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雲南でさかんだった屯牛5

2016-01-16 11:02:39 | Weblog
シーサンパンナ・景洪市、瀾滄江脇でたむろする牛と馬。このあたりの牛も馬も黒い毛並みが多く、体型は鼻が低かった。背中にコブがないので北方系牛の分類となるのだろう。瀾滄江は下るとメコン川となる国際河川である。つまりインドシナ半島とのつながりが強い地域である。

 2004年段階で川の水は澄み、川の水かさは足の膝程度であったが、その後も中国の国策でダムが造られ続け、計画では8カ所、現在、6カ所が完成している。当然、水質は激変し、下流では魚が捕れなくなったり、洪水被害が多発するなどの大問題となっている。

 このダムの目的は水力発電にあり、電力は付近、および広東省などの沿海地区に向かい、またミャンマーに売電している。瀾滄江の水力発電計画は天安門事件後に国際的孤立を招いた際、電力を自力でまかなえるようにする政策にそって、作られたという。(林庭瑶「瀾滄江最大水壩発電 東協国憂」『聯合報』2012年9月7日A21版)


【詔勅だけでも4万頭】
さらに3年後の洪武23年6月にも雲南の各衛屯地にはじめに屯牛が支給され、
それから延安侯唐勝宗らが雲南に訓練された軍士を各衛に送り、
加えて貴州にいる衛の官牛6770頭ほどを屯田の諸軍に送るように詔勅が発せられました。

(給雲南諸衛屯牛先是延安侯唐勝宗等往雲南訓練軍士、置平溪、清浪、鎮遠、偏橋興龍清、平新、添隆、里威、清平、壩安、莊安、南平夷十三衛屯守、而耕牛不給勝宗、請以沅州及思州宣慰司、鎮遠、平越等衛官牛六千八百七十餘頭分給屯田諸軍、至是詔給與之)
【明の太祖高皇帝実録・巻202より】

つまり中国全土から人と牛が雲南に集中していたのです。

まとめると洪武20年から雲南に送り込まれた屯牛は詔勅に現れているだけで3万6770頭。人もやはりこの時期だけで洪武20年から数字化された人数だけで精兵7万人、その家族も国のお金で送り込まれたので、一人あたり3人として21万人となります。

すでに雲南攻略の時の居残り組もいるので大幅な人口増となっています。屯牛は詔勅令に書かれている以外でも調達されていたことでしょう。そうでなければ食べ物からして全然足りなくなってしまうでしょう。環境も大激変が予想されます。

こうして雲南の牛は各年度ごとに優れた農耕牛が地域の区別なく送り込まれて重層化していきました。

また、当時の最も進んだ長江下流域の農耕技術も伝播して、農耕用の鋤も大改良されました。2頭の牛に3人の人で一つの形をなした牛耕も1人1牛へと労働効率も飛躍的に進展をとげたのでした。                   (つづく)

※牛の話はあとちょっとで終わります。すっかり、長くなりました。牛って奥が深かったんですね。
コメント
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