手を繋いだ親子が、夕焼けの砂丘に長い影を落として歩いて行きます。砂漠はもう間もなく暮れようとしているのに、ただただ親子は遥か遠くの山を目ざして歩いて行きます。
そこには家でも在るのでしょうか、真っ直ぐ続く親子の裸足の足跡がくっきりと残っております。
夕焼けを見ていると、ふとこの光景が浮かんで来ます。おそらく既視感とでも言うのでしょう。
ですからそれがいつ何処で目にしたのか、まったく分かりませんが、とにかく夕焼けを見ていると思い出されて来るのです。
これはおそらくアフリカが人類発祥の地である事、そのアフリカのどこかの砂丘で、親子の足跡の化石を発見したとの記事が、かなり強く脳裏に焼きついてしまったからでしょう。
夕焼けを見ていて次に想い出されのは、夢でも既視感でも無くて終戦時に実際に体験した本当のことです。
当時私たち一家は樺太でも最大手の炭砿住んでいました。そして私はその町の国民高等小学校の高等科1年生でした。今の中学1年生です。
忘れもしません、戦争が終わろうとしている時になってから、ソ連が突然の参戦して来たのです。
樺太とはソ連の目の先で、当時の飛行機でも8分と掛からない近さでしたから、ソ連軍は直ぐにでも樺太に上陸して来る社宅の住民に軍から避難命令が出されました。
しかし高等科の1年生で男子だった私は、家族と一緒に非難は出来ず、他の高等科の生徒とともに残されました。
そして少年隊と呼ばれ住民が避難した後の社宅の見回りや、非難が出来ないで家に残っている病人などの世話などを任されました。
やがてソ連軍が上陸して来る事態となって、ついに大人たちや私たち全員に避難命令が出ました。
とりあえず避難場所に指定されていた炭砿の坑道の入り口で一夜を明かしたのですが、そこで私たち少年隊は解散され以後は自由行動となりました。
先に街から避難した家族たちに合流しようと思い立ち、顔見知りの大人たちに付いて出発しました。
家族たちは近所の人たちと一緒で、おそらく隣町の内陸の奥深い農村辺りだろうと見当は付けたのですが、今更国道を行くのはソ連兵とぶつかるのは必至ですから、山越えをして行かなければなりませんでした。
二つから三つもの山越えしなければならないので、2日も3日も掛かるでしょうから、当然野宿もしなければなりませんでした。
その時の道中の途中で見たのが、生涯忘れられないほどにもなった物凄い夕焼けでした。
遥かな山の端に沈み行く夕日が、避難して誰も居ない小さな農村を真っ赤に染めていました。それは物凄さと云うよりも、なぜか物悲しさをこめた郷愁にも似て、未だに想い出されるのです
夕焼けを追ってあちこち出歩く体力は無いのでもっぱら家の近くか窓からです。
そこには家でも在るのでしょうか、真っ直ぐ続く親子の裸足の足跡がくっきりと残っております。
夕焼けを見ていると、ふとこの光景が浮かんで来ます。おそらく既視感とでも言うのでしょう。
ですからそれがいつ何処で目にしたのか、まったく分かりませんが、とにかく夕焼けを見ていると思い出されて来るのです。
これはおそらくアフリカが人類発祥の地である事、そのアフリカのどこかの砂丘で、親子の足跡の化石を発見したとの記事が、かなり強く脳裏に焼きついてしまったからでしょう。
夕焼けを見ていて次に想い出されのは、夢でも既視感でも無くて終戦時に実際に体験した本当のことです。
当時私たち一家は樺太でも最大手の炭砿住んでいました。そして私はその町の国民高等小学校の高等科1年生でした。今の中学1年生です。
忘れもしません、戦争が終わろうとしている時になってから、ソ連が突然の参戦して来たのです。
樺太とはソ連の目の先で、当時の飛行機でも8分と掛からない近さでしたから、ソ連軍は直ぐにでも樺太に上陸して来る社宅の住民に軍から避難命令が出されました。
しかし高等科の1年生で男子だった私は、家族と一緒に非難は出来ず、他の高等科の生徒とともに残されました。
そして少年隊と呼ばれ住民が避難した後の社宅の見回りや、非難が出来ないで家に残っている病人などの世話などを任されました。
やがてソ連軍が上陸して来る事態となって、ついに大人たちや私たち全員に避難命令が出ました。
とりあえず避難場所に指定されていた炭砿の坑道の入り口で一夜を明かしたのですが、そこで私たち少年隊は解散され以後は自由行動となりました。
先に街から避難した家族たちに合流しようと思い立ち、顔見知りの大人たちに付いて出発しました。
家族たちは近所の人たちと一緒で、おそらく隣町の内陸の奥深い農村辺りだろうと見当は付けたのですが、今更国道を行くのはソ連兵とぶつかるのは必至ですから、山越えをして行かなければなりませんでした。
二つから三つもの山越えしなければならないので、2日も3日も掛かるでしょうから、当然野宿もしなければなりませんでした。
その時の道中の途中で見たのが、生涯忘れられないほどにもなった物凄い夕焼けでした。
遥かな山の端に沈み行く夕日が、避難して誰も居ない小さな農村を真っ赤に染めていました。それは物凄さと云うよりも、なぜか物悲しさをこめた郷愁にも似て、未だに想い出されるのです
夕焼けを追ってあちこち出歩く体力は無いのでもっぱら家の近くか窓からです。
私にとって夕焼けは物悲しいものです。苦しい過去を思い起こさせるなにかがあります。それに引き替え朝焼けは希望をもたらします。今日一日精一杯生きようという力がみなぎってきます。どちらも好きですよ。
人には夫々にその人の生きて来た途上の背景と共にの思い出があるものなのでしょうね。
じゃこしかさんの戦時中の体験は貴重なものですね。
事柄としては歴史的なこととして聞いたり読んだりして知っていますが、そこにいて生身の体験、感覚は単に事柄の表面だけでない中身を語ってくれているように思えて感動です。
今も続く歴史的事象として考えさせられます。
今の中学1年生が、と考えると、じゃこしかさんの少年時代が、その時の心情がと思われてなりません。貴重な体験、思い出を書いて下さり感謝です。
「夕焼けに想う」の六葉の写真に感動しました。
私にも想い出されることがあります。故郷を十八歳で旅立ち、苦学生の頃、アルバイト帰りの電車の窓から見た夕焼けの想い出が走馬灯の如く脳裏をかすめました。
仰るとおりで、夕焼けには物悲しさとか郷愁を感じさせますね。ただ私が起きるのは殆ど7時過ぎなので、また家の位置からも日の出はめったに見ることはありません。
夕日を見て浮かんでくるのは、やはり樺太で過ごした子ども時代です。
釧路人が自慢するに値するだけの素晴らしい夕焼けでしょう。ただ思うように出歩けませんから、それに近所に家が建て込んで来ましたので、今までのように居ながらにして撮れなくなりました。残念です。
夕焼けを見入っていると昔の想い出に浸りきり、感傷的になって仕舞いがちですね。
釧路の夕焼けはこれからますます良くなってゆきますから、また米町公園の高台とか、幣舞橋などを撮ってきて載せたいと思います。
ずいぶんとご苦労なされたのですね。私も夜学生(高校)と通信教育を経験しておりますので、虎丸さんの思い良く分かるつもりです。
しかしそれらは皆良い想い出として心に残っておりますが・・・。