ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「連結器」20230715 (20230105)

2023-07-15 | Weblog

 

 

 


 暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
                  (和泉式部『拾遺』)

平安朝、跡かたなく砕け散って消えた千年はるかかなた
一人のおんなの歌が山の端の月のように今を照らす

 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影 
                              (紫式部『新古今集』)

外にさがしても何もない
吹きさらしの風だけが吹いている
 
 ふるさとは語ることなし  (坂口安吾「碑文」)

ただ心に現象する泡立ちにみちびかれ
あの歌があって、この歌があり、未生の歌が懐胎していく

この連結の連鎖のいとなみに加わることだけができる

 この憧憬は生の喪失の感情であって、失われたものを生として、
 かつて生に親しみ深かったものとして認知するからである。
 この認知はそれだけですでに生の享受である。
    (ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』細谷・岡崎訳)

ほんとか?ああ、どんな資格も要件もない
この連結器の作動を全うすることが生きるということさ

(見逃して素通りするなよ)

このいとなみは通時的であると同時に共時的でもありうる
交わり、享受をわかちあう、それが現象する人間の地平がある

 

 

 

 

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「絵を描く」20230715

2023-07-15 | 参照

 

 

──中井久夫「芸術療法事始めのころ」2007年(『統合失調症の有為転変』)


私は「あっ」と思った。それは絵画療法の場面ばかりではないが、
その場面においてもっともよく聞いてきた言葉である。
たとえば、スクリブル法で描き終えた鳥の絵に添えて
「また飛び立とうかどうか迷っているのです」という言葉、
太陽と惑星の絵に添えて「これだけ離れると私の悩みも小さなものに思えます」という言葉である。
こういう言明は症状の語りでも生活の困難の語りでも「内面」の苦悩の語りでもなく、
状況と心境の「一挙照明的な」言葉で他者と繋がる珠玉の言葉である。

絵画を支柱として生まれた言葉によって治療者が立ち止まり、
感動する瞬間が治療の場に訪れるならば、素晴らしいことである。
精神療法としての絵画療法とは、この言葉に極まるものではなかろうか。
絵画を描きそれについて語る過程で得られる照明体験である。

 

 

 

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