「アイ」は、歩き慣れた道を歩くような時にも
「セルフ」に多くを任せているのであろう。(中井久夫『徴候・記憶・外傷』)
アイ(意識)とセルフ(自己)が対話する関係態としての「私」がいる。
メルロ=ポンティ的には、自己という「地」の上に意識という「図」が動いていく。
(われわれは「無意識」という概念を使って「自己」の本体を捉ようとする)
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「コーヒーを飲みたい」──「地」から欲望が励起する
「われ欲す」というメッセージの発信元は意識ではない。
意識は「われ欲す」という内的なメッセージの受信者である。
「われ欲す」の受信という出来事から、
意識はみずからの志向対象、世界との関係を告げられる。
「われ欲す」
「われ感じる」
この内なる告知によって、世界は「私-世界」という両極に分極し、
「私」のまえに〝私にとって〟の固有の意味配列をもつ世界が現われる。
この世界告知、そして意識による受け取りという出来事は、
人間のあらゆる世界経験の根源的な基礎構造をつくっている。
「かなしい」
世界との関係を告げる始原的な第一次のメッセージは、
疑いようのない情動の泡立ちとして、衝迫として、
あるいは、かたちをたどれない世界との関係として、
意識主体にとって、いわば内なるBackstageから届けられる。
世界経験の第二次の過程へ──
次に、この出来事は「ことば」(関係項)を媒介ツールとして、
ことばに変換され、記述され、メッセージとして編み上げられ、
他者と相互の経験を交換しあう場面へと展開していく。
(ことばは自他の経験をつなぐ連結装置として機能する)
さらに、一次過程から二次過程へ、そして、二次過程から一次過程へ。
この循環的な回路において、一次と二次の二重記述が現象し、
終りのない無限記述の位相(関係世界)が、「私」の中に開かれていく。
(主観は主観の外に出られない、ゆえにこの位相はつねに「私」の中に現象する)
この位相において、「私」は関係存在として生きることになる。
「関係が関係に関係する関係存在」(キルケゴール)として、
「私」は、必然的に、関係記述(ことば)の記述連鎖において状態遷移のプロセスを歩んでいく。