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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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国王神社大祭のお渡り

2009年11月25日 09時38分04秒 | 十津川村へ
公民館の下で出幸の儀式が行われる。

中央に据えられたのはカマドの神さん。

お渡りは戦前までトーヤの家から出発していた。

そのころは家の竈をぐるぐる廻ったという。

生活文化の向上とともに消えてしまった竈。

いつしか火鉢に移り替わった。

その火鉢も居間から消える時代になった。

出幸の儀はカマドの神さんに祝詞を奏上して、行列を組んでカマドの神さん廻る。

区長を先頭に三役警固の甲冑武将、サカキを持つ神官、河役童子、御幣持ちの津役童子、ツルベ持ちの宮役童子の三役、宮司、神官、ヒノキカゴ担ぎ、酒樽担ぎ、口上役、太鼓、旗持ち、刀を差して編み笠を被った警固、旗持ちが続く。

表白の口上は国王神社の謂われや伊勢、春日、住吉の大明神や吉野蔵王、大峰などの権現や大菩薩へ御幣を献じ捧げ奉る詞を一節ごとに唱えて謡う。

すると、一同は太鼓の調子に合わせて「万歳楽」と唱和する。

これを繰り返し到着するまで謡い続ける。

カマドの神さんを三周すると、神社へ向けてようやく出幸する。

地区を抜けて往来激しい国道を練り歩く。



紅葉が始まった上野地の山々を背景にお渡り行列が行く。

眼下に流れるのは熊野川の流れ。



紅く染まった色と清流の青さが美しい。

1km超の長い道のりを謡い続ける表白の詞は山々に響き渡る。

<表白(ひょうはく)の詞>

そもそも当社は 文中二年(1373) 癸(みずのえ)丑年 十月吉日 御鎮座まします

 河津(こうつ)に国王 大明神は 畏れ多くも 天の川の 五色谷より 流れ給いし(たまいし) 南天皇(なんてんのう) 第一の皇子 寛成(ひろなり)親王 御神霊を 斎(いつ)き奉りし 今月今日 ご神事に 御幣を 華やかに 飾り立てて 参らせたりや 其の外末社の 御神々に 供えたりや 伊勢には神明(しんめい) 大神宮へ 御幣を 献じたりや 八幡(やはた)に八幡(はちまん) 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや

奈良には春日の 大明神へ 御幣を捧げたりや 堺に住吉 大明神へ 供えたりや 吉野に 蔵王の 大権現へ 御幣を 献じたりや 大峰山上 役の行者 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや 天の川には 弁財天へ 供えたりや 熊野の三山 大権現へ 御幣を 供えたりや 天下泰平 国土安穏 氏子繁盛 五穀成就 守らせ給えと 御幣を 参らせたりや  ~繰り返し~

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社大祭の日

2009年11月25日 09時34分02秒 | 十津川村へ
南朝ゆかりの国王神社、例大祭の日に上野地の村民が装束を身につけて神社へお渡りをする。

公民館に集まってきた村民は食事のあとにそれぞれの役目の衣装を身に着けていく。

裃を着る警固役は20名を超える。

甲冑武将は一人。

何年も当たっているので慣れたものだという。

会場内に小学生男児が3人。黒、緑、青色の衣装を着る。

背中の紋はそれぞれ河、津、宮とある。

三人揃って河津の宮。

国王神社が鎮座するのが河津の淵。

三人の子供は三役と呼ばれ、神さんを迎える役目になる。

紋の河、津、宮がその証しである。

頬紅は薄く、口紅も塗って化粧した三役は、烏帽子を被り、白足袋を履いて出番を待つ。

会場にはお渡りの道具が置かれている。大きな竹編み籠が目立つ。

奉書を巻かれた竹棒の両端にある編んだ竹籠。

半紙の上に平べったい二枚の供餅を入れて担いでいく道具はヒノキカゴと呼ぶ。

かつて竹でなくヒノキだったからそう呼んでいるという谷瀬中村区長。



担ぐ道具はヒノキカゴより小さめの酒樽天秤棒もある。

三つの日の丸扇を組んだ御幣はニシキノミハタと呼ぶ。

ヒモロギを括り付けたサカキが二本。

一本は太い円筒のものを括り付けておりツルベと呼ぶ。

首が入っているのだと警固役は言った。

首櫃はいつしかツルベの名に置き換わったのであろうか、確認する記録はない。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社の首塚

2009年11月25日 09時32分18秒 | 十津川村へ
第98代長慶天皇(南朝3代)を祀る十津川村上野地の国王(こくおう)神社は頭の神さんとして崇められている。

南朝3代の天皇が北朝勢に追いやられ、(熊野川)上流の天川村五色谷で自害された。

応永元年(1394)のことだった。

時を経て、下流の上野地の河津の淵に流れ着いた首を、手厚く葬り玉石を安置して祀ったという説話が残されている。

天皇は弘和2年(1382)まで在位されており、勅願宮であった国王神社が神社創建と混同されて伝えられたと神社大祭実行委員会は述べている。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)