桜井市の山田の旧暦閏年に行われる閏庚申のモウシアゲを知ったのは平成24年の4月だ。
その年は旧暦の閏年。
4月朔日の農休みの日に村中それぞれの垣内の組で行われると云っていた。
その年に訪ねたのは川之垣内だ。
平成10年にモウシアゲされた塔婆を残されていたM家。
塔婆に書いてあった願文は「日 月 木 火 土 金 水 奉納 猿田彦大明神 五穀成就 講中安全 川之垣内 平成十年朔月 四月五日」であった。
平成25年の10月にも訪れた山田の地。
奥垣内に住む桜井市文化財審議官のFさんが門屋に残していた塔婆は五文字の梵字に「南無青面金剛童子 天下和順日月清明 風雨災厄国豊 兵戈崇徳 以時不起民安 無用興仁 務修禮譲之塔 平成二十一年四月五日建之」であった。
川之垣内、奥垣内とも旧暦の4月初めの日曜日に行うと聞いていた。
平成25年の7月に訪れた東茶ノ前垣内のF家当主が云うにはオリンピックの年の初庚申に参って般若心経を三巻唱えると話していた。
もしかと思って今年の2月に再訪したFさんの話によれば、初庚申は2月16日にしたと云う。
「それでなくてモウシアゲは・・」と尋ねた結果は、4月初めの日曜日。
村の総会で決まった日であり、各垣内で行われると話していた。
時間帯は各垣内によってさまざまなようであったが、川之垣内は朝8時で、東茶ノ前垣内は11時だった。
垣内の講中の都合によって行われる時間はまちまちなのであるが、正確性を欠いた開始時間。
状況は判然としなかったが、ともかく出かけた朝8時、東茶ノ前垣内の庚申石には早くもお供えをしていたヤド家がおられた。
雨が降るこの日の集合時間は10時半。
「ネコが食べやんように見張っている」と云う。
ヤド家が云うには山田では3組ほどになったと云う。
そう云えば宮講の一人であるⅠ家は西茶ノ前垣内だった。
2月初めの日曜日に初庚申をしていたと話していた。
ご主人が云うには旧暦の閏年には「モウシアゲ」をしているようだった。
ハンノキを採ってきて決まった文言の願文を書くと話していたが、講中も少なくなってしないかもと話していた。
山田には7つの庚申塚(石)があることは聞いていたが、いくつかの所在は掴めていない。
モウシアゲが行われる前に教えてもらおうと思って訪ねた奥垣内のF家。
ここでも11時から始めると云う。

教わった奥垣内の庚申さんの横には愛宕神社の石塔があった。
なんでも8月23日には、その前でゴザを敷いて数珠繰りをしていると云うのだ。
山田で愛宕神社を祀る垣内は奥垣内と西出垣内の二カ所。

西出垣内では愛宕さんの行事をしているかどうか判らなかった。
北の集落外れにあった東出垣内の庚申石を探して村内を巡る。

見つかった庚申石には黄色い花を添えていた。
講中が飾ったものだと考えられるがモウシアゲの有無は判らない。

川之垣内の庚申石は山の上の方にある。
ここだけは青面金剛が彫られていた。
ここでも同じようにお花を添えていた。

井戸の処にもあると云っていた上出垣内の庚申石も見つかった。
同じようにお花をそえているが、いずれも講中が判らず聞取りはできなかった。
6垣内の庚申石の場が見つかって戻ってきた東茶ノ前垣内。
大雨になる前に始めようと、時間を急遽繰り上げて行われることになったそうだ。

お供えはタケノコ・ゴボウ・ニンジンの煮椀、菜の花のおひたし、一丁の豆腐にセキハン盛りである。

掲げる塔婆の文字は「南無阿弥陀佛・・ 南無卯月金剛童子 庚申待 家内安全 宝塔也」だった。

Fさんが勤める導師が前に立って、2礼、2拍手、1礼。次に三巻の般若心経を唱えていく。
二巻目を唱えているときのことである。ウーーーーウーーーと大きな音でサイレンが鳴りだした。
大雨警報かなと思えるほどの大音量はすぐ近くの消防団小屋からのようだ。
心経が終わるころにやってきた消防用ポンプ。

Fさんがカンピョウ干しをする三本の木柱の横で退避していた。
モウシアゲを終えた場の前には消防水利池がある。
そこに吸水ホースを入れて池水を汲みあげていく。

タービンポンプを回転させて吸水した水を放水ホースで勢いよく再び池に戻す。
月1回の消防用ポンプの点検作業は毎月初めの日曜日。
農休みの日であるが、消防団に休みはなく、村のリスク対応であったのだ。

モウシアゲを終えた塔婆はヤド家が保管するそうで持ち帰った。
本来なら、お供えに御供モチもあるそうだが、この日は雨であるために会食される料理屋迎えのバスに集合する際に配ると云っていた。
これまでヤドの営みであったが、この年から料理屋に場を移した。
講中は宇陀観光のバスに乗って出かけていったのである。
ちなみに塔婆の木はハンノキが本来であるが、山にはなく、ホソの木かカシの木、或いはネンブリ(ネムノキか)だ。
この年はハゼウルシになったと話す。
営みがヤドであったときは、ゴンザと呼ばれるサトイモ・アブラゲ・コンニャク・ダイコン煮ものの料理がつきものだったと云う。
ゴンザを充てる漢字は判らないが、川之垣内のMさんもコイモ、ダイコン、コンニャクやチクワなどを煮たものだったと話していたことを思い出した。
(H26. 4. 6 EOS40D撮影)
その年は旧暦の閏年。
4月朔日の農休みの日に村中それぞれの垣内の組で行われると云っていた。
その年に訪ねたのは川之垣内だ。
平成10年にモウシアゲされた塔婆を残されていたM家。
塔婆に書いてあった願文は「日 月 木 火 土 金 水 奉納 猿田彦大明神 五穀成就 講中安全 川之垣内 平成十年朔月 四月五日」であった。
平成25年の10月にも訪れた山田の地。
奥垣内に住む桜井市文化財審議官のFさんが門屋に残していた塔婆は五文字の梵字に「南無青面金剛童子 天下和順日月清明 風雨災厄国豊 兵戈崇徳 以時不起民安 無用興仁 務修禮譲之塔 平成二十一年四月五日建之」であった。
川之垣内、奥垣内とも旧暦の4月初めの日曜日に行うと聞いていた。
平成25年の7月に訪れた東茶ノ前垣内のF家当主が云うにはオリンピックの年の初庚申に参って般若心経を三巻唱えると話していた。
もしかと思って今年の2月に再訪したFさんの話によれば、初庚申は2月16日にしたと云う。
「それでなくてモウシアゲは・・」と尋ねた結果は、4月初めの日曜日。
村の総会で決まった日であり、各垣内で行われると話していた。
時間帯は各垣内によってさまざまなようであったが、川之垣内は朝8時で、東茶ノ前垣内は11時だった。
垣内の講中の都合によって行われる時間はまちまちなのであるが、正確性を欠いた開始時間。
状況は判然としなかったが、ともかく出かけた朝8時、東茶ノ前垣内の庚申石には早くもお供えをしていたヤド家がおられた。
雨が降るこの日の集合時間は10時半。
「ネコが食べやんように見張っている」と云う。
ヤド家が云うには山田では3組ほどになったと云う。
そう云えば宮講の一人であるⅠ家は西茶ノ前垣内だった。
2月初めの日曜日に初庚申をしていたと話していた。
ご主人が云うには旧暦の閏年には「モウシアゲ」をしているようだった。
ハンノキを採ってきて決まった文言の願文を書くと話していたが、講中も少なくなってしないかもと話していた。
山田には7つの庚申塚(石)があることは聞いていたが、いくつかの所在は掴めていない。
モウシアゲが行われる前に教えてもらおうと思って訪ねた奥垣内のF家。
ここでも11時から始めると云う。

教わった奥垣内の庚申さんの横には愛宕神社の石塔があった。
なんでも8月23日には、その前でゴザを敷いて数珠繰りをしていると云うのだ。
山田で愛宕神社を祀る垣内は奥垣内と西出垣内の二カ所。

西出垣内では愛宕さんの行事をしているかどうか判らなかった。
北の集落外れにあった東出垣内の庚申石を探して村内を巡る。

見つかった庚申石には黄色い花を添えていた。
講中が飾ったものだと考えられるがモウシアゲの有無は判らない。

川之垣内の庚申石は山の上の方にある。
ここだけは青面金剛が彫られていた。
ここでも同じようにお花を添えていた。

井戸の処にもあると云っていた上出垣内の庚申石も見つかった。
同じようにお花をそえているが、いずれも講中が判らず聞取りはできなかった。
6垣内の庚申石の場が見つかって戻ってきた東茶ノ前垣内。
大雨になる前に始めようと、時間を急遽繰り上げて行われることになったそうだ。

お供えはタケノコ・ゴボウ・ニンジンの煮椀、菜の花のおひたし、一丁の豆腐にセキハン盛りである。

掲げる塔婆の文字は「南無阿弥陀佛・・ 南無卯月金剛童子 庚申待 家内安全 宝塔也」だった。

Fさんが勤める導師が前に立って、2礼、2拍手、1礼。次に三巻の般若心経を唱えていく。
二巻目を唱えているときのことである。ウーーーーウーーーと大きな音でサイレンが鳴りだした。
大雨警報かなと思えるほどの大音量はすぐ近くの消防団小屋からのようだ。
心経が終わるころにやってきた消防用ポンプ。

Fさんがカンピョウ干しをする三本の木柱の横で退避していた。
モウシアゲを終えた場の前には消防水利池がある。
そこに吸水ホースを入れて池水を汲みあげていく。

タービンポンプを回転させて吸水した水を放水ホースで勢いよく再び池に戻す。
月1回の消防用ポンプの点検作業は毎月初めの日曜日。
農休みの日であるが、消防団に休みはなく、村のリスク対応であったのだ。

モウシアゲを終えた塔婆はヤド家が保管するそうで持ち帰った。
本来なら、お供えに御供モチもあるそうだが、この日は雨であるために会食される料理屋迎えのバスに集合する際に配ると云っていた。
これまでヤドの営みであったが、この年から料理屋に場を移した。
講中は宇陀観光のバスに乗って出かけていったのである。
ちなみに塔婆の木はハンノキが本来であるが、山にはなく、ホソの木かカシの木、或いはネンブリ(ネムノキか)だ。
この年はハゼウルシになったと話す。
営みがヤドであったときは、ゴンザと呼ばれるサトイモ・アブラゲ・コンニャク・ダイコン煮ものの料理がつきものだったと云う。
ゴンザを充てる漢字は判らないが、川之垣内のMさんもコイモ、ダイコン、コンニャクやチクワなどを煮たものだったと話していたことを思い出した。
(H26. 4. 6 EOS40D撮影)