソコンなどに追われて、いつの間にか一ヶ月遅れで読むのが習慣となってしまいました。
そんな訳でその二月号も一昨日からようやく手にした次第ですが、その創作の中の「高井有一」の名を見つけ、たまらなく懐かしさを覚えてさっそく読み始めたところです。この作家を知ったのはやはり愛読月刊誌なのでした。
芥川賞受賞作「北の河」に感銘を受けたのがきっかけで、その作品の幾つかは今も我が家の本棚に並んでおりますが、今ここでそのことについて論じようと思いません。ただ今回の二月号掲載の「鯔の踊り」を読み進めてゆく内に、日頃から気になっていた小説のカタカナ言葉のことが、心底から沸き上がって来たのです。
それは最近の小説には、とやかく口に出来るほど数多く読んでいるわけでも無いので、余り口幅ったいことは云えませんが、近頃の小説にはカタカナ言葉が多過ぎるのでは無いかと思います。
とにかくカタカナ言葉の羅列、その多さには何時も閉口する次第です。これはカタカナ言葉が禁止された戦時中を過ごして来たからでも無く、また加齢による理解力と記憶力の減退には一切関係の無いものだと思います。
しかしこの「鯔の踊り」にはそうしたカタカナ言葉は、せいぜいビールとかテレビなどまたは人の名前くらいで、全然気なりませんでした。むしろそうした文体から気の置けない人に出会ったような懐かしさと、ホットした安らぎさえ感じて読み続けた次第です。
こんなことを述べては生意気なジジイと言われかねませんが、現在カタカナ言葉が何故このように使われるようになった訳として、恐らくカタカナ言葉が格好良いからとか、書き手の知性の表れとか、或いは唯単に奇を衒って使っているのだと思います。
もう既に七十余歳の年寄りですが、人並みに本が好きで少年時代から当時の単行本を読み耽ったもので、例えば「のらくろ・冒険だん吉・真田十勇士・猿飛佐助・寛永御前試合・空飛ぶ要塞・」などが在りました。
今 手許に在る愛読月刊誌の創作の中にも、カタカナ言葉が出て来るものが沢山在って、その羅列にウンザリし辟易している次第です。
多くの小説愛好者の中にも、こんな変わり者の老人が居ることを是非とも知って貰いたいものです。
今こと改めて雑誌の掲載小説について、論じようなどと云う大それた気持などは毛頭有りませんが、ただ日頃から老人なりに気付いたことを、このブログで書いてみようと思っただけのことです。
ですから田舎ジジイの、取るに足らない戯言と聞き流し、否読み流して戴ければ幸いです。
その月刊雑誌ですが、普段はウォーキングやパソコンなどに追われて、いつの間にか一ヶ月遅れで読むのが習慣となってしまいました。
そんな訳でその二月号も一昨日からようやく手にした次第ですが、その創作の中の「高井有一」の名を見つけ、たまらなく懐かしさを覚えてさっそく読み始めたところです。この作家を知ったのはやはり愛読月刊誌なのでした。
芥川賞受賞作「北の河」に感銘を受けたのがきっかけで、その作品の幾つかは今も我が家の本棚に並んでおりますが、今ここでそのことについて論じようと思いません。ただ今回の二月号掲載の「鯔の踊り」を読み進めてゆく内に、日頃から気になっていた小説のカタカナ言葉のことが、心底から沸き上がって来たのです。
それは最近の小説には、とやかく口に出来るほど数多く読んでいるわけでも無いので、余り口幅ったいことは云えませんが、近頃の小説にはカタカナ言葉が多過ぎるのでは無いかと思います。
とにかくカタカナ言葉の羅列、その多さには何時も閉口する次第です。これはカタカナ言葉が禁止された戦時中を過ごして来たからでも無く、また加齢による理解力と記憶力の減退には一切関係の無いものだと思います。
しかしこの「鯔の踊り」にはそうしたカタカナ言葉は、せいぜいビールとかテレビなどまたは人の名前くらいで、全然気なりませんでした。むしろそうした文体から気の置けない人に出会ったような懐かしさと、ホットした安らぎさえ感じて読み続けた次第です。
こんなことを述べては生意気なジジイと言われかねませんが、現在カタカナ言葉が何故このように使われるようになった訳として、恐らくカタカナ言葉が格好良いからとか、書き手の知性の表れとか、或いは唯単に奇を衒って使っているのだと思います。
もう既に七十余歳の年寄りですが、人並みに本が好きで少年時代から当時の単行本を読み耽ったもので、例えば「のらくろ・冒険だん吉・真田十勇士・猿飛佐助・寛永御前試合・空飛ぶ要塞・」などが在りました。
今 手許に在る愛読月刊誌の創作の中にも、カタカナ言葉が出て来るものが沢山在って、その羅列にウンザリし辟易している次第です。
多くの小説愛好者の中にも、こんな変わり者の老人が居ることを是非とも知って貰いたいものです。
仰るとおり、カタカナで書くといかにも今風で格好がいいとでも思っているのでしょう。
まぁ、しかし机上に現代用語辞典を一冊載せておいて、それでもって意味を調べながら愛読月刊誌を読み続けた方が脳の活性化には役立つことではないでしょうか。
氾濫してきましたね。言葉は時代の流れで 変わっていくものだが あまりにもカタカナ語が多すぎるのも気に食わない・・が 現代社会ではカタカナ語を理解しないと政治も経済も文化も・・・
腹が立つが仕方が無いね~ 頑張ってカタカナを勉強しましょう。
ただ云いたいのは、今時の若者の小説ないしは文学の中でのカタカナ言葉の氾濫なのです。
これはいわゆる評論家または選者たちの、若者たちへの理解者ぶりからの媚びた結果から来たものだと思います。彼らの保身も在るのでしょう。
せっかく素晴らしい日本画があるのに、そうしたしっとりとした言葉を活かした小説が世に出て来て欲しいだけなのです。
貴方様の仰るとおり、カタカナ言葉はこれだけ流通している現在ですから、それへの対応は当然するべきでしょうね。
ただ云いたいのは、奇ばかりを衒ったカタカナ言葉の羅列より、私のような年寄りが素直に入り込めて、小説の面白さに浸ることができる物、言うなれば老人の郷愁かも知れません。