主体同士のむき出しの対峙性を解除するように、
お互いのあいだに絵を置いて、対話の場をあつらえる。
そのことで、相互の主体の主体的関与性を守ることができる。
、
そこから、ともに絵をめぐることばを自由に重ね合わせながら、
固定された観念群(ことば)の自明性をほどくように動かしていくことはできる。
なにより、そこに生成することばを相互に発見的に見出していく、
いわばセッションの位相の可能性が生まれる。
(ありふれた日常においても、意識されないまま、この種の経験は頻発していると思う)
*
── 中井久夫『統合失調症の有為転変』
絵画は「否定」が表現できないという事実がある。
これに対して言葉は嘘がつけるということがある。
また言葉には正解と間違いとがある。
絵には模写の正確さを云々する場合は別だが、
メッセージとしての絵には「この絵は間違っている」ということがない。
嘘がつけない。鶏の脚が四本あっても、それに意味があるかもしれないではないか。
一見わからない画も模写するとわかってくることがある。おおざっぱな模写でいい。
必ず「あ、ここにこんなものがあった」と気づくものである。
最後に、言葉は挨拶を初め常套句がいっぱいある。
無内容なことだけで四〇分の会話を終えることができる。
しかし、私の言葉で恐縮であるが、以前よく引用していただいたことがある句がある。
「丹念に描き込まれた画とたどたどしく引かれた一本の線とは哲学的に対等である」である。(143)
言語は事態の単純化と少数の因子による因果関係の表現に適しているが、
これも両面の作用がある。ここに非言語的アプローチの出る幕がある。
描画にせよ粘土制作にせよ、幻覚妄想が隠見する世界に対抗して、
幻覚や妄想であるかないかの線引きが存在しない場所を提供する。
それによって面接の場がすでに異常体験から一時的にせよ自由な場が実現する。
これは良循環の始まりとなりうる。
また、回復過程を跡づける上では、ことば以上に絵は、
さらに一般に非言語的アプローチといわれるものは、言語よりも確実な里程標である。
また、それぞれの回復やその停滞、逆もどりについて告げることもできる。
その上、線を引くこと、色を決めることはそのたびごとに小さな決断の連鎖である。
決断ほど心的エネルギーを要するものはない
しかし、現実世界における決断よりもはるかに軽く自由で後腐れがない
決断に関するリハビリ性があるといおうか。(198)