マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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ちゃんちゃん祭神幸祭

2014年10月07日 07時54分44秒 | 天理市へ
この年のちゃんちゃん祭の取材目的は、佐保庄のカザグルマ・チンマキの在り方や長岳寺の平鉦である。

お渡りの行幸は撮る気もなかった。

鉦を打つ場はどこであるのかである。

行列の並びを見届けて先を急ぐ。

向かう先は国道168号線だ。

大字岸田の市場で行われる休み場(小字腰掛石の神輿石)を通りすぎて歩いた街道は上街道(初瀬街道)。



通り抜けようと思っていたが門飾りが目に入った。

二本の笹竹を立てた門飾りである。

「大和神社」と書いた門飾りはおそらく岸田でなく中山のトーヤ家であろう。



クヌギの割り木に台を乗せて竹のフチガコイ。

小さなヤカタを祀ってお供えをしていた。

太鼓はドンドン、鉦鼓がチャンチャンと打ち鳴らしていたお渡りが進む。

急がねばならない目的地。

この日、先頭を勤める年預総代の話しによれば国道を跨ぎる辺りで、もう一人の年預総代が先に出かけて鉦を打つと聞いていた。

その場に到着しても裃着用の年預総代は見られず焦りがつのる。

お渡りの先頭が間近に迫ってきたが長岳寺の鉦を持つ年預総代の姿が判らない。

お渡り一行は道路前まで到着した。

その場は国道。車の往来が激しい。

横断歩道がなく、警官の指示によって国道を渡るのであるが、警官は一人。

もう一人の警官が到着するまでは渡らせない。

その場で待っていたときのことだ。

国道向かいに法被を着た人が鉦を打ち始めた。

着用した法被は「釜口山」、「長岳寺」の白文字を抜いていた。

背中の白抜き文字は「釜口大師」である。

警官の指示を無視して渡る一般客。

危険な行為は許し難い。

待つこと4分間。ますます焦る。

行列一行の状況を把握されて渡りの許可がでた。



東側に渡って鉦を打つ年預総代の姿を撮らせてもらったが、気がついた人は極めて少ない。

お渡り一行に関心がある一般客にとっては鉦などどうでもいいのだろう。

かつては小字馬借場で渡御を迎えた長岳寺山主は鉦鼓とともにお渡りに加わって後続についたと伝わる。

渡御を迎えた長岳寺山主はその地から平鉦を叩いて同行していたと故事にあるそうだ。

今では行幸に加わることもなく、大和神社の年預総代がその地で長岳寺の鉦を打ち続ける様相であるがが、昨年までは裃姿だった。

この年から「長岳寺の法被を着用するようになった」と鉦を打つ大字佐保庄の年預総代が話していた。

いつから長岳寺山主に替って年預総代に移ったのか判っていない。

道路を渡る行列に混じって一般客もついていくのでなかなかシャッターが押せない。



史料によればその地は「長岡岬」。

東南の地が小字長岡であることから、その先(岬)にあった地のようである。

「長岡岬」はここだと云って鉦を打っていた年預総代が指をさした。

この日に拝見した長岳寺の鉦は昨年に記録しておいた。

鉦にあった刻印は「天下一常陸大掾宗味作」である。

天和二年(1682年)に「天下一」称号の使用禁止令が出されていたことから、その年より以前の作と考えられる。



お渡りの最後尾についていって大字中山のお旅所に向かう。

そこには『大和(おおやまと)神社 御旅所の由来』記が記された立て札があった。



それには「中山大塚古墳<百三十メートル>アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)命の塚約二千年前煌々と輝き現れる神々は大歳大神(おおとしのおおかみ)<五穀豊穣> 主神日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)<大地主大神>(おおどこのぬし) 須治比賣(すじひめ)大神<天照大神> 大和神社の春の大祭 橘花神幸(たちばなはなのしんこう)のちゃんちゃん祭りに天皇<亦は特使>が参列 千四百年前に始まる その以前の橘花祭りは 今から約二千年前始まるとある 橘渡御(たちばなのとぎょ)は はじめ大和神社の瑞籬(みずがき) 水砂道(みずすなみち)<みささぎの道=日本最古の道>から笠縫(かさぬい)を通り 中山邑 岸田邑を経て市場の休み所御神輿石(おみこしいし) 長岡岬大市坐(おおいちにます) 皇女渟名城入姫神社 御祓い休憩 柳本新地の手前左に曲がり 中山都・古道(こどう) 斎主御前の住い道を通り 長山日暮上道(おさやまひぐれうえみち)より 御旅所 霊薬井戸で清める 石段を登り 赤鳥居こぐり 清霊(せいれいの)舞を執り行う」。

「一日目は 斎持(さいじ)御前 塚上に屋形を建て 夜に宮司祭」。
「二日目は 石段を下がり 中山邑から長岡邑川を渡り 高槻 天照大神祭り」。
「三日目は 水垣で倭大国主魂大神 采女(うねめ)の橘の舞 千戈の舞 長岡の道を下り市場へ向かう」とある。

立て札にある「千四百年前に始まるちゃんちゃん祭り」の年代を遡る。

平城遷都がされたのは千三百年前。

それより百年前は推古天皇朝の時代だ。

それはともかく「その以前の橘花祭りは 今から約二千年前始まるとある」と書かれてあった。

二千年前は倭国大いに乱れる時代よりも百五十年も遡る。

そのような弥生時代に記された史書があったのか。

「・・・とある」史書記録があれば大発見だ。

4月9日に祭典される桜井市の大神神社の春の大神祭も崇神天皇の時代に始まった二千年の伝統をもつ大祭だとテレビ報道が伝えていた。

崇神天皇の時代に伊勢大神宮が祭られたと古事記にあるらしい。

しかしながら、伊勢大神宮に天照大神が祭られたのは崇神天皇の次の垂仁天皇時代。

推定されるに崇神・垂仁ともに在位したのは西暦350年から360年代の四世紀。

古事記によれば崇神天皇の時代に疫病が流行った際に大神神社を創始したとある。

テレビ報道が取りあげた大神神社の大祭は、それより数百年前から大神神社の存在があり、しかも大祭があったというのだから驚かざるを得ない二千年前の伝統行事の下りはあり得ないと思うのだが・・・。

古事記はそうあるが、日本書紀では大和神社を創始しようとしたが果たせず、翌年に大和神社ともに大神神社を創始したとあるらしい。

両社とも大物主大神(オオクニヌシノミコト)を祭る神社である。



お旅所に着いてからは佐保庄のカザグルマを拝見する。

割った竹にさまざまな色の短冊を巻きつけて大きなカザグルマの羽根は4枚だ。

羽根を止めていたのは大豆であった。

兄頭屋が黒豆を水に入れてふやかせば穴は開けやすいが、本番になれば萎んでしまうので割れて取れてしまうと話していた。

それをせずにキリかドリルで穴を開けて止め具にすると話していたのである。

土台はほぼ半切りにしたマルダイコンだ。



佐保庄のお旅所には「佐保庄座」と書かれた當家箱があった。

先日作ったチンマキなどが入っていた。

よくよく見ればカザグルマを立てる台は黒い年代もの。

當家箱の蓋である。

2枚ある箱蓋の文字は拝見できなかったが、寛文十二年(1672年)、宝暦六年(1756年)に寄進されたと伝わる。

他の大字も拝見したが、古来から使ってきた箱蓋を今尚お祭りに使っているのは佐保庄だけに感動するのであった。

カザグルマの形状が気になった三昧田のお旅所も拝見した。

昨年は6枚羽根であったが、この年は3枚重ねの4枚羽根である。

お聞きすれば垣内によって作り方が異なると云うのである。



ヤナギで作った箸も添えていた三昧田のお旅所。

垣内は西、東、南、北垣内の4垣内で、それぞれの垣内に独自性があるようだ。

昨年は西垣内でこの年は南垣内。

東、北垣内の在り方も拝見しなくてはならなくなった。

佐保庄は昨年が北垣内でこの年は南垣内。



他に上垣内もあるが、上と下に分かれているようだ。

三昧田と同様に垣内の作り方は引き継ぎされることなく独自の在り方。

すべてを拝見するにはいずれも4年間連続で拝見しなくてはならない。

ちなみに兵庫ではカザグルマはなく、短冊を巻き付けた「ハナカザリ」だけだ。



原型はどちらであるのか、検証できる史料はまだ見つからない。

兵庫は東、新建(しんたち)、西垣内、西新町、北新町の5垣内であるが、ミナライと呼ばれる次の垣内(頭屋)が飾り付けなど細かい部分も一緒に作業をされることから独自性はなく継承されていると思われる。

気になったのは佐保庄のカザグルマの箱だ。

そこにはトーニンゴに供えるチンマキを置くと云っていたが、何故かなかったのだ。



新泉常持の梅幹も拝見して、3カ大字の在り方を調査して戻った佐保庄の場に変化があった。



なんと、チンマキが置いてあったのだ。

兄頭屋の家人に聞けば忘れていたと云う。

「記録に撮っておきましょうか」と伝えたら、トーニンゴも座らせてくれた。



ありがたいことである。

(H26. 4. 1 EOS40D撮影)