たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

須賀敦子の著作に出会う「遠い朝の本たち」<終章>

2011-08-27 09:09:19 | 須賀敦子の著作

学校の夏休みも終盤ですね。
地方によっては、すでに2学期が始まっている。
夏休みの終わりといえば、中高生の皆さんを悩ますものに、
「自由研究」と「読書感想文」がある。



少年だった爺の自由研究は専ら「植物採集」でした。
といっても、2学期開始の数日前から、庭先の雑草を採ってきて、
新聞紙に挟んで重石をして、半乾きのまま提出する。
「読書感想文」の方は、余り困まった記憶がないが、
「猿飛佐助」や「鞍馬天狗」「シャーロックホームズ」
「宝島」「三銃士」では、どんな感想文を書いたか記憶にない。
まともなものでは、中学のときヘッセ「車輪の下」くらいかな。



後年、毎日新聞社で主催している「青少年読書感想文全国コンクール」に多少、関わったことがあり、
毎年指定される「課題図書」について、作者、出版社、教師を巻き込んで、
このコンクールのすごさを知った。
小中高生の最優秀作品には「内閣総理大臣賞」授与、
表彰式には、皇太子が臨席することもあるようでした。



「そうならねばならぬのなら」

須賀敦子全集(河出文庫版)第4巻まで読み終えました。
この第4巻は、書評を中心にした須賀の読書日記であり、
本に夢中になり、知的な糧としてきた本について、
自身にどんな意義と影響が与えられたかを書いています。
巻頭所収の「遠い朝の本たち」で綴られている本をはじめ、
須賀が読んだ本の数、質の高さ、
そして「知・肉」としてきたすごさに圧倒されます。

「読書感想文コンクール」用に読む本との違いは、(比較する質が違いすぎるが)、
読書によって自身の、モノ書き人生を形成して行ったところにあるのでしょうか。



とくに、大西洋を初めて単独飛行した<翼よ、あれがパリの灯だ>のリンドバーグの夫人アン・モロウ・リンドバーグが、
不時着した日本滞在について描いたエッセイに思い入れを込めています。
須賀は「文章が身体の中に吸い込まれていくようだ」「このようなモノ書き」になりたいとも記しています。

さらに、アンが日本語の「さよなら」という言葉について、
<さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、……「そうならねばならぬのなら」という意味だと私は教えられた。なんという美しいあきらめの表現だろう。>
と書いたことについて、須賀は強い感動に包まれます。
また、サン・テグジュペリの「星の王子様」への深い思いも、素敵な一章となっています。



須賀は読書と書物との結びつきを通し、
必然的に「コルシア・ディ・セルヴィ書店」に関わり、
その後の人生と伴侶を決めることになりました。
須賀の著作の中心は「本の思い出」と「人の思い出」が底流となっていることを知った。

昨秋以来、更新してきた<須賀敦子の著作に出会う>は、
この「遠い朝の本たち」でひとまず終わりにしたい



●<須賀敦子の著作に出会う>アーカイブ

須賀敦子の著作に出会う
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<2>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<3>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<4>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<5>
須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<1>
須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<2>
須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<1>
須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<2>
須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<3>
須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<1>
須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<2>
須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<3>
須賀敦子の著作に出会う「モランディの静物」
須賀敦子の著作に出会う「遠い朝の本たち」<終章>


須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<3>

2011-06-26 10:53:38 | 須賀敦子の著作

河出書房文庫版第2巻に収められている「トリエステの坂道」。
前作の「ヴェネツィアの宿」は著者自身の留学のこと、修学時代について、
また、父のこと、母のこと、祖母など、家族や周辺のことが中心でした。
最初の2年間の留学地・フランスの個人主義は須賀には、馴染めず拒絶的であった。
2度目の留学地・イタリアは第二の母国となるほどの、須賀にとって充実の地となっていく。



「トリエステの坂道」――、
表題作「トリエステの坂道」は夫・ペッピーノが亡くなって20年後、
夫と行くはずだったトリエステ、二人で読んだ詩人・サバの故郷への魂の旅から始まる。

永年にわたって、心を占めているの詩人の痕跡を求めて歩く
営んでいた古書店を訪れて、詩に読まれている道と街を歩く
そしてユリシーズの碧い海。
歩き続けて一日の最後にドアを押して入ったカッフェ。

「その店内に広がる光景に眼を瞠る。
    ………………………
…父がこれを見たら、どんなに喜ぶだろうと思った。」



表題作の他は、義父、しゅうとの義母、義弟夫婦たちの豊かではないが、
ミラノ郊外での暮らしを温かく描く。

夫が通勤に使っていた電車路線の思い出を綴る「電車道」、
傘を駅まで持っていったが、無視されて雨の中を走る夫など、イタリアの男たちが傘をささず雨の中を走る「雨のなかを走る男たち」、
そんな情景は、何かの映画でも見た記憶がありますね。

夫の実家と義母とのふれあい、義弟の若い妻を迎えることから「キッチンが変わった日」「セレネッラの咲く頃」、
鉄道員だった義父ルイージ氏への思いを込めた「ガードのむこうの側」など。
義理の弟アルドの家族との交流で、北イタリアの農村地帯の自然と、生活のなかで須賀自身が癒されていく。



夫を亡くしてから、実家と縁戚との交流の中で、著者らしい感性と知性が光る章が続く。

須賀の作品を読んでいて、いつも感じることですが、
最初に最後の1ページがあって、
そこに至る過程が丹念に知に満ちた文章で綴られていく。
そして、最後の数行が実に香気に満ちて、哀しく美しい。



表題作の「トリエステの坂道」に始まって/電車道/ヒヤシンスの記憶/雨の中を走る男たち/キッチンが変わった日/ガードの向こう側/セレネッラの咲く頃/息子の入隊/重い山仕事のあとみたいに/新しい家/ふるえる手――の12作品で構成されています。
殆どが「SPAZIO」という文化広報誌に、1990年代に連載されたものが中心です。




●<須賀敦子の著作に出会う>アーカイブ

須賀敦子の著作に出会う
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>
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須賀敦子の著作に出会う「モランディの静物」

須賀敦子の著作に出会う「モランディの静物」

2011-06-25 11:20:22 | 須賀敦子の著作


NHKBSプレミアムで毎朝7時15分から
[額縁をくぐって物語の中へ]という番組があります。



昨日(24日・金)はモランディの「静物」でした。
イタリアのボローニャに生まれのジョルジョ・モランディの静物画といえば、
昨秋から読み続けている、須賀敦子が大好きだった絵画です。
著作のなかに、作品に出会ったときの記述が幾度か登場します。



「コルシア書店の仲間たち」のなかの一章「夜の会話」にもあります。
ミラノ生活で知り合った、貴族社会の流れを汲むオールドたち、
今風に言えば「超セレブ」たちの館に招かれ、
モランディの静かで気品さえ感じる作品に出会う。

いま読んでいる河出書房文庫版の「須賀敦子全集」(全8巻)
表紙はモランディの静物画の写真がモチーフになっています。



ところで、NHKBSの「額縁をくぐって物語の中へ」
番宣のコピーには<絵の中に入って、登場人物に話を聞いたり、
人物がどこを見ているのか探ったり
窓の外側に出て画家が描いていない街を散歩してみたり…
「視点」を変えて絵の中の世界を見てみると、
名画の新しい楽しみ方が見つかります>
”美しい絵の中に入ってみたい!”
そんな願いをかなえる番組です―――とあります。



良く知られた名画について、
制作の背景、作者の意図など画中の人物と対話したり、
尋ねたりしながら、名画の中を歩き回ります。
実に面白いです。名画鑑賞の新境地を開いた番組ですね。

3日間にわたった「源氏物語絵巻」など、
人物の配置の中に、どろどろの愛憎と哀しさを語る絵巻ドラマ。
また、モーリス・ドニの「セザンヌ礼賛」は昨年の夏、
国立新美術館で開かれた「オルセー美術館展」で眺めただけの絵でしたが、
まあなんと、複雑な背景と製作意図が込められていることを知りました。

NHK年間受信料1万6180円は、高いと思うか、値ごろと思うべきか。
贅沢に作られた海外ロケ番組など見ていると、金遣いが荒いなとも感じます。

須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<2>

2011-06-16 23:00:35 | 須賀敦子の著作

昨秋以来、須賀敦子の著作に出会い、
「地図のない道」まで読み終えていたが、
ブログ更新はようやく「トリエステの坂道」にさしかかりました。



ちょうど良い具合にBS朝日で、18日の土曜日から3週連続で
「須賀敦子のイタリア」が再放映されます。
前回の放映は見逃してしまいましたが、
今回はしっかり拝見しようと思います。



今頃になって、須賀の著作に魅せられている俄かフアンが、
著者の「トリエステ」を辿るには、無謀にも思えますが、
須賀敦子がこの街に寄せる思いは切なさにみちています。
最初の著作「ミラノ 霧の風景」にも、
「きらめく海のトリエステ」として登場します。
ある機会を得て、想い焦がれていたトリエステを、
初めて訪れた帰路です。



「来たときとおなじように、切りたった断崖の道をヴェネツィアに向けて走る汽車の窓から、
はるか下の岩にくだける白い波しぶきと、
帆かげの点在する、サバの眼のように碧い海が、
はてしなくひろがるのが見えた。
ホメロスがジョイスがそしてサバが愛したユリシーズの海が、夏の陽光のなかに燦めいていた。」

夫と行くはずだったこの街を、今度は一人で歩いてみようとの思いを残す帰路でした。
(この稿未完)


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須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<1>

須賀敦子の著作に出会う「トリエステの坂道」<1>

2011-06-05 10:01:39 | 須賀敦子の著作

今年の梅雨入りは早い。
とき(時・季節・時節)が留まらないで通り過ぎていく。
そんな感じで年の半ばになってしまった。




出会う。
人とのそれには、まあ、いろいろあり、自分だけで済むものではない。
やはりその点、一番楽しいのは「本との出会い」ですね。
「良い本との出会い」は自分だけで済むのが良い。
昨秋以来、須賀敦子の著作に出会い、
「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」
「ユルスナールの靴」「時のかけらたち」「地図のない道」と読んできました。



「本との出会い」でもう一つの出会いがあります。
それは「街・町・都市との出会い」です。
まったく知識のなかった街が、その本によって、
文字だけによって鮮やかに描出される。



最近はテレビ番組でも「街歩き」が流行っている。
須賀さんは60年以上も前に、街歩きを実践していた人ですね。
街・道・石・坂・靴に関わる記述が良く出ています。
なかでも「トリエステ」。



北イタリアの右奥から、アドリア海を挟んでヴェネツィアの対岸に、はみ出したような辺境の街。
須賀さんの、この街への想いは、亡くなるまで鮮やかな記憶となって蘇る。
結婚して6年余で亡くなった夫・ペッピーノ氏との思い出。
大好きになった、詩人のウンベルト・サバの生きた街です。
(この稿未完)

おまけ。
前の総理大臣が、今の総理大臣を「ペテン師」と呼びすてる。
これが日本の政治状況。哀し過ぎる。
大震災後、真っ先に片付けるべきは、永田町のガレキ議員だ。


須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<3>

2011-04-16 12:11:23 | 須賀敦子の著作
学会で訪れたヴェネツィアのホテルで、
父と母への想いに浸った一夜から始まった本書「ヴェネツィアの宿」。
最終章の「オリエント・エクスプレス」で父を看取ることになります。

父は家業を継いだ資産家で、若いころ戦前のヨーロッパ旅行をした実業家でした。
オリエント・エクスプレスに乗り、豪華ホテルに泊まり、高級レストランで食事をしたり、高級服を誂えます。
その時々の話を父は、家族に話し、須賀敦子は聞いて育ちます。
そして父は、もう一人の女性の元に行って家には帰らなくなります。
須賀敦子のヨーロッパは、そんな父との葛藤の舞台でもありました。



戦前のよき時代だった父のヨーロッパは、
給費生の留学時代、結婚してからも貧しかった著者のヨーロッパとは桁違いでした。
父が話し、薦められたエディンバラのホテルのフロントに立ちすくむ。
あまりにも伝統と高級ホテルに圧倒される。

以下(文春文庫版、P279~)から、
「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ」
ヨーロッパ留学が決まった著者に父は、幾度も言います。



1970年の3月のある日、須賀敦子はミラノ中央駅に駆けつけます。
病床にいる父から、おみやげを持って帰るように伝言が届きます。
「ワゴン・リ社の客室の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップ」。

パリ発ヴェネツィア経由イスタンブール行きのオリエント・エクスプレスが、
ロイヤル・ブルーの車体に金色の線と紋章のついた、ワゴン・リ社の優雅な寝台車をつらねて、
ゆっくりとプラットホームに入ってきたとき、私は、あたりいちめんがしんとしたような気がした。



……ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、……ベッドのわきのテーブルに、
それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。




父のヨーロッパと子のヨーロッパがひとつになった……。
須賀敦子の著作はこれまでメモした3作品と「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」まで読んできました。
やはりこの「ヴェネツィアの宿」が心が緩みますね。

(ヴェネツィアの宿の項終わり)
カットの写真は新潮社のトンボの本「須賀敦子が歩いた道」から。
栞の花は「草ボケ」です。

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須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<3>

須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<2>

2011-04-09 18:12:42 | 須賀敦子の著作

須賀敦子の著作のほとんどは、イタリアから帰って、
長い年月と熟成を経て書かれたものです。
この「ヴェネツィアの宿」は、ヴェネツィアのホテルで自身の幼少時代から、
父と母・家族への想いを綴った表題作から、
最終章の父との最期の再会までの12編からなっています。



ヴェネツィアの宿 ¶夏のおわり ¶寄宿学校 ¶カラが咲く庭 ¶夜半のうた声
¶大聖堂まで ¶レーニ街の家 ¶白い方丈 ¶カティアが歩いた道 ¶旅のむこう
¶アスフォデロの野をわたって ¶オリエント・エクスプレス

どの章も前の2作に比べ、
著者自身の心情が本来なら高ぶる気持を冷静に切なく、透徹した言葉を繋いでいく。
各編とも著者の思い出と思索が自由に織り込まれて、
エッセイを超えた高質な文芸作品といえます。



なかでも、後半の2作は著者の孤高の精神性と情感が哀しい。
「アスフォデロの野をわたって」の一篇には夫・ペッピーノへの喪失の予感が語られます。
夫のペッピーノと休暇で南伊のソレント訪れたとき、
寝てばかりいる夫も見ていて、
夫の親族の持つ早死にの宿命を思い「不吉な予感」に捉われます。
ペストゥム遺跡を見に行きます。そこで須賀さんは夫の姿を見失います。



ペストゥム遺跡の夏枯れの野に、私はひとり立っていた。
捜し求めた果てに、須賀さんは何の関連もなく、
好きな「オデュッセイア」の一節を頭に浮かべます。(文春文庫・263ページ)
 アキレウスは、アスフォデロの野を
 どんどん横切って行ってしまった

それから数ヵ月して、ペッピーノは肋膜炎で急逝します。

須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<1>

2011-04-02 22:34:30 | 須賀敦子の著作

須賀敦子の著作を昨秋から読んでいます。
「ヴェネツィアの宿」1993年に刊行された著者3冊目64歳のときの作品です。
「コルシア書店の仲間たち」「ミラノ 霧の風景」の2冊は、
おもにイタリア在住時代の記憶を辿ったものでした。



この「ヴェネツィアの宿」は著者の幼少時代から、留学生活のいろいろ。
両親、家族にまつわる著者自身の周辺が語られています。
須賀敦子は1929年に阪神の夙川で生を受けました。

父は戦前のヨーロッパをはじめ世界を豪華客船、
オリエント急行の旅をするような、裕福な家庭に育ちます。
ミッション系の学校に通い、やがて洗礼を受ける道を歩みます。
父からヨーロッパの都市の話、港のこと、
オリエント・エクスプレスの旅のことを聞きながら成長します。
そんな父をやがて許せなくなる。
もうひとつの家庭を持つようになり母の元には帰ってこない。



須賀敦子は2回ヨーロッパ留学しました。
最初は24歳の1953年から2年間はフランスでした。
神戸港から40日の船旅でイタリアのジェノバに上陸します。
出迎えたのは須賀の将来に重要な役割を果たすことになる女性でした。

2年間のフランス留学は須賀にとって、
心穏やかなものではなかったようです。
「フランスは私に冷たかった」意味の表現が、いくつかの著書の中に登場します。
1953年のヨーロッパはまた、記録的な寒波に見舞われた年でもあったようです。



「ヴェネツィアの宿」はシンポジュウムで訪れた夜、フェニーチェ劇場近くのホテルに泊まり、
亡き父が豪華な世界旅行をした頃の家族をを思い出し、別の家族を持ち、
帰らなくなった父を許せなくなっていく自分と母の思いに浸る。
しかしそんな父は、著者にはヨーロッパの先験者でした。
本書の劇的な最終章「オリエント・エクスプレス」はじんと泣けてきます。
(この講未完)

須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<2>

2011-02-20 17:38:03 | 須賀敦子の著作

 「……………………
夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。
…………………………」(「あとがき」から)

須賀敦子の最初の著作「ミラノ 霧の風景」は、次のような目次から成っている。
  遠い霧の匂い
  チェデルナのミラノ、私のミラノ
  プロシュッティ先生のパスコリ
  「ナポリを見て死ね」
  セルジョ・モランドの友人たち
  ガッティの背中
  さくらんぼと運河とブリアンツァ
  マリア・ポットーニの長い旅
  きらめく海のトリエステ
  鉄道員の家
  舞台のうえのヴェネツィア
  アントニオの大聖堂
  あとがき



 霧を吸い込むとミラノの匂いがするという。
ミラノの霧のすごさから始まる本書。
ミラノで暮らした13年余の時空、人、文学、旅、街を、
20年後に現在進行形で綴ったエッセイ。

なかでも「マリア・ポットーニの長い旅」と「鉄道員の家」が印象深い。
前者は須賀が始めての留学でフランスに向かう旅で、
1953年8月10日の朝、イタリアのジェノアの埠頭で、
船から降りる須賀を出迎えたマリアとの出会いから、
東京での再会と別れで知った衝撃のマリアの過去。

後者は夫・ペッピーノ氏の父は鉄道員で実家の官舎など、しゅうとめや兄弟にまつわる、貧しくも誇りに満ちた暮らしが追想される。
映画「鉄道員」を観た須賀の衝撃を記した数行が、
なんとも切ない。

この章に限らず、別の著作にもローマ・ミラノ線の鉄道と、官舎の人たちが登場する。



「いまは霧の向うの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。」
あとがきの最後の1行です……

フロントの写真は須賀さんが最初の留学地フランスへ行く際、
1953年8月10日に上陸した港・ジェノアのGoogle Earth で見た最近の地形です。

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須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<1>

2011-02-12 10:38:29 | 須賀敦子の著作

昨秋から須賀敦子の作品に惹かれて、
「コルシア書店の仲間たち」「ミラノ 霧の風景」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」と読んできた。

「ミラノ 霧の風景」を2度目を読み終えた。
知の海を哀切な感性で昇華するイタリアの追想。
この作品は須賀が13年間余りイタリアで暮らし、「コルシア書店」で出会ったペッピーノ氏と結婚、
わずか4年で夫と死別、42歳で帰国して20年。平成2年、61歳になって刊行した最初の著作、
女流文学賞、講談社エッセイスト賞を受賞した。



イタリアで暮らして、出会った人たち、歩いた街角、
旅した北伊の町、夫とともに読み、訳した文学作品、詩篇……、その思い出を清冽な文章で綴る。
その1行、1節には恐ろしいほど「知の塊」が詰まっている。
その知性が、数行ごとに女性でなければ絶対に書けない、
透明な感性となって詩のような文が魅了する。



思い出の人たち、街や旅、文学を語るとき、いつも行間には夫への追憶が重なる。
須賀は1行、1節ごとに夫との時間を生き直していた。
その時間を満たすのは、イタリアの北の辺狭の国境の町・トリエステへの想い。
その町に生きた詩人で、夫が好きだったサバの詩篇が何回も引用される。
「あとがき」に引用されているサバの詩です。

「死んでしまったものの、失われた痛みの、
 ひそかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。」
 (ウンベルト・サバ 《灰》より)

たにしの爺、イタリア映画は幾本が見ているが、
須賀敦子の著作を読んで、初めて知った、イタリアの文学作品、詩人。
英文学、仏文、獨文は耳にするが、伊文・イタリア文学はあまり聞かない。
最近のイタリアのニュースは、永友選手のミラノインテル移籍がすごい。
(未完)

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<5>

2011-01-23 10:21:54 | 須賀敦子の著作

「コルシア書店の仲間たち」は、須賀敦子のイタリア暮らしのスタートであり、
拠点でもあったコルシア・デイ・セルヴィ書店で出会った人びとを、30年後に回想するエッセイでもある。

そういう意味ではノンフィクションである。しかし、
一行、一章、一冊がとてもノンフィクションとは思えないほどの、
物語性と記述の巧みさで、読む者を惹きつけずにはおかない。



「テレーサおばさま、そう彼女のことを、書店の人たちは、呼んでいた」
「入り口のそばの椅子」と題された第一章の書き出しである。

反体制・左派系の集まりであった「コルシア書店」だが、
パトロンらしき人がいて成り立っていた。
ツィア・テレーサ、ミラノの名家の出であり、世界的著名な大企業の株主でもある。
須賀敦子は彼女と知り合ったことで、
イタリアの上流階級、貴族社会を垣間見ることになる。

ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父たち「カトリック左派」のめざす共同体に集まる人たち、
書店仲間はみな貧しい人たちだった。
須賀敦子は一方、ツィア・テレーサを通して、貴族社会への窓口を持つことによって、
戸惑いながらも、イタリア暮らしが厚みを持つことになる。
しかし須賀の目線はいつも書店で出会う人たちへの、
静かで優しい眼差しが全編にわたって注がれている。



本書の終章は「ダヴィデ――あとがきにかえて」となって、
実にダヴィデへの清冽な鎮魂の文が綴られる。
そしてまた、自分自身と仲間たちへの決別と鎮魂でもある。

「二月六日、木曜日にダヴィデが死んだ。……」
……
若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

著者の本を読んでいて、いつも思うことで、
須賀敦子は、最後の一章が最初にあって、
そこへの帰結を静謐で透明感に満ちた言葉を積み重ねる。

そこに展開される須賀ワールドに多くの読者が、惹きつけられるのだろうか。


須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<4>

2011-01-22 09:42:13 | 須賀敦子の著作

今年はイタリア統一から150年ということで、NHKbsでは「イタリア7つの輝き」という、
集中放送が元日から始まっている。
朝から晩までイタリアに関する番組ばかりだ。

全部見るわけには行かないが、
昨秋から須賀敦子の著作に集中しているたにしの爺には、
大変好都合で興味深い番組もある。
柄にもなく、ミラノ・スカラ座のオペラなどにはまっている。



須賀敦子が暮らしたミラノについて、3回ほど記したので、
今回はその「コルシア書店」は、どんな書店であったのか知りたいと思う。
正式名は「コルシア・デイ・セルヴィ書店」
1945年、連合軍によってファシズムとドイツ軍の圧制から開放された、
イタリアの知識人らによって始められたのが「コルシア書店」だった。
この書店の精神のバックボーン的存在になっていたのが、
詩人でもあったダヴィデ・マリア・トゥロルド神父。

書中の「銀の夜」から引用します。

ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父。司祭で詩人。イタリアでは、かなり名を知られた人物である。一九一六年、北伊フリウリ地方の貧農の農家に、九人兄弟の末っ子に生まれた。とうもろこしのパンにつける塩が買える日はよかった、というほどの貧しさだったらしい。
そんな家の子が学問をするには、修道院に入るしかなかった時代だった。成人してミラノのカトリック大学に学び、そのころから友人の輪が広がっていく。戦争末期には、ドイツ軍に占領されたミラノの、知識人が中心になって組織した地下活動をおこし、戦後、親友のカミッロ・デ・ピアツといっしょに、数人の若者をまじえて、都心にあるサン・カルロ教会の場所を借りうけ、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた。




彼らを中心としたグループは「カトリック左派」といわれ、精神主義に閉じこもるカトリック教会を「聖と俗」の垣根を取り払おうとする運動として広がっていった。
ダヴィデ神父。大聖堂でインターナショナルを歌ったこともあるという。

そんなグループに、どうして須賀敦子が関わるようになったのか。
ダヴィデ神父と知り合ったことが契機だったことこともあるが、
彼女の育った環境と大学時代からの方向性の帰結でもあった。
全著作を通じてダヴィデ神父と書店の仲間たち、
とくに結婚してわずか6年で亡くなったペッピーノへの回想が、
清冽な記憶となって、タテヨコの時間軸のなかで綴られている。

カットの写真は「須賀敦子が歩いた道」(新潮社、トンボの本から撮ったものです)(この項未完)

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<3>

2010-12-30 07:25:11 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、28日で年内の仕事納めとなった。
爺と言っていますが、これでも通う仕事があるのです。
本はもっぱら車内読書です。なぜか車内が一番集中できますね。
メガネを掛けかえるのが少しばかり面倒です。
今回も「コルシア書店の仲間たち」で、
須賀敦子が記したミラノについて辿ってみたい。



地図で見ると、ミラノはイタリアのかなり北部なんですね。
国境の向こうはアルプスを挟んでスイス。
ミラノ大聖堂からアルプスが遠望できるこについて、
須賀は、十数行を費やしています。

そしてミラノといえば、やはり大聖堂ですね。
本物を見たことはありませんが、何度も写真やフィルムで見ています。
須賀はこの大聖堂とともに周辺の風景について、かなりのページを割いています。
生活者だった人の見ていた街角の情景に溢れています。
いまテレビ番組のトレンドになっている「街歩き」の、50年前のミラノ活字版といえます。

大聖堂について、現地で生活した人でなければ、感じられないユニークな見方を示した後、
須賀は中心街を歩き出します。

「中心に大聖堂を抱くミラノの街には、もうひとつ、大切な記号がある。ナヴィリオ運河だ。」と書き、
ミラノの歴史は運河の歴史で、街の成り立ち、川筋に生きる人々の暮らしについて、優しい眼差しを向けます。
大聖堂をはさんで右側と左側では様相を異にすることも。
方や庶民の街筋で、一方は対照的に上流階級の街で、貴族夫人たちが集う街筋となっている。オペラハウス・スカラ座や社交界が集う高級レストランが並ぶ。
その中でも飛び切りの「ヴッフィ・スカラ」にある日、初対面のマリーナ・V公爵夫人から昼食に招待される。



その招待に限らず須賀敦子はいく度か、
ヨーロッパ社会の階層を形成する貴族社会というか、
歴史の厚みみたいなものを思い知る交際も経験する。

50年前といえばヨーロッパで暮らす日本人女性は希少だった。
決して豊かでなかった彼女がどうして、
公爵夫人に昼食に招待される機会が出来たのか。
それは「コルシア書店」にいたからと言えるでしょう。
「街」の章は次のように結ばれている。

「私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。」

そう、この本はコルシア書店にて、知り合った人たちと、その縁で会った人たちへの思い出つづりであり、須賀自身の歴史とも言えるでしょう。
終章は、その歴史に大きな力を与え続けた人への、まさに鎮魂の譜ですね。
「コルシア書店の仲間たち」には、
どのような人々がいたのでしょうか。
次回からその人たちについて知ることにします。

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<2>

2010-12-29 14:13:44 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、イタリアにも、ミラノにも行ったことはありません。
写真はGoogle Earth でみた最近のミラノ中心街です。

前回に続いて「コルシア書店の仲間たち」で綴られている「街」の章から、
須賀敦子のいた時代とミラノについて、知っておきたいと思います。
ときは1960年から71年までの11年間。今から50~40年も前のことです。
そしてときを経て、この「コルシア書店の仲間たち」が書かれたのは91年です。



著者のすべての作品に通じて言えることですが
この20年の歳月が、著者のなかで熟成と純化が繰り返され、
人にも街にも優しい眼差しに満ちた、哀切と郷愁感が、
静寂で透明な文章となって結晶したのでしょう。
須賀敦子は言う。


この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街六番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、……
このパイの部分から外に出ると、空気までが薄いように感じられて、そそくさと、帰ってきたような、……
 いずれにせよ、私のミラノには、まず、書店があって、それから街があった。その街の中心は、まぎれもなく、あの地上に置きわすれられた白いユリの花束をおもわせる、華麗な大聖堂だった。




ある初夏の朝、須賀は20キロほどの郊外の町に行ったとき、
ポプラ林の間にチラッと、大聖堂の光る尖塔を見て、
「あっ、ミラノだ」と心がはずんだことに、小さな衝撃を受けたと書いている。 
 「日本が、東京が、自分の本当の土地だと思い込んでいたのに、大聖堂の尖塔を遠くに確認したことで、ミラノを恋しがっている自分への、それは、新鮮なおどろきでもあった。」

日本に帰って20年、須賀はミラノへの郷愁のうちに過ごす時間が、知的な感懐となって、なんともいえない魅力的な文となっています。
(この項続く)

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>

2010-12-23 12:47:11 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、ブログ更新が一カ月も空いてしまいました。
確かに、関わっているボランティア団体の行事もありましたが、
晩秋から初冬への、季節の速さに置いていかれていました。
それというのも、
前回(11月23日更新)書きました「須賀敦子の著作に出会」ったことにより、
いくつかの作品を読み返していたこともあります。



作品の一編が、一ページが、ゆき過ぎる季節の中で、
金色に輝いているイチョウに出会っているような時間に満ちていました。
須賀敦子のデビュー作は61歳の1990年「ミラノ 霧の風景」でした。
その後、63歳に「コルシア書店の仲間たち」、
そして64歳で「ヴェネツィアの宿」と続きます。

たにしの爺が最初に手にした著作は「コルシア書店の仲間たち」でした。
須賀敦子がイタリアで過ごした生活拠点であった、
コルシア・デイ・セルヴィ書店での6年余、
出会いと別れを中心に、自分と人と街を見つめて、
ご自身の精神文化の形成過程が、
静謐な文章で綴られた12編から成っています。



題名になっている「コルシア書店」とはどんな書店であったのか。
「街」と題された章の冒頭に綴られています。


<コルシア・デイ・セルヴィ書店。イタリア人にとってさえ、ひどく長ったらしいこの名は、じつをいうと、店のあった通りの古い名称である。「セルヴィ修道院まえの大通り」というほどの意味で、十九世紀の文豪、アレッサンドロ・マンゾ-ニの歴史小説「いいなづけ」にも出ている。そのことに気付いた仲間の知恵者、たぶんカミッロあるいはガッティが、これをそっくりもらって書店の名にしたのだった。…中略…
 この通りは、ミラノの都心ではもっとも繁華な道筋のひとつで、大聖堂の後陣にあたる部分から、少し曲がって東北に伸びている。十九世紀後半に達成されたイタリア統一を記念して、「いいなづけ」に出てきたコルシア・デイ・セルヴィという街路名は棄てられ、当時の国王だったヴィットリオ・エマヌエーレ二世の名で呼ばれることになって以来、現在に至るまでその名で親しまれている。私たちの書店は、その通りのなかほどにある、セルヴィ修道院、いまのサン・カルロ教会の、いわば軒をかりたかたちで、ひっそりと店をかまえていた>


これはあくまでも書店の地図的な位置であって、
この書店が、「カトリック左派」の中心拠点として、
どのような人たちによって運営され支えられていて、
著者はどのように関わったのか……
(この項未完)