鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

Tea time

2014-10-15 22:53:41 | Weblog

気温下がる。秋めいた一日。

ティータイム・・・と言えば、英国では、紅茶。フランスやアメリカでは、珈琲。中国では、ウーロン茶?ってことになるのだろうか?

日本では、緑茶に、甘い和菓子のお茶受け・・・。

お茶の木の葉、所謂、茶葉を発酵させたり、途中で発酵をやめさせたりして、紅茶になったり、ウーロン茶になったり、緑茶になったりするけれど、原材料は、同じもので、作り方がちょっと違うっていうだけ。

珈琲に至っては、珈琲豆、ココアは、カカオの豆類を焙煎して作るから所謂、茶葉とは一線を画すものだと思う。

私は、緑茶を飲むことが多いけれど、秋、冬は、珈琲であったり、紅茶であったり、冬に至っては、ココアが飲みたくなる。
ココアは、子供の飲み物だと思うけれど、最近の珈琲ショップは、ココアに、ホイップした生クリーム(・・・いや、アレは、植物油から作るヤツで、純粋なクリームじゃないから・・・なんてものも多いけれど)をのせてくれるものも。

今は、インスタントのものでも、ミルクの成分がたっぷりはいっていて、お湯だけでOK!というものが多くなった。

昔(・・・何時の頃だ?)は、純ココアといって、砂糖もミルクも入っておらず、パウダー状のココアにお湯を足して、艶が出るまで良く練ってから、砂糖を加え、贅沢するなら、温めたミルクを注ぐと言う面倒な方法で、作っていたと思う。

私の両親は、ともに勤め人だったから、小学生の頃、学校から帰ると、自宅には誰もいなかった。
自分でお湯を沸かし、ミルク入りココア(これは、砂糖とミルク成分が合体している粉状のココア)を大匙2杯くらい、お湯をマグカップに、半分くらい入れて、その上から、冷たい牛乳を入れて飲むのが好きだった。
かなりぬるめで、ココアを飲みながら、秋の早い日暮れを、炬燵の中で、漫画など読むながら過ごすのが、幸せだった。

そんな少女時代から、幾霜雪(←この字でいいのだろうか?幾霜星?ちょっと忘れた)。
珈琲とココアを合体させたカフェ・ド・ショコラなるものが登場した。
ちょっと大人になった少女のお気に入りである。
外見は、立派なオバサンだが、味覚は、お子ちゃまのイキを出ないようだ。

更なる出会いは、珈琲と緑茶、珈琲と焙茶。いづれもミルクを仲人にしている飲み物であるが、紅茶と緑茶を合わせたものも、某通販で販売していたことを思い出した。

味覚とは、兆戦なのね・・・と改めて思った次第。



テレ朝

2014-10-14 22:50:28 | Weblog

台風一過。朝から、抜けるような青空。

一昨昨日(さきおととい)の土曜日、サントリー・ホールへ、出向いたおり、六本木一丁目の駅から、かの有名な?アークヒルズという場所を初めて通過したのだけれど、ヤマダシのイナカ者には、見上げるばかりの高層ビル群、おしゃれな歩道橋やカフェ、ああ・・・あれが、サムソンのビルなのか・・・などとキョロキョロと見回してしまった。

そんな中、サントリー・ホールのお隣は、かの『テレ朝』だった。
私は、ヒマなので、午後は、ドラマの再放送などを見ている。
私自身の視聴率が一番というか・・・ほとんどが、テレビ朝日の番組で、テレ朝のドル箱である『相棒』などは、今週(明日15日)から、新シリーズが始まるので楽しみである。

過去・・・テレ朝といえば・・・。
久米宏(ニュース・ステーション)とドラえもんしかいない・・・と言われていたテレビ局でもあったが。

他にも、米倉涼子の『ドクターX』、上川隆也の『遺留捜査』なんかを見ている。

テレビでは、毎日、毎日、殺人事件が起こっているけれど、どうもテレ朝の扱う殺人事件は、警察内部の隠蔽体質を世間に知らしめる?ドラマが多いようだ。
そんな隠蔽体質を『相棒』の杉下右京さんだとか、『遺留捜査』の糸川(聡)君が、自己保身も、出世も組織をも顧みず、独自の捜査を続けて、解決へと導く。国家権力を敵に回してんのね。

そういえば、この頃、多いですかね?TBSの『隠蔽捜査』とか?
古田新太さん演じる刑事部長もちょっとね?・・・あり得なかったりする。
・・・こんな刑事っているのかな・・・と思う。公務員なのにさ・・・(いるわけないよね。ドラマだもん)などとツッコミながら見ている。

公務員らしくない公務員って言えば、『臨場』の倉石さんも、公務員じゃね~~~よなぁ・・・と思ったりする。倉石さんもテレ朝だね。

他局では、あるけれど、フジテレビも、米倉涼子を使って、ヤクザやホンコンマフィアとつるむマル棒の女刑事ってのを、やっていたけれど、米倉涼子って、何処の局へ行っても、姉御なのね。
そうそう・・・『家政婦は見た』では、顔がキレイなばっかりに、DVにあった心の傷をもつ美人家政婦の役もやっていたけれど・・・。
元祖『家政婦』は、市原悦子さんだったなぁ・・・コレもテレ朝だったもんね。
市原悦子さんも、他局へ行っても同じキャラ(オカメ系おばさん。刑事だったり、弁護士だったり、医者だったり)だから、米倉涼子さんも同じ(美人、姉御、自分の信念には、忠実)なのかもしれない。私は、好きですけどね・・・。米倉涼子ってだけで、見ちゃうもん。

それにつけても・・・テレ朝さん。いつも楽しいドラマをありがとう。



生活必需品・櫛

2014-10-13 22:58:54 | Weblog

台風接近。雨降ったり止んだり。


人間・・・その気になれば、或る程度、『モノ』を所有しなくても生きて行けそうである。
これまで、使わないのに(或いは、使えもしない)、いろいろな『モノ』を買った。
買わなければよかった・・・と後悔した『モノ』の方が、多かったかもしれない。
逆に、どうしても、『コレ』でなければ・・・というものもある。

フェリシモ・・・という摩訶不思議な通販会社がある。
ここの通販は、服飾を中心に、下着、雑貨、食品、本、CD、靴・・・さまざまなアイテムが売られている。
摩訶不思議・・・というのは、『○○の会』といって、例えば、同じような形のシャツならば、色、形を微妙に変えて、毎月1枚づつ・・・コレクション形式という販売方法を採用していることで、カタログをみて、コレ欲しい・・・と思っても、カタログ掲載の品と同じ型・色のものが来るとは限らないのだ。
・・・1枚でいいのに・・・。
この色のこの形の服が欲しかったのに・・・と思うことも多い。

下着や靴下、ハンカチなど何枚あってもよいものは、毎月微妙に色や形が違ってくるから、こういうものはよいかもしれない。中には、1回限定というものもあり、比較的高価なコートだとかは、一回ポッキリ。

無駄なものを、つい買ってしまうのだけれど、この通販会社の侮れないところは、意外な優れモノを発見できる・・・ということだろうか。

現在、私の必需品となっているものは、アジアン・コスメというカテゴリーで、1回限定販売の『櫛』である。固いうえに太い髪質なので、フツーのプラスチックのヤワな櫛では、歯が折れてしまう。
櫛の歯が折れるのは、縁起がよくなさそうで、イヤだ。

普通のブラシも、抜け毛を取り除くのに、時間が掛るが、今、使っている『櫛』は、櫛の歯が、ステンレスで、歯の根元が、回転・上下するので、絡まらないから痛くない。
マレーシア製だったか、中国製だったか・・・もう10年以上使っている。
価格は、4000円くらいだったから、櫛としては、高価であるが、この櫛なくては、私は、生活できない・・・?。この櫛が、毀れたら、どうしようか・・・と思う毎日であった。
それ程、この櫛は、私にとっては必需品だ。もう販売していないようなので、コレ一本きりである。

『モノ』にも寿命があるから、この櫛が使えなくなったら、困るなぁ・・・代替品でよいものはあるだろうか・・・と、探してみた処・・・世の中、或るところには、ちゃんと存在していた。
フェリシモからは、撤退したけれど、アジアン・コスメのプロジューサーが、立ち上げたショップに、同じような効能を謳う『櫛』があった。

価格も同じくらいだから、1本買っておこうと思う。

ハサミ、爪切、クシ・・・これらがないと、生活に支障をきたす。

『モノ』の有難味を充分味わえる生活必需品である。



『加古隆 ソロ・コンサート2014 クレーと北斎を弾く』

2014-10-12 22:54:45 | Weblog

曇りがちで、少し肌寒い日曜日。

昨日(10月11日)は、加古隆さんのピアノコンサートが催されるサントリー・ホールへ。

サントリー・ホールは一度行ってみたいコンサート会場だった。
上場しない企業であるサントリー・・・鳥井家・佐治家の威信の象徴であろう・・・と勝手に思っているサントリー・ホールは、格調高い・・・これぞまさに、日本の正統なる芸術至上主義の日本屈指の音楽の殿堂。
最近できた、ヘンテコな芸術至上主義の劇場とは一線を画す・・・というのは、その伝統である。

テレビ朝日の前を通り抜けて、高層ビルの林立する間。
その音楽の殿堂は、厳かに存在していた。

開場10分前に到着した相方と私は、ホール前の広場の噴水の脇に腰を掛けて、開場を待った。
少し冷たい風は、秋の深まりを告げるようだ。

開場を知らせるパイプオルガン。
案内のスタッフは、フロック・コートのいでたち。
欧州風の雰囲気たっぷりだ。

二階後中央後方席で、開演を待つ。

音の反響も抜群で、ピアノの音が、こんなにもキラキラするものなのか・・・(ピアニストにもよるのかもしれない。音楽については、自分の感じることしか書けないので、間違っているかもしれないけれど)。

加古隆さんの音楽は、絵画的と言えるかもしれない。
音が、視覚を生み出す。
聴覚が視覚を浮かび上がらせるのだ。聴覚を視覚に結びつける・・・音と画像を一体化させる。音を聴いて、絵画(或いは映像)を浮かび上がらせることができる稀有なアーティストだと改めて思った。

コンサートは、二部構成で、第一部は、ピアノソロ演奏。
二部は、スクリーンを用いて、パウル・クレーと葛飾北斎の絵を上映しながら、耳と目で楽しむ趣向。
欧州と日本の融合。音と絵画の融合。
不思議な感覚のコンサートで、音の持つ絵画性、絵画もつ音楽性が、まさに溶け合う。至福のひとときだ。


加古隆さんといえば、やはり、1990年代、某国営放送が、放映した『映像の世紀』で使われた『パリは燃えているか』だと思う。
写真ではなく、動画がとらえた20世紀初頭。
科学技術の進歩とともに、繁栄そして戦争に向かった20世紀を映像と・・・そして加古隆の音楽が浮かび上がらせた。

オープニングで演奏された初期作品『アクアブルー』は、初めて聞いたけれど、演奏中、深海にいるような、水の中で、たゆたうような感覚になった。
演奏後、タイトルを聞いて、やはり、『水』だったのね・・・と音楽の中に『水』を感じさせる・・・音楽とは乖離しているはずの物質の『水』が、音楽の中で、実物以上に融合していて、まさに感覚の『水』を、感じとった瞬間でもあった。




衣替え(着た切りスズメの妄言)

2014-10-11 22:51:55 | Weblog

午前9時を過ぎると、裏の雑木林から、蝉の鳴き声がする。
10月も中旬だというのに、蝉である。つくつくぼうしだ。

朝晩、めっきり冷え込んできたので、さて、夏の薄物は、仕舞い、すこし厚手の衣類などを出さなくては・・・と、所謂、衣替え・・・の季節でもあるのだろう。

・・・それでも、昼間は、まだ蝉のお出ましだから、季節は、行ったり来たり、進んだり、後戻りしたりして、これから冬に向かっていくのだろう。

衣・・・と言えば、夏は、どうせ、汗ですぐ汚れしまうし、汗をかいたら、即座に洗濯できるものがいい。
洗濯して、繊維に水を通せば、衣類は、即、傷むから、高価なものより、安価で、清潔に着られるものがいい・・・ということに限定される・・・私の場合は・・・なんてことは、以前のブログにも何度となく書いた・・・と思う。
マンネリ極まれり・・・だ。

活動をしていないというのは、こうこうことなのだろうなと改めて思ったりする。

それにつけても、やはり、お洒落を楽しむのは、秋、冬なのだろうと思う。

私は、暑いのも寒いのも、嫌いだし、出不精で、出来ることなら、自宅から外へは、出たくない。
出たくないけれど、行きたいところはあるにはあるし(主に、劇場とか)、お勤めをしていた時分には、毎日、会社へ行っていた。

その頃よく思ったのだけれど、気候が一定していれば・・・例えば、東南アジアのように、一年中、半袖で過ごせる地域ならば、コートなどいらないし、生地も薄手のもので済むから、洗濯も楽だし、衣替えなんて、面倒なことは、しなくてもいいから、衣類にかかる費用も少なくていいよな・・・。

犬や猫や鳥などは、衣類は要らない。自前だし、温度と日照時間によって、身体が勝手に、毛皮や羽毛を増減してくれるから、コレも楽でいいよなぁ・・・。

↑このあたりのことも、この時期になると、毎年思うことで、ブログでも重複していると思う。
毎年、毎年、思うあたり、コレっぽっちも進歩していないのであるなぁ。


温帯、寒帯に住んでいるだけで、衣料費がかかるってのは、納得できない。
しかも・・・冬は、マイナス7℃くらいまで、情け容赦なく気温が下がるのだから、結構、いや、相当寒い。

都内では、いくら寒いって言ったって、せいぜい氷点下1度か2度どまりだろうし。

そんなことを考える夏と秋とのあいだに、少しだけ冬の訪れを感じさせる夕暮れ。

衣替えっていっても、何だか、今更、着る気にもなれず、箪笥の肥やしとなっている衣類ばっかりだと思う。
こんなに(クズばかり)あるのに、今、着たい服もないし、ましてや着ていくところも・・・ない。



方向音痴②

2014-10-10 06:22:09 | Weblog

連休の制度が、変わる前には、体育の日で、『晴天』の特異日だった日。

1964年東京オリンピックの開催日だったし、次の東京オリンピックの開催日もこの日にするのかな・・・なんてことを思いながら。


先週・・・。
私は、近所のコンビニエンス・ストアへ通販の珈琲豆の代金を振り込みに行った。
車で10分かからないところだから、お財布を持ち、携帯電話(今時、ガラケー)をジーンズのポケットに入れて、外出した。
自宅に戻り、よい秋日和だったから、洗濯でもしようかと思い、ついでだから、今、着用しているジーンズも洗っちまうかなどと思い、洗濯機に、放り込んで、35分後。

洗い上がったジーンズや夏物のスカートなどを、洗濯カゴにいれて、二階のヴェランダへ。

秋にしては、少し日差しは、強いけれど、風もややあり、これなれば、よく乾くであろう・・・と思い、ジーンズのシワを伸ばすために、勢いよく振った。
水を吸ったデニムは、重たい・・・重たいが、少し重たすぎるのでは・・・と思っていると

カコン・・・。

と音がして、何かが飛び出した。

ベランダの直ぐしたに貼り出した玄関の庇の上に、携帯電話が・・・。

この位置からでは、回収が難しい・・・。

かくなるうえは、ふとん叩きで、下に落して回収するしか、今の所考え付かない。

水没・・・どころか、洗濯機で洗い廻したのである。

無事な訳がないか・・・。

そう思い、蒲団叩きを、ヴェランダの柵から伸ばし、庇に落ちた携帯を更に、地面に落す・・・ということをやった。

コンクリートの真上に落下し、携帯電話の蓋は、外れ、電池が飛び出し、バラバラになった。

・・・それでも、電源は、入った。

・・・しかし・・・やはり、衝撃と水で、不具合は、免れまい・・・そう思い、なかのSIMカードなるものを取りだし、半年前まで使っていた携帯電話に差し替えた。
もともと電池の持ちが悪くなった上に、充電器が断線し、使えなくなったので、新しい機種に替えたのだけど、幸か不幸か・・・充電器が、新しい機種と同じ型のモノだったので、今の所、旧機種を使っている。

外出もほとんどしないし、自宅のパソコンがあれば、充分だし、第一、今は、貧乏このうえなしである。
スマートフォン・・・所謂スマホは、料金が高い・・・ということで、ガラケー継続だったのだけれど。

最近知ったことであるが、スマホというモノには、かなりの精度で、機能するナビシステムが、ある事を知った。

スマホこそ、方向音痴の私が必要としているものだったのだ!
そう思いつつも、新機種の割賦の代金が、まだ1年半以上残っている・・・2年拘束ってヤツですね。

どっかの通信会社に乗り換えようか・・・と試案中である。




方向音痴

2014-10-07 22:54:51 | Weblog

明け方は、シャワーのような雨だったけれど、お天気回復。
午後から、少し冷たいような風が吹く。台風の残して行った風なのだろうか。

脳にある自分の現在位置感覚を認識するの仕組みの解明で、ノーベル医学生理賞・・・云々・・・というニュースが流れていたけれど、何となく、スルーしてしまった。
脳内には、天然の???GPSみたいなものがある・・・ってことでしょうかね?このヘン詳しくは、わからないけれど。

私は、たぶん、方向音痴というか、空間認識能力もないようだ。
最近の店舗の内装は、なんだか、とても複雑で、特に、個室なんかが多いレストランだとか、居酒屋さんだとかは、一度入店して、数ある個室に案内されると、曲がりくねった通路を抜けて・・・で、もう何処から入ってきたのが、方向が全くわからなくなってしまう。

一度、ぐるぐる回ると、方角が、全くわからなくなってしまうから、きっと方向音痴には、間違いないようだ。

相方と連れだって出かけても、相方について歩いているだけだから、立体駐車場の何処に車を止めたのかなんて、全く覚えていないし、もう数回訪れている某所の展望レストランも、未だに、フロアのどちら側に、あるのか分からず仕舞いである。

3年近く通っている都下の病院のビルもエレヴェータの扉の方角は、たぶん西を向いているだろうとおもうけれど、5階の病院へ着くと、北を向いてるような気がしてしまい、更に、診療室に入ってしまうと、さて、この診療室の窓は、どちらに向いているのだろうか・・・と毎回、疑問に思ってしまう。建物の中の仕切られた迷路のようなトコロでは、まったく方向がわからなくなってしまうのだった。

それくらい、方角と空間に惑わされてしまうのだけれど、太陽と星があれば、大体の位置は、わかる。
広い荒野なら、間違いなく?北だとか、南といった大雑把な方角は、わかると思うのだけれど。

そんな訳で、私の脳の位置システムは、あまり優秀でないどころか、空間認識能力を、全く欠いているのかもしれない。
脳の位置認識システムにも、なんらかの欠陥があるのが、私の『脳』らしい。

算数が出来ないだけはなかったようだ。

とても落ち込む日々である。




『ピンザの島:ドリアン助川・著』

2014-10-06 23:01:46 | Weblog

午前中、台風通過で、雨風ともに強く、大荒れ。


台風の中にあって、丁度、読み終わった本があって、その本のラストも、台風だった。

昨日、今日と同じ作者の本を取り上げる。
著作者は、ドリアン助川氏。
氏の著作は、この拙なブログの中でも何度となく取り上げている。

ドリアン助川氏は、たぶん。
挫折の多いひとらしい。ハタからみれば、それ程、挫折ではないのでは・・・?と思うけれど、完璧主義者にとっては、どんな小さなことでも挫折で、傷になってしまう。
目指していた演劇の世界は、完璧主義な彼を拒んだ。
小さな視覚の欠点で、所謂一流と言われる企業からの採用はなく、放送作家の道を行く。
考えていた深夜放送のパーソナリティは、生と死の狭間で喘ぐ若者の救済に心身をすり減らし、ロックバンドのメンバーの麻薬事件で、バンドは解散。

ドリアン助川氏の小説に登場するのは、自分自身には、何の瑕疵もないのに、社会から、弾き出され、恩恵をうけることの出来ない立場の人々だ。

心に受けた衝撃から、他人との境界線を作らねばならない菊池涼介。
彼は、土木工事のアルバイトで、どうしても訪れたかった離島へ向かうことに成る。
そこには、離島の因習とそれに従う島民、そして、野生のピンザ(山羊)がいた。

ピンザは、喰われるために島にいる。
野生のピンザとの不思議な出会い。
そのピンザと共存を図るためには、ピンザのミルクで、極上のチーズを作ることを考えた涼介の出生に関わるかつての父の親友のいる島で、絶望とされたチーズ作りを試みようとする。

離島での因習。疎外。

離島と言えば、落ち武者伝説。
ゴクモントー(獄門島)だとか、(離島ではないが)八つ墓村だとか・・・そんな雰囲気があるけれど、
この『ピンザの島』にもその因習が色濃く残っている。

絶望の世界にほんの小さな光を見る一瞬。
ひかりは、すぐに消えてしまうけれど、何もかも失くしたその瞬間に、もしかしたら、新たなる極上の・・・今まで生きてきた世界を覆す・・・かそけき光をみるような・・・そんな小説。



『La Petit Prince 星の王子さまからの贈り物:ドリアン助川・訳/文』

2014-10-05 22:54:27 | Weblog

曇りのち雨。台風接近中。


好きなひとから、贈られてみたい本である。
誰も贈ってくれるひとがいないので、自分で購入した。

私は、気に入った本を、好きなひとやお世話になったひとに贈ることが多った(過去形である。今は、本を贈りたいというひとが、いない)。
その反面、ひとから本を贈られたという経験は、ほとんどない。

読書離れ・・・というか、本との距離が出来てしまっているからもしれないが、実際に、本を貰っても、自分の領域以外の本を贈られても困るだけかも・・・?
そんなことを考えると、今まで、私が贈った本達は、果たして、気に入って貰えたのかどうか、はなはだ怪しい。
読後の感想など、聞いたタメシがないから、きっと、何処かの古本屋に、二束三文で売られてしまったに違いない。
いや・・・二束三文でも売れれば有難い。

ただ捨てられただけかも・・・?

そんなことを考えると、本を贈ることを躊躇ってしまう。


今日のお題。
サン・テグジュベリの『星の王子さま』から、言葉の宝石として、ドリアン助川氏が、再構成した本。

ドリアン助川というひとは、いつも優しさに満ちている。
サン・テグジュベリと何処か、共通の魂があるのかもしれない。

純粋な子供(子供ほど残酷な生き物は、いないかも・・・と思うときもある。純粋なだけに、余計に。しかも、最近は、子供だって何処かオカシイと思うのは、気のせいだろうか?)のままの魂は、成長するにつれて、大事なものを捨ててしまう・・・捨てなければ、立ちいかないし、生きて行けないのかもしれない。
そんな純粋からかけ離れた世界を生きるもうひとつの方法。

こころでしかみえないんだよ。ほんとうに大切なものは目にみえないんだ。

この一言に尽きるのではないだろうか・・・。

この本。
大切なひとに贈るには、このうえもなく極上だ。
ただし・・・本を読む人に限るけれど。

ヒト(の心)も、言葉も、宝石も・・・磨きをかけて初めて、初めて、光を放つ。

美しい言葉の宝石になる。








『キャットニップ1:大島弓子・著』

2014-10-04 22:52:02 | Weblog
曇りがち。台風接近中で蒸し暑い。


大島弓子・・・この極上の漫画を描く人は、50歳台を目前に、癌を患う。
その顛末が、何故か、悲しみも、絶望感もなく、淡々と描かれていたのが、『グーグーだって猫である:1』であった。エッセイ漫画・・・とでもいうのだろうか?

自分の命を淡々と見つめるその先には、『グーグー』という猫がいた。

たぶん・・・。
発病時は、これ程、淡々と自分の生命の危機を見つめ続けることはできなかったのではないだろうか。
著作者・大島弓子氏によれば、下腹部のゴロゴロは、かなり前(数年間?から存在していたようだ。医療機関を訪れたのは、痛みがピークに達してから・・・らしい。
癌を治療して、再発も認められず、その後は、数十匹の猫達と暮らす・・・少女漫画家。

以前のような・・・シュール、感性、オトコには、到底、理解できないであろうその独自の世界を展開して・・・いやいや、オトコでも賛辞を送り諸兄も多い。
前回の映画化、そして今回、衛星放送で、大島弓子氏の作品『グーグーだって猫である』を映像化した犬童一心氏、かの千夜千冊の松岡正剛氏なども。

そんな『グーグーだって猫である』の続編が、『キャットニップ』である。

以前、大島弓子氏は、『綿の国星』、『サバ』シリーズという猫を擬人化した作画で、猫の不思議な世界を描いていた。
猫を人間の少女や青年に擬人化する手法の漫画の先駆けであろうことは、このブログ内で記載した・・・そして、その後、そのパターンをサルマネしただけの超ド下手な才能の『サ』の字も無いバカな漫画家があまた排出したことも。

完全なフィクションであるファンタジー系?の『綿の国星』から、作者の生活エッセイ漫画『サバ』シリーズへ以降する過程で、より人間的に描かれていた猫は、だんだん普通の猫の形状に戻り、『グーグー』、『キャットニップ』では、猫の擬人化は、全くなされてはおらず、猫は、猫のまま登場する(だから、最初少し戸惑った。グーグーは、紛れもなく猫だったから)。

大島氏とお隣の心優しいマダムは、野良猫の保護にいそしむ毎日のようである。
そこにあるのは、純粋な猫好き・・・というか、猫をこよなく愛する・・・愛を超えた・・・たぶん、慈愛なのだろうと思う。

物語(・・・といっても日常のエッセイ)は、やはり淡々と進む。
だから、物語ではないのかもしれない。
淡々としすぎるくらいだけれど、観察者である大島弓子氏の目を通した慈愛が、溢れているようである。

還暦を超えると若いころのような複雑で繊細な線は、消える。
点描の世界から、質実な直線・・・なのだろうか・・・。
故・長谷川町子氏も、若い頃は、こまごました背景を書いておられたが、『サザエさん』終了後の作品は、簡潔化していた。

私は、この作家が、限りなく好きである。

ただ、ただ好きである・・・。

だから、発刊されると飛びついて買ってしまうのだ。