物象化する知の階梯──
仰ぎ、上目づかいの心が出力する
関係パターン、人と人の連結形式
劣位の意識、裏返った優位の意識
この連結形式の多種多様な派生態
知と権威の勾配が構成するリアル
連動して、確定される人間の階梯
物象化する知の階梯──
仰ぎ、上目づかいの心が出力する
関係パターン、人と人の連結形式
劣位の意識、裏返った優位の意識
この連結形式の多種多様な派生態
知と権威の勾配が構成するリアル
連動して、確定される人間の階梯
──竹田青嗣『言語的思考へ』から
嘘は悪い、暴力は悪い、戦争は悪い等々といった自然倫理は、
ある側面では人間生活上の普遍的な倫理性として意味をもつが、
しかし、それはまた一般的な善意や同情の感情性として
共同体的習俗の中に埋め込まれているものでもある。
この自然倫理は、生活世界の中では基本的なものだが、
社会関係や政治的関係では、思想化されることなくして
共同体間の問題を超えていくことができない。
したがって、「倫理」の問題の本質考察のためには、
むしろこの「自然倫理」が検証し直されなくてはならないのである。
社会の全体性から見れば、すべての人間が有徳な存在(=善)として
生きるということは明らかにこの上ない社会の理想的目標であるが、
しかし各人の実存のうちにはこの目標に向かう原理が存在しないのだ。
さしあたりいえば、ここで示されている国家=法=暴力=悪=非正当性
といった直観的推論の根拠となっているのは、さきに見た素朴な「自然倫理」にすぎない。
暴力は「悪」である、戦争は「悪」であるといった一般的な自然倫理は、
人間社会における支配関係や暴力といった現在のところ不可避な理由をもつ現実性に、
純粋かつ無垢な理想理念を端的にかつ二項対立的に対峙させるのだが、
まさしくこのことでこの現実性の条件を適切につかみ出しこれを解除してゆく
という課題を設定することができず、単なる理想要請主義として終始するほかないのである。
「正しさ」における「信念対立」のアポリアは、自覚された倫理性の内的本質である。
まさしくその理由で、内的な「倫理」は、このアポリアを克服する原理に向けて
自己を外化し普遍化するという課題を通って、もう一度実存論的領域へ帰還して
くるのでなくてはならない。
そうでなければ、「倫理」の問題は、
「善悪」の規準についての一般的な「判断」、嘘や自己中心性や暴力は「悪」である、
という「善悪」についての一般的表象や一般信念にとどまるほかはない。
ここでは「倫理」が「倫理」であることの本質条件が欠けている。
なぜならそこで「倫理」は、各人の生を実質的なかたちで、
つまりその実存的自由の本質の中で動かすものとはならないからである。
「倫理」は最終的に実存論的な思想として根拠づけられなければ、
つまり各人の生のうちの自由の本質として生きるのでなければ、
結局、単なる理想についての趣味判断の問題に終わるのである。