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モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした その3 加賀尾秀忍

2017-08-23 21:45:51 | 歴史
(前回のつづき)
それでは、釈放に尽力した人たちを個別に見ていきましょう。
どのような人たちが、どのような立場で訴えたのでしょうか。
ここで取り上げるのが、モンテンルパの父と言われた真言宗僧侶・加賀尾秀忍師です。
(以下、加賀尾 敬称略)


加賀尾秀忍が住職を務めた井原市東江原町の宝蔵院本堂

(その前に、時代の背景)
第二次世界大戦中に、海外で戦没した日本人は240万人。そのうちフィリピンでは約52万人が戦死、一方的に戦場にされたフィリピンでは111万の人が亡くなっています。特に戦争末期のマニラ戦は、米軍との激戦下、市民10万人以上が犠牲になったといわれています。
日本占領時代の三年を経て、また集団拷問や集団処刑、略奪、強姦を経験したフィリピン人にとって、日本人は憎悪の対象でしかありませんでした。

その後、アメリカから独立したフィリピン政府は戦犯裁判を自ら実施することになりましたが、「復讐や報復ではなく、国際法の諸原則に準拠した公正な裁判」を追及しています。
報復感情を抑え、国家の威信と国民の能力を内外に示すべく、法の下での正義の実現を図ろうとしたのです。


フィリピンによる対日戦犯裁判は1947年8月1日に始まり、最後の判決が出る1949年12月28日まで続けられました。2年半の間に73の裁判が開かれ151名の被告が裁かれました。
しかし、裁判には確たる証拠もなく冤罪が疑われる事例もたくさんあったのです。
このような状況下、日本にいる戦犯の家族は、世間からきびしい目で見られていました。

(教誨師:加賀尾秀忍)
加賀尾秀忍は、1901年(明治34年)岡山県真庭郡落合町に生まれました。昭和3年、真言宗京都大学(種智院大学)を卒業と同時に東江原村(現・井原市東江原町)宝蔵院の住職となります。
昭和24年の秋、フィリピン軍の要請でマッカーサーの命令により日本政府の指示によって戦争裁判のための教誨師として派遣されました。モンテンルパのニュービリビッド刑務所(以下、モンテンルパ刑務所)には、死刑囚74名、有期囚、無期囚69名が収容されていました。


ちなみに教誨とは、刑務所、拘置所などの刑事施設に収容されている者の、宗教的要求を満たし、心情を安定させ、規範意識を覚醒させるために、民間の篤志家(とくしか)である宗教家が施設内で行う宗教活動のことです。
昭和25年1月、戦争裁判の残務処理も終了し、加賀尾は6ヶ月の期限が切れて公の滞在をする必要がなくなりましたが、自分を頼りにする戦犯たちを見捨てて帰国することができず、自ら留まることを決意したのです。
刑務所長ブニエ氏のはからいで、刑務所の房の一つを観音堂として、そこに住まわせてもらい、囚人の残飯で生きることになりました。(ブニエ所長が身元引受人を引き受ける)


昭和26年1月、突然戦犯死刑囚14名の処刑が行われました。加賀尾は、当時心臓病を病んでいましたが、自分の体が刑場で倒れようと14名の魂につき従えて引導を渡すためとして、キリスト教教誨師ネルソン氏とともに全員の処刑に立ち会いました。
このあと、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けたようです。
加賀尾は、マッカーサー元帥、ローマ法王庁にも助命嘆願書を送り、また日本の毎日新聞にも投稿、政財界トップにも救出活動の展開を要請していました。明らかに従来の教誨師の職務を超えたものでした。何とか助けたいと思案していたとき、皆で歌えるような歌で日本の人々に訴えようと発案しました。そして死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を、元将校の伊藤正康に作曲を頼みました。


加賀尾は出来上がった歌を歌手の渡辺はま子に送ります。渡辺はま子とは、ピオ・デュラン元駐日大使を通じて知り合い、手紙のやりとりをしていました。
昭和27年7月、歌は「ああモンテンルパの夜は更けて」という題名となり、20万枚を超える大ヒットとなりました。これにより日本国民の多くが、モンテンルパの実情を知るところとなったのです。


モンテンルパに是非、慰問に行きたいと願っていた渡辺はま子でしたが、約半年かかってついにその願いが実現します。昭和27年12月24日、加賀尾の案内のもと、モンテンルパ刑務所での独房の奥のステージで、「荒城の月」や「浜辺の歌」などを歌い、そして「モンテンルパの夜は更けて」を歌うと、合唱となり、一同は感激と感謝の涙になりました。終わりに全員で国歌を斉唱し、その後の加賀尾の声涙共に下る諭しの言葉と名セリフは一層の涙をそそり、渡辺はま子はテープレコーダーの上に泣き伏してしまったそうです。

渡辺はま子は、最初は振袖姿、イブニング、支那服と着替えて、耳と同時に目の方も楽しませてくれたそうです。
このモンテンルパ慰問録音テープは、昭和28年1月10日にラジオで放送され、大反響を呼び、本格的な戦犯救出の原動力となったのです。

昭和28年5月16日、渡辺はま子から加賀尾にアルバム式オルゴールが届きます。歌に感動した元軍人の吉田義人から送られた2冊のうちの1冊でした。
ちょうどタイミングよく、加賀尾はその翌日、キリノ大統領との会見をゆるされたところでした。キリノ大統領は、その手記に次のように述べています。加賀尾氏は釈放について嘆願するだろうと思っていたら、なにも言わず、オルゴールをお土産として手渡したのでした。「これは何の曲ですか?」と訪ねると、加賀尾は「モンテンルパの囚人が作った曲です。」とだけ答え、これにはいたく心を動かされたと。
キリノ大統領は昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と3人の子供を失っていたことを加賀尾に告げたのでした。


時を同じくして、フィリピン政府外務省に日本から、500万もの嘆願書が届きました。こうした状況に大統領は、ついにフィリピン独立記念日に恩赦を発表します。有期・無期受刑者は釈放、死刑囚は無期刑に減刑し、日本の巣鴨刑務所に移送する旨、発表しました。
二度とフィリピンに戻らないことが条件に、全員が祖国の土を踏むことになりました。短い人で9年、長い人では15年ぶりの帰国でした。加賀尾は、フィリピン政府の特別許可により、処刑され、土葬されていた17名の遺体を自ら発掘し荼毘に付して持ち帰ったのでした。

7月15日、加賀尾を含めた111名が日本政府の用意した白山丸に乗り込み、7月22日、午前8時半に、2万5千人の大群衆が出迎える中、横浜の桟橋に到着したのでした。
大統領は、任期の最終日、日本の巣鴨刑務所にいる無期となった元死刑囚に対しても釈放という恩赦を発表しています。これによりモンテンルパに収容されていた日本人戦犯は全員が完全に釈放となったのでした。

彼らが横浜港に到着した翌日、政府は加賀尾に感謝状と記念品を贈呈しました。彼の並外れた努力と献身を政府も無視できなかったのです。昭和52年(1977)5月14日76歳で生涯の幕を閉じるまで、彼は「13階段(絞首台)と平和」と題して講演を続けました。それは平和を祈る全国行脚の旅でした。


加賀尾秀忍書 「長楽無極」いいことがずっと続きますように 筆者所蔵 僧忍は法名

参考文献:私の戦後60年 戦犯死刑囚/中国特派員(中俣富三郎)2005年11月
参考文献:永井均著「フィリピンBC級戦犯裁判」
参考文献:「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(34)大場一石
参考文献:いなほ随想 モンテンルパ死刑囚との交流
参考文献:東京人権啓発企業連絡会 ひろげよう人権
参考文献:NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
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