たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

バーレスク 年忘れにお勧め映画です

2010-12-31 08:39:57 | 劇場映画

とにかく歌が凄い、絶品の興奮ピクチャー。
バーレスク公式サイト

歌よし、ダンス良し、見事なパフォーマンス。
歳を忘れて全身の細胞も骨髄もリズムに揺れる。
この年末、最高の迫力の官能サウンドに酔った。
一年分の不快で嫌なことが吹っ飛んだ120分です。



歌姫、クリスティーナ・アギレラの映画初主演作。
そして、アカデミー女優のシェールが歌う。

官能的で、セクシーで、ゴージャスなショー。
ロスアンゼルスのクラブ「バーレスク」。
    見せそうで 見せない。
    見えそうで 見えない

そんなショーを垣間見て、魅せられてしまった、
田舎を飛び出してきた女の子アリ(クリスティーナ・アギレラ)、
なんとしてもダンサーになりたいと、涙ぐましい奮闘ぶり。



そんな彼女を引き上げたのが、
クラブ経営者のテス(シェール)だった。
グラミー賞女優・シェールの歌もまた魅力の歌声。
迫力のアリと一味違う、さすがの年期入りだ。

モヤモヤを吹き飛ばしたかったら、
迫力のアギレラのパフォーマンスと歌を聴こう。
きらびやかな衣装と美術フロア、華麗なショーの世界に浸れる。
官能ダンスと迫力サウンドに身を任せる映画館に行こう。

映画鑑賞で今年最後の更新になりました。
民主党、小沢一郎、菅政権、バラマキ、中国、……など、
アブクを吹かしたい事象は、山ほどありましたが、
ばかばかしくなって、やめました。
一年間、来ていただいた皆さんありがとう。
それでは、よいお年をお迎えください。


須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<3>

2010-12-30 07:25:11 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、28日で年内の仕事納めとなった。
爺と言っていますが、これでも通う仕事があるのです。
本はもっぱら車内読書です。なぜか車内が一番集中できますね。
メガネを掛けかえるのが少しばかり面倒です。
今回も「コルシア書店の仲間たち」で、
須賀敦子が記したミラノについて辿ってみたい。



地図で見ると、ミラノはイタリアのかなり北部なんですね。
国境の向こうはアルプスを挟んでスイス。
ミラノ大聖堂からアルプスが遠望できるこについて、
須賀は、十数行を費やしています。

そしてミラノといえば、やはり大聖堂ですね。
本物を見たことはありませんが、何度も写真やフィルムで見ています。
須賀はこの大聖堂とともに周辺の風景について、かなりのページを割いています。
生活者だった人の見ていた街角の情景に溢れています。
いまテレビ番組のトレンドになっている「街歩き」の、50年前のミラノ活字版といえます。

大聖堂について、現地で生活した人でなければ、感じられないユニークな見方を示した後、
須賀は中心街を歩き出します。

「中心に大聖堂を抱くミラノの街には、もうひとつ、大切な記号がある。ナヴィリオ運河だ。」と書き、
ミラノの歴史は運河の歴史で、街の成り立ち、川筋に生きる人々の暮らしについて、優しい眼差しを向けます。
大聖堂をはさんで右側と左側では様相を異にすることも。
方や庶民の街筋で、一方は対照的に上流階級の街で、貴族夫人たちが集う街筋となっている。オペラハウス・スカラ座や社交界が集う高級レストランが並ぶ。
その中でも飛び切りの「ヴッフィ・スカラ」にある日、初対面のマリーナ・V公爵夫人から昼食に招待される。



その招待に限らず須賀敦子はいく度か、
ヨーロッパ社会の階層を形成する貴族社会というか、
歴史の厚みみたいなものを思い知る交際も経験する。

50年前といえばヨーロッパで暮らす日本人女性は希少だった。
決して豊かでなかった彼女がどうして、
公爵夫人に昼食に招待される機会が出来たのか。
それは「コルシア書店」にいたからと言えるでしょう。
「街」の章は次のように結ばれている。

「私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。」

そう、この本はコルシア書店にて、知り合った人たちと、その縁で会った人たちへの思い出つづりであり、須賀自身の歴史とも言えるでしょう。
終章は、その歴史に大きな力を与え続けた人への、まさに鎮魂の譜ですね。
「コルシア書店の仲間たち」には、
どのような人々がいたのでしょうか。
次回からその人たちについて知ることにします。

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<2>

2010-12-29 14:13:44 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、イタリアにも、ミラノにも行ったことはありません。
写真はGoogle Earth でみた最近のミラノ中心街です。

前回に続いて「コルシア書店の仲間たち」で綴られている「街」の章から、
須賀敦子のいた時代とミラノについて、知っておきたいと思います。
ときは1960年から71年までの11年間。今から50~40年も前のことです。
そしてときを経て、この「コルシア書店の仲間たち」が書かれたのは91年です。



著者のすべての作品に通じて言えることですが
この20年の歳月が、著者のなかで熟成と純化が繰り返され、
人にも街にも優しい眼差しに満ちた、哀切と郷愁感が、
静寂で透明な文章となって結晶したのでしょう。
須賀敦子は言う。


この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街六番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、……
このパイの部分から外に出ると、空気までが薄いように感じられて、そそくさと、帰ってきたような、……
 いずれにせよ、私のミラノには、まず、書店があって、それから街があった。その街の中心は、まぎれもなく、あの地上に置きわすれられた白いユリの花束をおもわせる、華麗な大聖堂だった。




ある初夏の朝、須賀は20キロほどの郊外の町に行ったとき、
ポプラ林の間にチラッと、大聖堂の光る尖塔を見て、
「あっ、ミラノだ」と心がはずんだことに、小さな衝撃を受けたと書いている。 
 「日本が、東京が、自分の本当の土地だと思い込んでいたのに、大聖堂の尖塔を遠くに確認したことで、ミラノを恋しがっている自分への、それは、新鮮なおどろきでもあった。」

日本に帰って20年、須賀はミラノへの郷愁のうちに過ごす時間が、知的な感懐となって、なんともいえない魅力的な文となっています。
(この項続く)

須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>

2010-12-23 12:47:11 | 須賀敦子の著作

たにしの爺、ブログ更新が一カ月も空いてしまいました。
確かに、関わっているボランティア団体の行事もありましたが、
晩秋から初冬への、季節の速さに置いていかれていました。
それというのも、
前回(11月23日更新)書きました「須賀敦子の著作に出会」ったことにより、
いくつかの作品を読み返していたこともあります。



作品の一編が、一ページが、ゆき過ぎる季節の中で、
金色に輝いているイチョウに出会っているような時間に満ちていました。
須賀敦子のデビュー作は61歳の1990年「ミラノ 霧の風景」でした。
その後、63歳に「コルシア書店の仲間たち」、
そして64歳で「ヴェネツィアの宿」と続きます。

たにしの爺が最初に手にした著作は「コルシア書店の仲間たち」でした。
須賀敦子がイタリアで過ごした生活拠点であった、
コルシア・デイ・セルヴィ書店での6年余、
出会いと別れを中心に、自分と人と街を見つめて、
ご自身の精神文化の形成過程が、
静謐な文章で綴られた12編から成っています。



題名になっている「コルシア書店」とはどんな書店であったのか。
「街」と題された章の冒頭に綴られています。


<コルシア・デイ・セルヴィ書店。イタリア人にとってさえ、ひどく長ったらしいこの名は、じつをいうと、店のあった通りの古い名称である。「セルヴィ修道院まえの大通り」というほどの意味で、十九世紀の文豪、アレッサンドロ・マンゾ-ニの歴史小説「いいなづけ」にも出ている。そのことに気付いた仲間の知恵者、たぶんカミッロあるいはガッティが、これをそっくりもらって書店の名にしたのだった。…中略…
 この通りは、ミラノの都心ではもっとも繁華な道筋のひとつで、大聖堂の後陣にあたる部分から、少し曲がって東北に伸びている。十九世紀後半に達成されたイタリア統一を記念して、「いいなづけ」に出てきたコルシア・デイ・セルヴィという街路名は棄てられ、当時の国王だったヴィットリオ・エマヌエーレ二世の名で呼ばれることになって以来、現在に至るまでその名で親しまれている。私たちの書店は、その通りのなかほどにある、セルヴィ修道院、いまのサン・カルロ教会の、いわば軒をかりたかたちで、ひっそりと店をかまえていた>


これはあくまでも書店の地図的な位置であって、
この書店が、「カトリック左派」の中心拠点として、
どのような人たちによって運営され支えられていて、
著者はどのように関わったのか……
(この項未完)