マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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天理九条・横広の猪子調査

2022年09月18日 06時56分27秒 | 天理市へ
なにをキーにネット検索したのか、さっぱり記憶のない頁が表示された。

それは天理観光ガイド・天理観光協会が、アップしていた「町名の由来」だった。

たまたま出力した民俗の情報に興味をそそられた。

在地は天理の九条の地。

現在表記が、天理市九条町。

元々の検索キーは、地区横広。

旧村に違いないのだが、現在の行政表記には現れない。

調べたい地区は横広。

九条・横広・筑紫の三つの小村(垣内)を集約されて九条町になったそうだ。

ここら辺りは、興福寺領。

かつては荘園の九条庄であった、とある。

出典は、取材にお世話になった天理市杣之内町の住民であるNさんたちが地区で行われている年中行事を調査し、報告書に仕立てた。

最終段階ではないが、集められた年中行事を整備した『(仮)天理市の歳時記』リスト。

頁を繰ったある記事に目が点になった。

行事名は「猪子(いのこ)」。

行事地が天理市横広だった。

その横広に「藁で“デン棒”を作り、各家を叩いて回る/出産・結婚・新築などがあった家には最後に“デン棒”を振り回して祝う/祝い事がなかった年は最後に区長家で暴れる」と、ある。

所作からして、奈良県内の多くの地域で行われていたイノコ行事である。

稲刈りを終えて収穫した新米。

籾を落とした稲藁はさまざまな用途に再利用する。

その稲わらを束つくり。

やや固さをもった稲わら。

民俗語彙では、藁づとと呼ぶことが多いが、地域によって名称は多様である。

奈良県内に今も行われている地域は、大淀町・上比曽のイノコ明日香村下平田のイノコ

平成29年が、最後になった高取町の佐田森地区

呼称のデンボのこともあるが、地面を打ちながら囃すイノコ詞章が大いに妙味をもち、類似例探しにはるばる大阪の南部・北部の調査にでかけたことも。

また、京都南部では、行事名は異なるが、所作が同じ。

詞章も調べたくて訪れた地域の調査。

ある程度の情報が集まったので、イノコモチとの関係はどうなんだ、と思ってまとめた「イノコ行事とイノコモチ

「イノコ行事とイノコモチ」をまとめてから、早や8年。

歳時記にヒントが見つかった。

歳時記記事以外の手がかりは、ない。

所在地さえ存じていない横広。的が外れている可能性もあるが、現地目指して車を走らせた。

思い立った時間が午後だった。

暗くなるまでに到着したい横広(よこびろ)。



集落の位置、建物など風情を感じさせる狭い路に入ってしまった。

南から入って北へ抜けたそこは田園の地。

稲刈りを終えた田畑が広がる。

東西を通す水路近くでひと休みされた1人の男性。

ご高齢な方なら、猪子(いのこ)行事をご存じかもしれない。

そう、思って声をかけた男性は、昭和5年生まれの91歳。

毎日が散歩だ、というHさんに伺った。

猪子(いのこ)か、懐かしいな、というHさん。

少子化の時代、およそ15年前まではしていたそうだ。

「いのこのよさり」と、囃していた子供の行事。

ここ横広の集落。各家を巡り、”デンボ”の名がある藁棒を、地面に向けて打っていた。

大昔は、男の子だけの行事だったが、最後の方には男児に女児もいっしょになって巡っていた。

対象年齢は、小学1年生から6年生までの子どもたちが、「ねーちゃん おきてるけ」、と囃しながら歩いていた。

”デンボ”は、お嫁さんをもらった家の庭を打っていた。(※天理歳時記によれば、結婚に出産。新築建てた祝いごとのある家)

Hさんが、記憶に残る昭和24、5年のころの子どもの人数。

「えろう おった」というくらいに多かった。

私がまだ生まれてもいない時代の子どもたち。

年齢的にいえば、いわゆる戦後生まれの団塊の世代の子たちである。

「ちんこい家やったけど、今は大きなった」横広の集落。

農家の家ばかりだった、という。

昭和36年に発生、9月16日に再度上陸した第二室戸台風

倒木、家屋が飛ばされるなどの被害は大きかった。

自然に向かい合って暮らしてきた農業従事に50年。

今は、こうして毎日が散歩だと、腰をあげたHさん。



杖代わりにしているプラボックスを載せた車を押して、北の方角にむけてとことこ歩いて行った。

田園地に西から東に流れる煙。



そう、稲刈りを終えたその地に、籾殻を燃やしてつくる燻炭。

この時季の風情にシャッターを押したくなる燻炭焼き情景である。

西を向いたそこの稲刈りをした地。遠くに見える藁干し。



その向こうに見える山は、葛城山系。

そろそろ太陽が、西に落ちる。

すぐ横にあった雑木林の下におられた二人の男性。



一人は横広に住まいするHさん。

もう一人は、北方の天理市井戸堂に住むTさん。

昭和13年生まれの80歳。

気が合うのか、ときおりこの場に立ち寄って会話を楽しんでいるようだ。

この地は、帰宅してからわかった九条町・横広の野神の地である。



大樹の下にある石塔は、建造が江戸時代を想定される宝篋印塔。

「この村に財産家がおってな、その人の墓かも・・・」と、いわれている。

Tさんは、元区長。

かつては、筑紫に九条も百軒の村だった。

明治時代の初めのころに九条から出た家々が横広の地に移ったようだ。

九条から見れば、横広は九条の出垣内。

奈良県内には、そういった出垣内は少なくない。

九条町に共同墓地は3カ所。

九条・横広・筑紫それぞれの垣内の墓地がある。

ちなみにTさんもまた、猪子(いのこ)は、15年ほど前までしていた、という。

最後の年の「いのこのよさり」は、5人で回っていた。

最後の年やから、といって思い切り、力を込めて”デンボ”を打っていた、という。

今の子たちは、おそらく猪子(いのこを知らずに育ってきただろう。

二人が会話していた野神の地を自転車が駆けぬけていく。



丹波市境界辺りにある九条池で釣っていた釣竿のバスフイッシングロッドを自転車に挿して走っていった少年たち。

帰宅の道は南の方面。

横広の子どもたちであろうか。



子供たちを見送った二人。

そこそこ迫ってきた夕刻の時間帯。



Tさんは自転車に跨ってきた道を戻っていった。

逆向きのHさんもまたもと来た道を帰っていく。



見送った私も、お家へ帰ろう。

頭に浮かんだカレーの香りが漂い、お家へ帰ろうのコマーシャルソング♪が流れた。

(R2.11. 3 EOS7D撮影)


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