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モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした!  その2

2017-08-07 21:24:38 | 歴史

加納美術館で神館長よりお話を聞く

前回のつづき
「モンテンルパ」、現在の日本では、もうほとんどの人が、その存在を知らないか、忘れつつあるのではないかと思います。もう60年以上経っているので、それはそれで仕方がないことかもしれませんが、そこには、日本人戦犯釈放に尽力した多くの日本人やフィリッピン関係者がいたことを忘れてはいけないと思うのです。

昨年、天皇皇后両陛下が国賓でフィリピンをご訪問された際、キリノ大統領のお孫さんに会われ、お礼を述べられました。いかに当時のそのことが、日本国民にとってありがたく大切なことだったのかがよくわかります。

昭和21年、第二次世界大戦が終わって6年も経つのに、未だ150人のBC級戦犯がフィリピン・モンテンルパの刑務所に収容されていました。この釈放にはどのような人たちが関わり、そして実現させたのでしょうか。
まずは、その経緯を時系列的にたどってみましょう。(敬称略とさせていただきます)


(1947)S22.8.1  
フィリピンによる対日戦犯裁判始まる(~S24.12.28)
(1948)S23.04.18 
キリノ大統領、フィリッピン第6代大統領に就任
(1949)S24.11.4 
真言宗僧侶・加賀尾秀忍、教誨師として6ヶ月の任期でモンテンルパに派遣される(48歳)
この頃より、加納莞蕾、各方面に嘆願書を送り始める。

(1950)S25.04 
加賀尾秀忍 戦犯の要望を受け入れ任期過ぎるが、囚人と同じ房に住み込み、無給で留まる。
     
植木信良 留守家族を励ますため、機関紙を発行しつづける

(1951)S26.01.19 
キリノ大統領の命により、14人の絞首刑が実行される
  同年 2月 
大統領、戦争死刑囚の事案を個別に審査し、減刑の余地を検討する意向を表明 
   
(1952)S27.01.25 
渡辺はま子、元駐日大使ピオ・デュランより多くの戦犯が収容され、14人が処刑された事実を知る

ピオ・デュランを介して、渡辺はま子は加賀尾との文通を始める。
渡辺はま子、加賀尾にぜひ、一度慰問に行きたいと伝える

(1952)S27.3.27 
朝日新聞に「死刑戦犯に集まる手紙」が掲載され反響をよぶ

(1952)S27.4  
加賀尾秀忍 歌に望みを託し、戦犯に作詞と作曲を頼む (作詞を代田銀太郎、作曲を伊藤正康)
(1952)S27.6  
加賀尾秀忍 できた歌を、渡辺はま子に送る

朝日新聞記者、辻豊は、日比賠償予備会談の取材目的でモンテンルパを訪ねるが、実情を知り、新聞、ラジオを通じ「残された人々を救え」と国民に訴える

(1952)S27.7 
渡辺はま子 歌をレコードに吹き込み、ビクターから発売される
歌は、NHK番組「陽気な喫茶店」で紹介され、20万枚という大ヒットとなる

植木信良、渡辺はま子のモンテンルパでの慰問コンサート実現に奔走する


(1952)S27.12.24 
渡辺はま子、モンテンルパ訪問が実現。戦犯の前で歌う
   
(1953)S28.1.10
モンテンルパ慰問録音テープはラジオで放送され、大反響をよび、本格的な戦犯救出運動の原動力となる。
元軍人オルゴール会社を経営していた吉田義人、歌に感動しアルバム式オルゴール2冊を渡辺はま子に送る


渡辺はま子、1冊を加賀尾秀忍に送る(S28.5加賀尾に届く)

加賀尾はローマ法王に手紙を書き、戦犯者の助命を嘆願、法王の心を動かす
マニラにいた法王大使を通して大統領に法王の意向を伝えていた。


(1953)S28.05.16 
加賀尾秀忍、キリノ大統領と会見し、記念としてオルゴール付写真帳を渡す。キリノ大統領、心を動かされる

(1953)S28.06.27 
加賀尾秀忍 再び大統領を訪問

日本人、500万人分の助命嘆願書がフィリッピン外務省に届く
キリノ大統領から「日本人有期囚、無期囚全員釈放。死刑囚を無期に減刑して日本巣鴨に送還する」と発表。


(1953)S28.07.04 
フィリッピン独立記念日 正式にキリノ大統領、恩赦を発表 
(死刑囚56人は無期に減刑し日本内地への送還、有期戦犯49人は特赦釈放)
日本政府、衆参両議院それぞれの本会議でフィリッピン政府の措置に対して感謝決議を行う

(1953)S28.07.15 
戦犯全員が、17名の遺骨とともに白山丸でマニラを離れ日本へ出発
        
(1953)S28.7.22 
白山丸、横浜の大桟橋に着岸 28,000人(一説には、25,000人)が出迎える
(1953)S28.7   
日比谷公会堂でキリノ大統領に感謝する「国民感謝大会」が開催される。
加賀尾、政府から感謝状と記念品を送られる


(1953)S28.12.30 
巣鴨拘置所に入所した無期死刑囚も釈放となり晴れて自由の身となる。
(1955)S30   
静養のため、キリノ大統領来日、加納 莞蕾、東京で面会する。
         
(1956)S31.02.29 
キリノ大統領、心臓発作で死去 満65歳


(1656)S31.7 
日本・フィリッピン国交正常化なる

(1966)S41.7.22 
モンテンルパの会の招きで、元ブニエ刑務所長夫妻が来日

(1977)S52.5.14 
加賀尾秀忍、死去 満77歳
(1977)S52.8.15]
加納莞蕾、死去 満73歳    
(2016)H28.1.26~30 
天皇皇后両陛下、フィリッピンを国賓として訪問。キリノ大統領のお孫さん2人に礼を述べられる

(2016)S28.6.18 
日比谷公園公会堂前に、キリノ大統領の顕彰碑が建立(キリノ氏の孫やロペス駐日大使などが出席)


モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした! その3 につづく
参考文献:私の戦後60年 戦犯死刑囚/中国特派員(中俣富三郎)2005年11月
参考文献:永井均著「フィリピンBC級戦犯裁判」
参考文献:「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(34)大場一石
参考文献:いなほ随想 モンテンルパ死刑囚との交流




加納美術館日本庭園の鯉

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