平成24年3月17日に拝見した天理市藤井町の塔婆の願文。
平成10年に次のヤド受けをして納屋に保管していた。
その年は3月25日に行われたと聞いている。
上のほうにある梵字の五文字は判読できないが、「国家安全五穀豊穣村中安康如意満足 平成十年三月二十九日 閏庚神 営ム」とあった。
「神」とあるのは「申」を「書き間違ったのでは」と婦人が話していた塔婆。
旧暦閏年に行われる閏庚申のトアゲで奉られたカシの木である。
度々伺う上垣内のN家の稲屋にそれがあったのだ。
トアゲを充てる漢字は「塔上げ」である。
桜井市山間でもそう呼ぶ閏庚申の行事。
塔婆を揚げるからそう云うのであろう。
今年の旧暦閏月は9月。
秋の時期にする地域もあるが、藤井町では大の月とは関係なく、だいたいが3月末のようである。
昨今は旧暦が判る人が少なくなってオリンピック開催年の新暦に移す地域が増えつつある。
藤井町の庚申講は北・上・南垣内の三つの組がある。
庚申の日の夜には組のヤド家で青面金剛童子の掛軸を掲げるが、庚申さんには手を合わせることなく灯明の火を灯すだけになったと話す。
上垣内では「おっぱん」と呼ぶ膳を供えているが、特別な料理ではなく、家人が食べている料理と同じだと話す。
膳の横には千円札を積み重ねている。
これは旅行費用の積立金だ。
年に6回の庚申さんの日に積み立てるので一年で6千円貯まると云う。
この日に訪れた上垣内の講中は「北海道旅行に行くんや」と観光パンフレットを見ながら相談をされていた。
いつもなら夜のヤドよばれであるが、この日は閏庚申のトアゲ。
各組とも昼間にヤド家でよばれていたようだ。
「昔は、さまざまな料理をこしらえて食べていたが、徐々に派手になってきたからパック詰め仕出し料理と白飯、漬け物だけにした」と云う。
各組とも同じようなヤドよばれである。
三つの組が決定された時間ともなれば葉付きのカシの木の塔婆を担いで庚申さんに向かう。
上垣内のヤド家は平成10年にも勤められたN家。
この年の願文は「奉納 天下泰平 国家安全 五穀豊穣 村中安康 如意満足 平成二十六年三月三十日 閏庚申 営ム」に正しくされた。
同家より歩いて数百メートルの南の地。
標高はおよそ450mだ。
この日の午前中は雨が降っていた。
講中が参るには困るであろうと判断されて雨除けにブルーシートで覆っていた。
ロープを張って屋根代わりに設えた庚申さんの地。
崖のような場に庚申石があるが、文字は見られない。
その前に立てた青竹で作った花立て。
お花を飾っている。
庚申さんは、この場より上にあったと云う。
その場には卵の殻のような物体が残っていた。
昭和35、6年のころ、そこから転げ落ちた庚申石は道を越えて田んぼに落ちていったそうだ。
トンボと云う名の道具で担いで運びかけたが、元の鞘に収めることができなくて、崖に埋め込んだと云う。
「そんな話を聞くのは始めてや」と云う村人。
ほとんどが知らなかったと口々に云う。
庚申石がある場は細い道。
かつてはここが長谷街道であった。
長谷寺に向かう旧道だったそうで、村の里道(りどう)だとも話していた旧道の向こうは桜井市の笠山荒神である。
講中の中には老人うば車を押して坂道を登ってくる老婦人もおられる。
旧道は、なんせ狭い道である。
雨天決行の場では一同が前に並ぶことができずに広がった。
庚申石に長さ4mにもなる塔婆を置いて一合餅やジャコを供えた。
他所ではそれぞれの垣内で塔婆を奉られるが、藤井では3組合同というわけで1本の塔婆にしているそうだ。
「雨がやんで丁度良かった」と云って般若心経を三巻唱えた。
参拝を終えれば、御供餅を一人ずつ配って、解散した。
奉った塔婆は次の閏庚申のヤドになる男性Hさんが担いで帰った。
ちなみに五文字の梵字は「キャ、カ、ラ、バ、ア」と詠む「地、水、火、風、空」。
天理市中山田の蔵輪寺住職は「すべて万物から成り立っている」表現だと云っていたことを思い出した。
(H26. 3.30 EOS40D撮影)
平成10年に次のヤド受けをして納屋に保管していた。
その年は3月25日に行われたと聞いている。
上のほうにある梵字の五文字は判読できないが、「国家安全五穀豊穣村中安康如意満足 平成十年三月二十九日 閏庚神 営ム」とあった。
「神」とあるのは「申」を「書き間違ったのでは」と婦人が話していた塔婆。
旧暦閏年に行われる閏庚申のトアゲで奉られたカシの木である。
度々伺う上垣内のN家の稲屋にそれがあったのだ。
トアゲを充てる漢字は「塔上げ」である。
桜井市山間でもそう呼ぶ閏庚申の行事。
塔婆を揚げるからそう云うのであろう。
今年の旧暦閏月は9月。
秋の時期にする地域もあるが、藤井町では大の月とは関係なく、だいたいが3月末のようである。
昨今は旧暦が判る人が少なくなってオリンピック開催年の新暦に移す地域が増えつつある。
藤井町の庚申講は北・上・南垣内の三つの組がある。
庚申の日の夜には組のヤド家で青面金剛童子の掛軸を掲げるが、庚申さんには手を合わせることなく灯明の火を灯すだけになったと話す。
上垣内では「おっぱん」と呼ぶ膳を供えているが、特別な料理ではなく、家人が食べている料理と同じだと話す。
膳の横には千円札を積み重ねている。
これは旅行費用の積立金だ。
年に6回の庚申さんの日に積み立てるので一年で6千円貯まると云う。
この日に訪れた上垣内の講中は「北海道旅行に行くんや」と観光パンフレットを見ながら相談をされていた。
いつもなら夜のヤドよばれであるが、この日は閏庚申のトアゲ。
各組とも昼間にヤド家でよばれていたようだ。
「昔は、さまざまな料理をこしらえて食べていたが、徐々に派手になってきたからパック詰め仕出し料理と白飯、漬け物だけにした」と云う。
各組とも同じようなヤドよばれである。
三つの組が決定された時間ともなれば葉付きのカシの木の塔婆を担いで庚申さんに向かう。
上垣内のヤド家は平成10年にも勤められたN家。
この年の願文は「奉納 天下泰平 国家安全 五穀豊穣 村中安康 如意満足 平成二十六年三月三十日 閏庚申 営ム」に正しくされた。
同家より歩いて数百メートルの南の地。
標高はおよそ450mだ。
この日の午前中は雨が降っていた。
講中が参るには困るであろうと判断されて雨除けにブルーシートで覆っていた。
ロープを張って屋根代わりに設えた庚申さんの地。
崖のような場に庚申石があるが、文字は見られない。
その前に立てた青竹で作った花立て。
お花を飾っている。
庚申さんは、この場より上にあったと云う。
その場には卵の殻のような物体が残っていた。
昭和35、6年のころ、そこから転げ落ちた庚申石は道を越えて田んぼに落ちていったそうだ。
トンボと云う名の道具で担いで運びかけたが、元の鞘に収めることができなくて、崖に埋め込んだと云う。
「そんな話を聞くのは始めてや」と云う村人。
ほとんどが知らなかったと口々に云う。
庚申石がある場は細い道。
かつてはここが長谷街道であった。
長谷寺に向かう旧道だったそうで、村の里道(りどう)だとも話していた旧道の向こうは桜井市の笠山荒神である。
講中の中には老人うば車を押して坂道を登ってくる老婦人もおられる。
旧道は、なんせ狭い道である。
雨天決行の場では一同が前に並ぶことができずに広がった。
庚申石に長さ4mにもなる塔婆を置いて一合餅やジャコを供えた。
他所ではそれぞれの垣内で塔婆を奉られるが、藤井では3組合同というわけで1本の塔婆にしているそうだ。
「雨がやんで丁度良かった」と云って般若心経を三巻唱えた。
参拝を終えれば、御供餅を一人ずつ配って、解散した。
奉った塔婆は次の閏庚申のヤドになる男性Hさんが担いで帰った。
ちなみに五文字の梵字は「キャ、カ、ラ、バ、ア」と詠む「地、水、火、風、空」。
天理市中山田の蔵輪寺住職は「すべて万物から成り立っている」表現だと云っていたことを思い出した。
(H26. 3.30 EOS40D撮影)