梅雨入り後の大雨のあとのくもりがちな晴天。最高気温28度。蒸し暑い。
映画『国宝』の記事を6月9日に、拙ブログ内に投稿したのだけれど、規約違反で、停止の処分。差別用語がお気に召さなかった???らしい。昭和後半のストーリーだから、差別用語でしか表現できないこともあるのだけれど、なんだか、イチイチ、重箱の隅をつつかれているようで、このまま削除でいいか・・・とも思ったのだけれど。これで、また停止だったら、こんな閲覧数の少ない零細ブログにまで、言論統制厳しくなってんのか・・・と思うと、なんだかな・・・と言った感じです。『思ったままを書けばいい・・・』っていうようなキャッチコピーだしてませんでしたかね???
(以下、6月9日投稿分を少し修正した文章になります。大して修正してませんけど)
昨日と同じく、日の出の頃は、晴れていて、暑く成りそうな感じだったけれど、朝になって、雲が沸き立つ。
湿度のある風が吹き抜け、宵から雨降りだす。梅雨入りが秒読みの週明け。
先週土曜日(6月7日)。
隣々市のシネマコンプレックスで、映画『国宝』を鑑賞。

3時間近い大作。
長崎の反社組織の組長の息子として生を受けながら、歌舞伎、舞踊に親しみ、その才を歌舞伎役者の花井半次郎に見いだされ部屋子になった立花喜久雄と、代々歌舞伎の家に生まれ、父親の跡継ぎとして期待される半次郎の息子の俊介。
二人の友情と確執、歌舞伎の家に生まれた者と才能だけで何も持たない者の岐路。
そう。後ろ盾が居なければ、終生、馬の足を演じなければならない歌舞伎の世界で、その頭角を現し、芸道に精進する喜久雄だったけれども・・・。
吉沢亮(喜久雄)と横浜流星(俊介)という・・・所謂、同じ系統の美しい顔立ちの俳優の二人遣いで、贅沢な映画と言えば、そうなので、映画の出来については、あまり語らないでおこうと思う(・・・というより、映画と歌舞伎の根本的な違い・・・と少し考えてしまった。だから、映画に関しては、どうしても、割引いてしまうので)。
歌舞伎界では、殺人と麻薬(クスリ)以外は、大体、許容範囲というちょっと普通ではない世界なので、芸者の二号さんとか、隠し子さんなんてのは、まあ所謂『芸道』の肥やし程度という認識の世界のようで。
所詮、河原(の)者のコトで。
その河原(の)者と反社組織には親和性があって、反社の組の跡取りであった喜久雄が、抗争に巻き込まれて両親を失い、興行先である花井半次郎に引き取られるあたり、今でも、裏の繋がりというものが時々、見え隠れしたりもする。
河原(の)者は、二十一世紀になると、この国では、芸術化して、伝統芸能がどうのこうの・・・格式の高いお家柄?と言われているけれど、モトを正せば、所詮、河原(の)者は、河原(の)者。
最近では、両親を殺害(自殺ほう助???)した某・澤瀉屋の猿之助などが記憶に新しいけれど。
普通とはちょっと違う世界で育つということは、やはり普通の社会に馴染むのは難しいのかもしれない。
映画の中の登場人物のモデルって誰だろうか・・・なとど考えながらみていた。
当代、稀代の名女形といえば、誰しも、かの『坂東玉三郎』を思い出すのではないか・・・そして、それ以前には、中村歌右衛門(人間国宝)が居た。
映画の中の小野川万菊(演:田中泯)のモデルだろうかと思う。
妖怪じみた老人の演じる『鷺娘』は、醜い中にも神々しさがあり、ひとつの到達点でもあり、女形を目指す二人の少年達に、道を示すことになる。
歌右衛門の当たり役の『阿古屋』は、存命中には、他の誰にも演じさせなかったし、誰にも伝授しようとしなかったと聞く。
いつか・・・この役を・・・と心に秘めていた玉三郎は、この役のためだけに、胡弓を練習していた。
そして、歌右衛門がこの世を去ると、玉三郎は、『阿古屋』を舞台で演じることができたのは、ここ15年?くらい前だったかと思う。
喜久雄のモデルが、玉三郎ではないとは思うけれども、多少のエッセンスはあるのだろう(宮尾登美子が上梓した『きのね』は、十一世市川團十郎をモデルにしていたけれど、その辺もあるのかもしれないと思うけれど、少し違うような気がする。生前の漫画家・長谷川町子が、十一世團十郎の大ファンで、『町子歌舞伎迷作集』なども上梓した)。
玉三郎の舞台は、舞台に足がついていないのではないか・・・と思えるほどに、重力を感じない。それもまた歌舞伎の芸のひとつで、他の追随を許さない。鷺娘など人間の男性が演じているとは全く思えないし。
・・・それを、俳優の吉沢亮と横浜流星に求めるのは、酷だし、映画には映画の手法で、美しさを演出したあたりは、やはり、歌舞伎と映画は別物なのかも・・・。
それでも・・・。舞台に魅せられた二人の役者は、それぞれの運命に従う。
父親と同じ病を得ながら鬼気迫る最後を演じた横浜流星と、すべてを捨てて芸道の中に、所謂『ゾーン』に没入した喜久雄に、普通の人間が普通を語っても、どうにもならない。
そう・・・生死の中で、もう何も感じず、ただ光のみの穏やかな世界をみて、覚醒した五条悟センセイ(呪術廻戦)と同じ境地だったのかもな・・・関係ないけれど。でも、所謂、ゾーンってこんなものかなとおぼろげながら思ったりもした。
・・・などと、まるで的を得ないレビューしかかけない・・・たぶん、河原(の)者以下の私だけれど。