昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

追憶・じゃこしか一代記(4)小学校で

2007-03-24 20:21:26 | じゃこしか爺さんの想い出話
  1・小学校入学
 
 やがて数え年七歳に成り、塔路尋常高等小学校への入学の日を迎えました。当時はまだ太平洋戦争こそ始まっていなかったのですが、中国との戦争が激しさを加えて、そろそろ物資も不足し始め、生活が非常時体制になりつつありました。そんな中でも真新しいランドセル(代用皮とかズック製)など、何一つ不足無く揃えて貰いました。
 入学当日の事は、今から約70年近くも昔のことですが、ある程度の事は覚えています。その頃の入学式には今のように親が付いて行くなどの事は無く、たいてい一人で行ったものです。
 私の場合は、父の同僚で日頃から親しくて良く家にも遊びに来ていた、用度課の物資運搬係りNさんが、配達帰りのオート三輪車で校門まで送ってくれました。当時はバスやトラック以外の車などは、今と違って殆ど見られない時代でしたから、例えオート三輪車とは云えながら、車で乗りつけた新入生は恐らく私一人だけだったでしょう。

 当時の塔路町は炭砿の盛況で、人口が爆発的に増えておりましたから、その生徒の数も優に三千人を超えるようになり、やがて樺太一のマンモス校と云われたほどでした。その対策のための新校舎が、旧校舎の後方に増築中でした。

 入学式を無事に終えた私たちの教室は、傷みと汚れが目立つ古くて狭い教室でした。
 受け持ちの先生は「木村ふみ」という女の先生で、太っていましたがとても笑顔がとても優しそうでした。しかし間も無く判ったのですが、見た目と違い女先生ながらもかなり怖い先生のようで、全校の生徒からはとにかく恐れられていたのです。
 この時同じクラスだったN君とは、70年近く経った今でも交流を続けています。また同じクラスで住吉町から一緒に通学し、お互いの家を往き来していた大の仲好しのK君・S君は、残念なことに戦後から今もってその消息は一切分かっておりません。


 ※・・・上の写真の旧校舎はいつ頃建てられたのか分かりませんが、かなり古びてあちこちが痛んでおりました。入学当時はこの校舎でした。

※ ・・・校庭は野球場が二面取れるほどの広さでしたから、新校舎(写真は半分)の大きさが分かると思います。また教室も広く、窓は二重でした。
冬になって積雪が、2~3メートルほどになると、教師の目を盗んで二階の窓から飛び降りたものです。半身がすっぽりと雪に埋まりとても爽快でした。落下傘部隊を真似て、度胸試しをしていたのです。



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6 コメント

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じゃこしかさん、こんばんは (polo181)
2007-03-24 22:03:32
いよいよ、第三弾まで来ましたね。三千人の生徒とはビックリ仰天でした。極寒の地で先生方も生徒達も苦労したことでしょう。しかし、二階から雪の原を目掛けて飛び降りる。いかにも元気一杯の子供達です。まず第一に驚いたことは、当時の写真を今もって持っていらっしゃることです。引き上げしたときにもなくさず大切に持ち帰ったのですね。とても貴重な資料です。第二に驚いたのは、当時の友達と今も交流がある点です。これはもう無二の親友と呼べるでしょうね。
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poloさんこんにちは (じゃこしか)
2007-03-25 15:42:25
 コメント有難うございます。
 戦時中の塔路炭砿は、三菱砿業のドル箱的存在でしたから、従業員が増えるにつれて生徒の数が一気に膨れ上がったのでしょう。
 本社もそうですが、国の方でも国策として何かと力を入れて呉れたようです。

 写真などは、当時兄が教員をしていましたので、それのお蔭だと思います。兄の死後全部私が引き受けたのです。こんな処(ブログ)で役立って呉れました。当時の人たちの目にでも触れて、懐かしがってくれることを密かに願ってもおります。

 この親友は今稚内市で、自営業を営み元気で頑張っています。またこの友は昨年5月23日に来釧し、その時のことを「朋有稚内より来る、亦楽しからずや」と題してブログに載せました。
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亡父の母校かも・・・ (ゆじん)
2011-10-08 14:12:46
こんにちは 突然お邪魔いたします。
最近、伯母(83歳樺太塔路出身)より「樺太連合が解散することになり残念・・・機関紙?に引上げ体験を投稿したので読んで・・・」云々の話があり送られて参りました。最後のページに学校らしい写真が掲載してあり「懐しの塔路一校」とメモがありました。私の父(昭和9年生・当時小5,6年と思われます)はすでに亡くなっておりますが生前、1度だけ酔った時にソ連に攻撃され弟と二人で家族とはぐれ姉が入所していた三菱の看護婦養成所まで野宿しながら尋ねて行った話しを聞いたことがあります。その後、父は引き上げ船で函館に着き、家族一緒に全く無縁の離島に定住し亡くなるまで、その島に住んでおりました。伯母から聞いた話では島の学校になじめず結局、小学校をきちんと卒業せず、そのまま新生中学にも入学せず働いたようです。父には島に同級生という方がひとりも存在しない・・・と言うことが大人になってからの私にはとても寂しい感じがして父が可哀想に思われました。
樺太の学校のことだけは何度も「とても大きい学校だった」と話しておりました。
今、PCと言う便利なモノがあり、検索していたらこちらに偶然たどりついたのでした。
勝手に長文を記載して失礼いたしました。
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ゆじん様今晩は (じゃこしか)
2011-10-17 16:23:19
 コメント有難うございました。
 ブログに書きましたが、老妻が突然にガンを宣告されブログどころでは無くなりました。
 せっかくのコメントにもご返事が遅れましたことを心からお詫び申し上げます。
 貴方のコメントの内容からも、貴方のお父様とは学校が一緒だったことは、まず間違い有りません。
 お亡くりになられたとのことですが、本当に残念でなりません。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。
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懐かしい母校の写真 (としえ)
2012-04-07 04:42:13
じゃこしかさん、はじめまして。
1945年4月、塔路の国民学校に入学いたしました。
亡き父は、この学校の教員で高等科を担任していました。
1948年に引き揚げてきて、父は塔路と同じような環境の北海道の三井鉱山・上砂川第一小学校に奉職しました。
4枚の写真は、父のアルバムに張ってありましたので、私は見慣れている写真です。
本当に懐かしく、写真を共有できる方がおいでになったことに感動いたしました。
私が入学した時の担任の先生は、鈴木あや子先生でした。確かご主人様が戦死されて、私より少し年上のお譲さんが一人おられました。厳しくも優しい先生で、父の同僚でもありますので、私の日ごろの行動は、いつも父に筒抜けでした。
私の知っている木村先生は、ご夫妻で教員をなさっていて、奥様先生は体調を崩して休職なさっていらっしゃいました。奥様先生が「ふみ」というお名前かどうかは記憶にないのですが、
当時(1945)は、ひろ子ちゃんという2歳くらいの色白で真っ赤な毛糸のワンピースがよく似合うかわいい女の子さんがいらしっしゃいました。
ご夫君の木村先生も優しそうな方でした。奥様先生は、その後(1946年ごろ)亡くなりましたが、笑顔のお優しい物静かに方で私は母のお使いで、木村先生宅へ伺うたびに、とってもきれいな千代紙やぬりえを頂いてきました。物のないころでしたから、こども心に夢のような頂きものでした。
父(36歳)は、空襲が始まった8月16日だったと思いますが、学校の同僚だった木匠顕一先生とともにご真影を背負って豊原に向かいました。
留守宅に残された母(28歳)は、7歳の私、4歳の弟、1歳の妹を背負い、母子4人で父の師範学校の同級生だった方を訪ねるために、大泊まで大空襲のなかを逃げ回ったことを憶えています。
父の名は島崎進です。
戦後、斎藤校長、石川教頭、それに島崎の家族が集まって、時々、夕食会をしていました。
娯楽のない子供たちは、それがとても楽しみでした。今でも石川教頭の娘さん(静岡)とは、お付き合いをしています。
残念ながら、私の同期の方々とは低学年だったこともあり、お付き合いしている人はおりません。
最近になって、仕事の関係でプロフィルが必要になり樺太のことをいろいろ検索しておりましたところ、じゃこしかさんのブログを拝見するに至りました。
お陰さまで私の思い出が、微かなところも具体的に知ることができました。
心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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としえ様今晩は (じゃこしか)
2012-04-07 17:32:34
 としえ様コメント有難うございます。
 本当に懐かしいコメントで、遠い樺太時代を想い出しております。
 島崎先生は良く存じております。それに石川先生や木匠先生もです。
 木村先生にはお世話になりました。それに徴用で行った真岡の鰊場でのことなど、懐かしい想い出がいっぱいです。
 奥様とのことは当時生徒間で、お二人の仲の良さが噂になったものです。
 なお私たちの初等科時代の担任は、須藤・小田・鶴岡の各先生方でした。
 なおこの{じゃこしか一代記}の(2)で、当時の各先生方の写真を載せてありますが、ご覧頂けましたか。
ちなみに私の兄も教員をしておりました。ただし教員の成り立てで代用教員(久保)でした。
 本当に胸が熱くなるようなコメントを頂き感激しております。今後とも宜しくお願いいたします。
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