マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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田原横田の子供のねはんこ

2014年10月14日 07時46分26秒 | 奈良市(東部)へ
地域ごとで行われている奈良市田原の里の子供の涅槃を取材したことがある。

お米集めをした子供は涅槃図を掲げた講ヤドで会食をしていた日笠町

大野町では講ヤドで遊び回るが、涅槃図を掲げていたのは十輪寺だった。

須山町では講ヤドに涅槃図もなく、お菓子集めをした子供が地蔵石仏にメシを塗りつける作法であった。

麻緒で括ったヒカゲノカズラやタロ(タラ)の箸で食べる大盛りのシロゴハンの作り膳があったのは矢田原だ。

田原の里の子供の涅槃講は地域によって異なる在り方である。

先月末に立ち寄った田原の横田町

神社役員の男性が神社にヒサカキをおますと話していた。

そうであればこれまで拝見した他所とも違う在り方である。

これまで拝見した他所とも違う在り方を拝見したく予め取材願いをしていた横田町の子供のねはんこである。

かつては大勢の子供が行っていたが、今は少人数。

一度は止めようかという意見もあったが、大切な村の文化を継ぐ子供たちの行事は絶やすことをせずに続けてきた。

プライバシー保護の観点を重要視されている横田。

子供の顔は写さず、後ろ姿でという条件付きの取材である。

田原の小・中学校教育課程を受けて、親たちもその理念を厳守している。

村を巡る子供たちがお金集めをする様子も拝見したかったが、「親の許可は得ていないから許可できない」というこの年の当番さんも教育者。

天理市の藤井町のヤドを勤めた母親たちも同じ考えであった現代教育の教えである。

2時間ほどでお金集めを終えた子供たちが白山神社会所にやってきた。

その間に聞いていた体験談。

お話しは忙しい合間を縫ってわざわざ足を運んでくださった北森重人宮司だ。

田原の里の各神社を兼務する。

これまで誓多林や長谷の神社行事でお世話になった方だ。

その場で知った当番さん。

なんと実弟であったのだ。

若干の年齢差で経験は違うようだ。

当番さんが話していたヒサカキは誤りで、「ほんとうはツバキの花や」と北森宮司が云う。

サカキは神事に用いられるが、ツバキは一般的に仏事。

そのようなことを知らずに継承してきた子供たちは白山神社のサカキの葉っぱを採っていく。

その場におられた幼児の父親もそうしていたと云うが、今回は北森宮司の教え通りに生えていたツバキの葉を摘み取った。



ツバキの葉は白花、赤花・・なんでも構わないと云う。

当番の人が炊いてくれた重箱のセキハン。

箸で摘まんでツバキの葉に乗せる。

葉はお皿代わりである。

子供たちは先輩らがしていたように葉っぱの表麺に乗せようとするが、皿であれば反り返った裏面でなければならない。

葉っぱを皿にする数々の県内事例には表面に乗せることはない。



「そうなんや」と頷く二人の当番婦人。

何十年にも亘って子供たちが引き継いできた在り方は、ある時代に誤った形式に移っていたようだ。

本来、こういう話はしたくなかったのであるが、思わず声が出てしまったことに反省する。

モチ米で作るセキハン。

かつては三合程度のウルチ米を集めてシロゴハンを炊いていたという話もあった。

それは随分前にお金集めに替ったようだが、北森宮司の話しによれば、かつてセキハンでなくウルチ米に小豆を入れたアカゴハン(アカメシ)だったと話す。



ツバキの葉に盛ったセキハンは十九夜の石仏や庚申石、供養石塔、地蔵石仏の前にそれぞれ供える。



幼児も見習って供えるが・・・理解するのは大人になってからであろう。

横田は15戸の東地区と10戸の西地区。

北森宮司が子供のころは総勢で30人も居たぐらいの時代であった。

白砂川を境の東・西地区それぞれの子供がお金集めをしてセキハン御供をしていた。



当時はどちらの地区が早く供えるか、競い合うようにしていたが、少子化の時代になってからは両地区合同になったと云う。

御供は白山神社にも供える。

年長の中学2年生はさすがに手を合わせていた。



お参りを済ませたら社務所にあがってセキハンをよばれる。

かつては手ゴクで受けて食べていたと当番の女性が云っていた。



昼食時間まではまだまだ時間がある。

子供たちはケータイ、マンガの子もおれば学習書をもちこんで勉強する子もいる。

昔はカウテンと呼ぶマイカワラを投げて遊んでいたとか、境内でタカラフミ、カカシをしていたと話すのは当番の女性たち。

社務所ではテーブルなどを組み立てた「基地」と呼ぶスベリ台で遊んでいたとも・・。

遊び方で時代変化の様相を知るのである。

この日は小雪ちらつくぐらいのぐっと冷え込む寒い日。

用意しておいたお菓子に手を伸ばすこともなく各自が思い思いの自由な時間の過ごし方。

かつては東・西地区のヤド家であったが、14、5年前に社務所になったと云う。

「一昨年ぐらいやった、子供がぐっと減った、横田の涅槃を続けるのは難しいから止めようという意見もでたが、一旦止めてしまえば横田の文化が途絶えてしまうから・・・」と云ってなんとか継承したと話すのは北森宮司さんだ。



昼時間ともなればサラダにカレーライスをいただく。

以前はサラダ、ハンバーグにカヤクゴハンの昼食であったが、今ではカレーライス。

条件付きの撮影は手ばかりの出演である。

晩ごはんのおかずは半分に切ったカマボコ、梅の形をしたウメヤキ、キントキマメ、練りものの三色のダンゴにホウレンソウのおひたし。

ごはんは白ごはんもあったが、ゴンボが入っていたイロゴハンもあったのは随分昔のことである。

午後も遊んで15時ぐらいで終わる横田の「ねはんこ」は「涅槃講」が訛ったようだ。

かつては晩ごはんも食べて夜遅くまで遊んでいたが、今ではクラブ活動が忙しくなって15時で終える。

晩ごはんのおかずは半分に切ったカマボコ、梅の形をしたウメヤキ、キントキマメ、三色のダンゴの練りものにホウレンソウのおひたし。

ごはんは白ごはんもあったが、ゴンボが入っていたイロゴハンもあったと云う。

こうして横田町の子供のねはんこを拝見させていただいたが、涅槃図は見られなかった。

ちなみに十九夜さんの如意輪観音石仏には「奉高顕供養者・・云々」と書かれてあった真新しい奉塔婆が置いてあった。

日付けは平成26年とあるからつい最近のものであろう。

おそらく大野町十輪寺住職に塔婆つきをしてもらったと思われる願文である。

取材させていただいたお礼に自治会長へ電話で伝えた十九夜さん。

毎年の3月19日に婦人たちが集まって和讃を唱える十九夜講があると話していた。

田原の里の各地域で多く行われている十九夜講。

その一つに横田町も存在していたことを知ったこの日、自治会長に取材願いをしたのはいうまでもない。

(H26. 4. 5 EOS40D撮影)