たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

夢枕獏「神々の山嶺」を読んでいる昨夜、NHKジャーナルでレビュー

2022-08-27 15:37:20 | 本・読書
令和4年8月27日 木々の葉の光や梢を揺らす風。
なんとなく秋の気配になってきた。そんな感じだ。
不思議な事象というか。偶然というか。
昨夜、26日夜、10時半過ぎラジオのスイッチを入れた。

NHKジャーナルの時間だった。
「ブックレビュー」で「神々の山嶺」が話題になっていた。
早稲田大学文学学術院准教授の石岡良治さんが、
夢枕獏作、谷口ジロー作画によるコミック版の、
「神々の山嶺(いただき)」を紹介していた。



フランスでこのコミック本がアニメ化され、
大変評判になっている。日本でも、
映画館で上映されて人気になっているということでした。
予告編



なんとこの本、ちょうど原作を読んでいる最中でした。
夢枕獏さん原作。集英社出版1997年8月10日発行で、
上下2冊になった分厚いボリュームの本です。
映画にもなっています。



エヴェレスト登頂史の謎に挑む二人の男の葛藤と生き様。
「たにしの爺」すでにコミック版も映画も観ています。
ブログにも書いてあります。

山岳映画「エヴェレスト 神々の山嶺」
2016-04-07 20:31:20 | 劇場映画


で、また何で、この本の原作などいま、読んでいるか、
全く心当たりがないんです。
図書館から借り出す、きっかっけは何だったのか。
その読んでいる本が、たまたま聞いたNHK番組で耳に入り、
フランスでアニメ化され、
日本でも公開されているなんて初めて知りました。



下巻にとりついた「たにしの爺」
ボリュウムに圧倒されながらも、
(以下本の読み進行によって追加していきます)

ストイックな孤高の登山家・羽生丈二が挑む。
誰も成し遂げたことがない「冬季エヴェレスト南西壁の単独・無酸素」登頂。
その記録に賭ける山岳カメラマン深町誠。

行方にエヴェレスト雪の岩壁が……。

(30日、追記分、省略あり)
いやになるほど、空が晴れている。
その空に、エヴェレストの、黒い岩峰が刺さっている。
深町は南稜に近い岩の上で、その岩峰をにらみ続けている。
頂上をファインダーの中に入れ、ピントを合わせ三脚を固定した。
ファインダーいっぱいに、イエローバンドから上のエヴェレスト頂上岩壁の威容が入っている。

深町は、何度もファインダーに目をやった。
「いた⁉」
小さな、ゴミのような、赤い点。
頂上直下ウォール。
そこに、羽生の姿があったのだ。
「やめてくれ、引き返せ」
深町は歯を噛んだ。

エヴェレスト南西壁でも、最大級の危険地帯を、羽生は、静かに上へ移動中であったのである。
深町はシャッターを押した。1枚、2枚、3枚……

チベット側の上空に浮かんだ白いものが見えた。
動いている。雲だ。
チベット側から、その雲は吐き出され、頂上岩壁に這い寄ろうとしていた。

「羽生!」逃げろ、深町はファインダーを覗いた。
どこだ。どこにる羽生。
いない。羽生が見えない。

居た。上方の岩壁に動いていた。
頂上まであと、250メートか。
シャッターを押す、押す。

雲が上昇気流に乗って、岩壁を這い上がって登っていく。
羽生に、雲が迫っていく。
羽生よ、逃げろ、上へ。
「羽生!」深町が、唸るようにその名を呼んでシャッターを押した時、羽生の姿は、這い登ってくる雲に包まれて消えていた。
エヴェレストの頂そのものが、すべて雲の包まれて見えなくなっていた。



(9月2日、追記分、ストーリの概略です)
1993年12月18日10時36分、
深町のカメラのファインダーで捉えた羽生は、
エヴェレスト南西壁イエローバンドの上方登頂直下の壁で動いていた。
その時、上がってきた雲が羽生を隠してしまった。

それから2年後の1995年11月10日10時28分。
エヴェレスト登頂を果たし、深町は8100メートルまで下りてきた。
霧の中を、雪が疾っている。
ルートを見失っているようだった。
7069メートルのノース・コールのベースキャンプまで下りなければ死だ。

風も、雪も止まなかった。
どれだけ歩いたか。方向も時間の感覚もなくなった。

岩陰に、ほんの狭い空間にふたつの人影が見えた。
羽生っ!!羽生がうずくまっていた。
隣にマルローが凍っていた。
・・・・・・・・
……………………………………………………………………………………
9月2日、夢枕獏「神々の山領」上下巻970ページ余りを読み終えた。
エヴェレスト初登頂をめぐる伝説をベースに、
孤高の登山家・羽生丈二の軌跡を追う、
山岳カメラマン深町誠の圧巻の記録が深い。
山岳ミステリーの醍醐味を味わい、読み切りました。
氷壁を寸刻みに登攀してゆく描写がすごい。

安部公房「砂の女」を読んだ。爺の「夏休み読書感想文」です

2022-08-13 15:29:52 | 本・読書
令和4年8月13日 久しぶりに硬派な小説を読みました。
新潮日本文学46 安部公房集「砂の女」
--罪がなければ、逃げる楽しみもない。



8ポイント活字で2段組、文字がぎっしり詰まった本。
小さな文字を一日3、4ページづつ「ハズキルーペ」と、
エッシェンバッハ光学の「ワークルーペ」を併用し読みました。
眼が疲れました。20日は眼科に行く日です。





何で、今、安部公房「砂の女」を読む気になったのか、
6月ごろ、NHKラジオ、高橋源一郎の「飛ぶ教室」で、
漫画家・文章家のヤマザキマリさんとの「読書会」を聞いて、
思い出したので、図書館から借り出した。


 
こんな書き出しで始まる。――

八月のある日、男が一人、行方不明になった。
休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出かけたきり、
消息をたってしまったのだ。
捜査願いも、新聞広告も、すべて無駄に終わった。



7年たち、民法第三十条によって、死亡の認定となった。
 
男は学校の先生で昆虫採集を趣味としていた。
砂地に住む希少種の新種発見が願望であった。
彼は双翅目蝿の仲間の変種に目をつけていた。
黄色い前足のニワハンミョウ採集に傾注した。
鞘翅目ハンミョウ族は砂地に住む昆虫だった。
 
彼は砂浜海岸を歩いているうちに、
砂の斜面を掘り下げた、
くぼみの中に沈んだ家が点在する集落に足を踏み入れていた。

夕暮れが近づいていた。
漁師らしい老人の案内で、一夜の宿を紹介された。
「縄ばしご」で砂の斜面を下りるような穴の底に、
半分砂に埋まりかけたような家だった。
30前後の女が出迎えた。
 
一夜明けて男は、砂底の家からは出られない。
「縄ばしご」は引き上げられてしまっていた。
 
毎日、流れてくる砂を掻きだし、
モッコで引き上げてもらわないと、
埋まってしまうような穴の底で、女と暮らすことになった。
 
女は男の身辺に気遣ってくれているようだったが、
一日の大半は砂の掻きだしと砂の搬出に精を出していた。
水はモッコの砂と引き換えだった

砂は流体。空気のように体中、口の中まで積もる。
女は夜、砂の積もった裸体で床に伏して寝ている。
男は体に自制できない何かが動き出すのを感じた。

男と女の営み、男の官能を通じて何ページも続く。
 
砂の壁から出られない男は不条理な境遇を呪った。
自由だった世界に戻りたい、幾度か脱出を試みた。
「底なしの流砂地獄」に嵌って、徒労に終わった。
村人たちに助けられて穴の家に戻されてしまった。
 
 「失敗したよ……」
 「はい……」
 「まったく、あっさり、失敗してしまったもんだな。」
 「でも、巧くいった人なんて、いないんですよ……まだ、いっぺんも……」
 
 女は、うるんだ声で、しかし、まるで男の失敗を弁護するような、力がこめられている。
 なんていうみじめなやさしさだろう。このやさしさが、酬いられないのでは、あまりに不公平すぎはしまいか?
 
 「納得がいかなかったんだ……」
 「……このまま暮らしていってそれでどうなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……」
 「洗いましょう……」はげますように女が言った。
  
ギクシャクしていた女との関係も、
いつしか馴染める関係になっていた。
流れてくる砂を掻き、モッコで引き上げることや、
生活労働が二人の共同作業になっていた。
 
男が外界との連絡を取る手段に、
鴉の脚に手紙をつける作戦を思い立った。
鴉を捕獲しようと仕掛けた穴の桶に、
ある日、「水が貯留」しているのを発見した。

女が妊娠した。
街の病院に入院するため「縄ばしご」が下ろされ、
女はオート三輪で連れ去られた。
 
男は残されていた「縄ばしご」をゆっくり上った。
久しぶりに外界を眺めた。海が見えた。
空は黄色く汚れていた。
海も黄色くにごっていた。
深呼吸したがざらつくばかりだった。
穴の底で、何かが動いた。自分の影だった。
 
桶の底に溜まっていた水は、切れるように、冷たかった。
べつに、あわてて逃げ出したりする必要はないのだ。
溜水装置のことを、村人に話したいと思いはじめた。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。

ここも悪くないな~なんて思い始める…… 
以上が、小説のストーリーの概略です。


  
いま「砂の女」読んでみれば、
この小説が発表された1962年の時代状況とは、
「砂穴の壁」が様々な意味を持って感じられる。
 
貧富、上流民、下流民、正規、非正規、ジェンダー……
社会に張りめぐされた既得支配「エスタブリッシュメント」
金子みすゞ「見えないけれど、あるんだよ」的な壁です。



ところで、ヤマザキマリさん、テレビ、ラジオに、
著作にと、すごい活躍(?)ぶりです。それに話が面白い。
「壁とともに生きる わたしと「安部公房」とか、
「100分de名著」テキスト(NHK出版)など
書店に平積みで並んでいます。

たにしの爺は、ときどき立ち読みでページをめくっています。
たにしの爺にとって、「歳、年齢」が越えられない壁です。

夏休みの課題「読書感想文」のつもりです。
膝の痛みは、なかなか良くならないが、
頭の方は、なかなか大丈夫のようです。
困ったものだ。

女の子の「お仕事小説」?/?--米村圭伍著「退屈姫君伝」

2022-07-19 11:29:28 | 本・読書
令和4年7月19日 「梅雨曇り」みたいな日が続いている。
徘徊の途中に降られて、安いスニーカーが「グチャグチャ」。
グチグチ言いながら鬱陶しい。4回目のワクチンも済んだ。

久しぶりに綴る「乱読徘徊」本読み妄想レビューです。
若い女の子の「お仕事小説」に嵌っていると、前に書きました。
坂本司「和菓子のアン」、瀬尾まいこ「天国はまだ遠く」、
近藤史恵の「たまごの旅人」の3冊を紹介しました。

今回は異色です。米村圭伍著「退屈姫君伝」です。
徘徊途中「退屈しのぎ」に図書館で見つけました。
作者・米村さん「解説入り」ストーリー小説です。
講談本というか、落語本というか、お色気ありで、
「大型活字本」で爺好みに大変、面白かったです。



江戸時代「お姫様」の探偵ごっこお遊びを「女の子のお仕事」小説とか、
なんかに見立てたら、読んだ方々は「なんだ、それっ!」大笑いですね。
たにしの爺が「本読み徘徊」で勝手に刷り込んだ妄想です。

前の3作品は現代が舞台の小説でした。
「退屈姫君伝」--ときは江戸時代です。
「女の子」は幼くして嫁いだ「めだか姫」です。

大藩・陸奥磐内藩五十万石西条綱道の末娘・めだか姫は、
父の命で、四国讃岐の小藩・風見藩二万五千石の藩主、
時羽直重のもとに輿入れして3ヵ月余りです。
夫の直重が国許の讃岐に戻ることになります。
若妻・めだか姫は江戸藩邸に残って留守役になった…。



五十万石の大藩から小藩へ少女で「嫁いだ」めだか姫、
家禄違いの暮らし振りギャップに戸惑ったり、
藩邸を取り巻く不思議や家中の系譜の謎を、
「退屈しのぎ」に嗅ぎ回るというお話です。

ところがとんでもない難儀を「嗅ぎつけ」ます。
「姫の嫁いだ小藩」を潰そうとしている首魁は、
なんと、あの老中「田沼意次」一派なのでした。

若い姫君夫人が、国許に帰参中の主「お殿様」のために、
無役で居候の義弟や「お庭番」「くノ一」ら助っ人と、
嫁ぎ先の「小藩」の窮地を救うストーリーです。



これまで読んできた硬い「時代小説」と全く異色の、
下ネタ混じりの痛快お気楽ユーモア時代小説でした。
「留守藩邸を守った」女の子の見事な、
「お仕事小説」だということにしました。

雨と暑さしのぎに、だらっと駄文を綴りました。
いやー、本は「耄碌した」頭の栄養になる。
ところで、ワクチン4回目を済ませたが、
全くなんーにも、副作用が感じなかった。
ワクチン効いているのかな??

「ロシア文学」研究者、奈倉有里さんの本を読んだ

2022-06-10 17:18:48 | 本・読書
令和4年6月10日 「夕暮れに夜明けの歌を」
文学を探しにロシアに行く-奈倉有里さん著。
文豪レフ・トルストイの国で出会ったリアル。



大活字で過去の小説集を「読歴徘徊」している「たにしの爺」
久しぶりに最新刊の「小さい字」の本を2週間かけて読んだ。
「読んだら、何か書いてみる」のが84歳の「ボケ防止」です。
それで、1週間かけて迷文?で「読書感想文」を書いてみた。



なぜ、この本を読む気になったのかというと、
NHKR1で毎週金曜の夜9時5分から放送している、
高橋源一郎センセイがやっている「飛ぶ教室」という、
「読書会」みたいな番組を聴いたからです。



4月22日に取り上げられた本が「夕暮れに夜明けの歌を」でした。
高橋センセイが「グスン」と鼻をすすりながら読んだ箇所がありました。
礒野佑子アシスタントアナが「涙声でしたね」と応えました。



で、課題の『夕暮れに夜明けの歌を』の本は、
いつもの道野辺徘徊の途中に立ち寄る公民館、
併設市図書館の分室で取り寄せていただいた。
2週間ほど経って手に取ることができました。



県内でしたが、かなり離れた市立図書館の蔵書印がありました。
私が最初の読者のような、誰もめくったことがない感じでした。
担当司書さん、お手数をおかけしました。取り寄せありがとう。

肝心の本のレビュー(?)に入る前に、
ぐだぐだ前書きが長くなってしまった。

とてつもなく中身の濃い、自伝エッセー小説とも言うべきか。
「言語の憂愁」に満ちたロシア文学研究者の留学記録でした。





作者の奈倉有里さんは20歳の冬、
マイナス26度のロシア・ペテルブルグ空港にに辿り着いた。
ペテルブルグ大学の語学学校に通う寮生活が始まった。

寮で同室になったぺテルブルグ大学のユーリャが、
ロシアでの最初の友だちになった。
彼女から「言語」を通じてさまざまな、
ロシアでの考え方や暮らし方を学んでゆくのでした。
学校と図書館通いでロシア語漬けの生活を続ける。

奈倉さんはロシアで学究生活を通じて、
大学で、教室で、出合う先生、寮生活で、
さまざまな体験を通じてロシアを体感します。
とくに二人の先生には多大な深い影響を受け、
学究生活の礎になるのでした。

最初の語学学校では、
エレーナ先生の「文学精読」授業が好きになり夢中になってゆく、
個人授業を受ける幸運にも恵まれ、
文学の喜びを知る「言葉の魔法」をかけられてしまう。

エレーナ先生が個人授業中に、
「窓の外には雪が降って、鳥がとまっていたことも、
あなたは絶対に忘れないわ」の一言が、永遠に忘れられない瞬間になった。
エレーナ先生と読んだアレクサンドル・ブロークの詩が、
作者のロシア文学研究の「道しるべ」になった。

  僕は喜びに 向かっていた
  道は夕闇の露を 赤く照らし
  心のなか 息を呑み 歌っていた
  遠い声が 夜明けの歌を……
  心は燃え 声は歌った
  夕暮れに 夜明けの音を響かせながら……
 
本書の表題になっている詩です。
進路の相談で、エレーナ先生から薦められたのが、
モスクワの「ロシア国立ゴーリキー文学大学」だった。
 
モスクワでの大学と研究生活は文字通り、
ロシア文学、詩韻に没頭する日常になった。
「日本からきて勉強しかしない子」という評価が大学中に知れわたる。

ソ連邦崩壊後のロシアを…、
中央集権の強権国家の深い闇を…、
「言語をもって」「身をもって」「知をもって」知ることになります。
ウクライナの今日的状況はすでに内在していた。

文学大学での講義に魅せられていく中で、
もう一人の先生、とんでもない先生に出会う。
アレクセイ・アントーノフ先生です。

「酔いどれ先生の文学研究入門」の章です。
先生は寮に住んでいて、大学構内でしょちゅう酒を飲んで酩酊している。
ところが授業になると顔貌が変わり、別人になる。
講義内容の深さはもちろん、
「先生が話をはじめると、すうーっと教壇に気配を吸いとられるように透明になる。
まるで劇場の幕があがる瞬間だった。
魅了される観客と化した学生は、息を呑んで前を見つめる」

作者は講義をすべてノートに残すべく必死にノートを取る。
「すべての瞬間を心に留めよう」
アントーノフ先生の出会いが、
「ロシア文学研究」の指針になるのだった。

そして先生への想いが、最終章「大切な内緒話」で吐露される。
アントノーフ先生の「批評史」で学んだ研究レポート提出した。
先生は、ほかの生徒には普通にレポートを返してくれたが、
奈倉さんは別の日に呼び出され、
二人だけの教室に入り、先生は鍵を掛けてしまった。

レポートについてまるで、研究者同士のように、
検証と評価を時を忘れて述べるのでした。うれしかった。
先生は不意に、泣きそうな声で「あなたはすぐに発ってしまうんですか」と訊いた。
なんだ。これはいったい、なにが起こっているんだ。
急に胸が苦しくなる。私たちはずいぶんそのまま黙っていた。
「あなたのご活躍を祈っています」とかすれ声で告げて、鍵を開けて外に出してくれた。



「飛ぶ教室」で高橋源一郎センセイが、「グスン」と鼻をすすったのは、
このあたりを読んだときでした。
「聴き逃し」を何回も聴きながら、概要を抜書きしてみました。

高橋センセイ曰く「先生は奈倉さんのこと好きだったと思います。
それでもっと大事なのは、彼女が向かっているものは、
自分が向かっているものでもあったんですね。
それを傷つけることだけは絶対できないと。
教師の愛情っていうのはそういうもんだと思うんです。」

図書館の本には「ブックカバー」が付いていません。
版元のHPでカバーに付けられたのコピーを見ました。
「分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を求めて。
まさに「文学の役割」を今日的なロシア状況の中で問いかけます。

本書にも記述されていますが、
この時期、トルストイのこの名言を
世界は、改めて肝に銘じることだと思った。

「言葉は偉大だ。なぜなら言葉は人と人をつなぐこともできれば、人と人を分断することもできるからだ。言葉は愛のためにも使え、敵意と憎しみのためにも使えるからだ。人と人を分断するような言葉には注意しなさい」レフ・トルストイ


上記の写真は版元の株式会社イースト・プレスのHPから。

長々とお疲れさんでした。
最後まで読んでくださった来訪者の皆さん、
ありがとう。
「たにしの爺」徘徊綴り方でした。

3冊目の女の子の小説です。近藤史恵著「たまごの旅人」

2022-04-29 10:51:35 | 本・読書
令和4年4月29日 今日は祝日「昭和の日です」
明日で一年の3分の1が終わります。
若い女の子の「お仕事小説」に嵌っている。



「和菓子のアン」坂本司著、
「天国はまだ遠く」瀬尾まいこ著に続いて、
近藤史恵著「たまごの旅人」(実業之日本社)です。

堀田遥さん。海外旅行の派遣添乗員です。
中学生のとき、両親と台湾旅行に行った。
そのときの添乗員さんの「素敵さ」に魅入られてしまった。



本人は、旅が好きだと思っていた。
「好き」なことを「仕事」にしたら、
こんなに楽しいことはないと思っていた。

スペイン語習得のため「アルゼンチン」にも留学した。
身分は「派遣」であったが、念願かなって、
「海外旅行添乗員」の職に就くことができた。



研修を終え最初の添乗は、
「アイスランドのオーロラ見物」になった。
2回目は「クロアチア、スロベニア9日間」

本書によると、スロベニアには、
「日本人98%が行かない国」というデータがあるという。
「たにしの爺」そんな記録があるなんて、全く知らない。

爺が今後、ヨーロッパに行くなら、
最も行きたいのはこの2国、思いを募らせながら、もう、
行くこともないだろう幻の国になっている。
「アドリア海」の陽光を浴びたい。

遥かさんが添乗業務をこなしながら、
スロベニアの首都・リュブリャナの風景、旧市街の佇まい。
ブレッド瑚、ボストナイ鍾乳洞見学などの記述は、
羨ましくも参考になりました。

次はフランスは「パリ」。
参加者、それぞれパリに描く想いは様々であったが、
現実に見たリアルなパリのギャップに戸惑うのだった。

そして、中国「西安・北京」にも行った。
ツアー一行の荷物が「ロストバゲッジ」で、
行方不明になってしまった。
荷物は無事に戻って「頤和園」「万里の長城」見学をした。



新米添乗員としては、かなりな、
ハードなスケジュールをこなした半年でした。
ツアーのお客さんには、「厄介な困った人」が必ず居ます。

わがままな人、同行者となじめない人、頼りたがる人、
体調を崩す人、なにかと不満顔をする人、身勝手な人、
「好きな仕事」に就いたはずだったが、滅入ることも多々であった。
遥さんは、そんなお客さんに寄り添い、健気に応えていくのでした。

そして最終章「沖縄のキツネ」
コロナ禍、旅行業界は「死の海」状態になってしまった。
派遣添乗員は真っ先に「お払い箱」です。

遥さんは、実家にも居にくくなって、
沖縄の寂しい海岸べりの寮で「缶詰状態」暮らし。
「コールセンター」のバイトに就いて、
糊口を凌ぐ羽目になったのでした。

看護師をしている幼馴染で親友の千雪さん。
添乗業務中にはスマホで「近況報告」をし合っていました。
そして、石垣島出身で東京で劇団研究生をしていたが、
帰ってきていた女の子、美鈴さんと知り合いになった。

遥さん、街に立って、スマホの画面に話しかける
「千雪見ている」「凄くきれいね」
チャットも入ってきた。
次に美鈴さんが「こちら竹富島です」
旅に出られない人たちに、リモートで動画配信プレゼント。
新しい旅行形態を予感させたエピローグでした。

「大型連休」が始まっている。
リアル旅行者が日本中に溢れていることでしょう。
コロナ分科会はGW後の感染急拡大に「要注意」。 

感染も。事故も。自己責任です。ご用心ください。
ご近所徘徊、図書館の本で「妄想旅行」が安全です。
読み終えたら、感想文の「綴り方教室」で痴呆予防です。

追記ーーきょう4月30日は「図書館記念日」
NHKの朝のラジオで30日は「図書館記念日」だと知りました。
そのような記念日があることを初めて知りました。
徘徊途中の公民館に併設の市図書館の分館は休憩に立ち寄り、
新聞、週刊誌で時間をつぶします。
大型活字の本を借り出したり、読みたい本を取り寄せたりしています。
感謝しています。ありがとう。

女の子の小説は癒し、瀬尾まいこ著「天国はまだ遠く」

2022-04-11 12:03:02 | 本・読書
令和4年4月11日 知らなかった作家に出会いました。
大型活字の図書館本で瀬尾まいこ著「天国はまだ遠く」
世はまさに春。木々は芽吹き、萌えのグラデーション。

女の子が主人公の「和菓子のアン」(坂本司著)に続いて、
「天国はまだ遠く」(瀬尾まいこ著)を読みました。
「仕事に疲れて死にたい」女の子の旅路の果てに…。



主人公は「山田千鶴、23歳」保険の外交をやっている。
自分でも適職だと思って就職してみたが、
ぜんぜん契約が取れない。

上司には責められるし、周囲の人間にも嫌味を言われるし、
いつもノルマに追われて……苦しかった。
死にたいと思うようになっていた。

処方されていた睡眠薬を溜めて、死に場所を求めて、汽車に乗った。
タクシーを乗り継いで、着いた先は、丹後半島らしい、
「海と山の見える」半魚業農村の一軒民宿「たむら」。
一夜の宿を取って、身奇麗にして、睡眠薬を十粒飲み下し、床に入った。
すとんと眠りに落ちた。

ドアをたたく音がした。
「飯ができたけど、どうする、今日は食べるやろ?」
男の声がした。

目覚めは爽快だった。
爽やかな朝。窓越しに太陽がまぶしい。
こんな清清しい朝を迎えるは最近なかった。

千鶴は丸一日、32時間、「死んだように」眠っていた、と聞かされた。
千鶴は「死ねなかった」のです。
千鶴はその朝から、ちょっとむさくるしいけれど気さくで、
民宿「たむら」の爽やかな青年と3週間暮らすことになる。

20分も歩けば一回りできるような山に囲まれ海に面した集落。
出会う人たちとの交流や、民宿青年の生活に接していく感動。
千鶴が「文字通り生き返っていく」。
千鶴の心が、ここで生きていくことに馴染んでいった……
民宿の青年とも、いい関係……

「でも…、ここには自分の居場所がない」千鶴は旅立ちます。

民宿「たむら」の青年は、三途の川の渡しを守る「閻魔大王様」でした。
「千鶴さん、キミがここに来るのは、早すぎますよ」なんてね。



「たにしの爺」がこれまで好んで来た小説分野とは異質で、
お手軽に読めて、暇つぶしに格好な読み物だと知りました。
「文豪小説」との軽重の云々かんぬんいう気はありません。

「暇つぶしに、お手軽に読めて」なんて言い方も、
作者には失礼な言い方かもしれませんが、
若い世代に支持されている人気作家さんだと知りました。
「読ませる筆力」は大変なのもだと評価しています。
何せ、半日で一気に読んでしまったほど、面白かったです。

「女の子」という言い方も、最近のジェンダー風潮からは、
「禁句」なのかどうか、気になるところですが、
84歳になる「徘徊爺」ですからご容赦ください。

「死にたいと思う」重いテーマの小説でしたが、
「生きたいと思う」再生していく過程が納得できて、
恍惚の徘徊爺も「読んで良かった」一冊でした。

こういう本のレビューを「ネタバレバレ」で書いていると、
老耄の脳細胞が、生き生きと再生してくる感じになります。

「和菓子のアン」女の子の物語に魅せられ、桜餅を買った。

2022-03-28 09:45:18 | 本・読書
令和4年3月28日 サクラ開花が一気にきましたね。
通院帰りに、デパ地下で「桜餅」を買ってきました。
創業享和3年だという京都の菓匠「鶴屋吉信」謹製。



塩漬けした柔らかい桜葉の塩味とアンの甘みが、
口中で溶け合って「桜花のシンフォニー」です。
「たにしの爺」柄にもなく生和菓子に舌つづみ。



花はまだ二分どころなり桜餅 富安風生
紙箱の底の湿れる桜餅    岸本葉子





坂本司著「和菓子のアン」という本を読みました。 
まったく知らなかった作者です。覆面作家だという。
とっても面白く、未知な世界に触れる本に出会いました。



爺の楽しみは、大型活字本でストレスなく読める、
「武士もの」「戦国戦記」「剣豪小説」「江戸もの」で、
池波正太郎、藤沢周平さんらの大型活字の「時代小説」です。
図書館の書棚には、それほど冊数は揃ってなく読みつくしました。

これまで手に取らなかった、未知の作家さんの本を借りました。
「武家、時代小説」とまったく違う「面白さを堪能」しました。
ちょっとミステリアスな隠し味もする「和菓子」の「壷」です。
「女の子」のお仕事物語でした。



主人公は18歳の梅本杏子(本人は嫌だけどアンちゃんと呼ばれる)、
というのは、ふくよかぽっちゃり体型で、お洒落には目をつぶって、
高校は卒業したけれど勉強は好きでもないし好きな仕事も特にない。
就職活動にも積極的になれないで、もやもやしていた。



そんなある日、東京のデパ地下を徘徊(オット徘徊は爺散歩だ)。
高卒したばかりの女の子は徘徊などしない。
うろついていたら、目に入ったのが、和菓子さんの出店ブース。
アルバイト募集の張り紙が目についた。意を決して面接を受けたら、
採用されて、デパ地下の「和菓子店」の売り子に納まったのでした。



和菓子の知識など全くない杏子ちゃん。店長さんや先輩バイト、
菓子職人を目指す同僚の助けを借りたり、お客さんと接して、
和菓子の名前をめぐる謂われなど、「和菓子の壺」に触れて、
「和菓子の売り子」としての知識を蓄積していきます。



周辺の総菜屋さんなど、多彩な出店に関心を持ったり、
お客には見えないバックヤードで展開される仕来りや、
社員食堂、休憩タイム、売り子友だちが出来たりして、
ミステリアスな「デパ地下」の迷宮にも染まっていく。



この本に出会って、「たにしの爺」は和菓子の奥深さを知りました。
和菓子の種類、名称、モチーフ、味わい、秘めた季節のメッセージ。
作者が語る「和菓子の味わい」レポが凄い。例えば、
「未開紅」と名付けられた和菓子の味を、こんな風にレポする。

……外側は、普通の練り切り、
次に来るのが梅酒を練り込んだような甘酸っぱい練り切り。
そして最後に流れ出てすべてを包みこっむのは、蜂蜜の甘い香り。
こういうのって官能的とかセクシーって表現するのだろうな……

……外から味が始まって、真ん中でぐるりと味がひっくり返される。
そして今度は中からの味で外の味を包み込む。
甘くて朴訥な味の練り切りに包まれた、少しのお酒と蜂蜜の香り。
花が開くように溢れ出てくる鮮やかな味は、
まさに大人になりかけている女の子のイメージそのもの……。



こんなフレーズもあります。
喜びも、悲しみも「和菓子は人生の様々な局面に寄り添う」……

18歳の女の子の成長と和菓子めぐる人生模様の物語でした。
たにしの爺が「桜餅」を買った訳は「和菓子のアン」です。

安部公房は読書について、
「本を読むということは、眼鏡を取り換えるようなものだ」と言っています。
名言ですね。知らない世界が見えてくる。



妖怪・モノノケがぞろぞろ――小学館文庫 モノノケ大合戦

2021-12-22 09:55:21 | 本・読書
令和3年12月22日 今日は二十四節気「冬至」です。
一年で一番、夜明けが晩く、入日が早い。昼が短い。
今年の後半から「妖怪変化」本に憑りつかれました。

まず村上元三の「変化もの三部作」でした。
公民館の図書室から借り出した時代小説シリーズ。
リブリオ出版「ポピュラー時代小説全15巻」のうち、
第5巻「村上元三集」に収められている三作品です。

大型活字でまとめて読めて面白かった。
いずれもブログにレビューをアップしました。
①河童将軍(2021-10-19)②天狗田楽(2021-10-30 )③貉と奥平久兵衛(2021-11-10 )

「モノノケ・妖怪」に嵌って次に手にしたのは下に表出の本です。



妖怪文藝 巻之1 小学館文庫、東雅夫編「 モノノケ大合戦」
図書室にはなく、他市の図書館から取り寄せていただいた。
係りの職員様、お手数をおかけしました。



「妖怪、物の怪」物語を集めた選集です。
前半は編者の東雅夫と京極夏彦との対談、
「書物の海から妖怪世界へ」
柳田國男の世界、水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」など中心に、
文豪の作品から現代作家までで「蘊蓄」が語られています。

特集は「モノノケ大合戦」の5作品。
 南條範夫「月は沈みぬ」(ブログでレビュー2021-12-17)
 村上元三「河童将軍」(前出)

 藤原審爾「妖恋魔譚」
山間の僻村に住み着いた流れ者母娘、実は女郎蜘蛛の妖怪だった。
甲斐甲斐しく母に仕える娘に惚れた村長の子息。
求婚し愛し合う、全身が蕩ける絶頂エクスタシー。



母娘の妖しさに気付いた村の修行者。
正体を現した毒蜘蛛母娘と村を挙げてのバトル。
蜘蛛妖怪の娘と純情青年の愛の行方は?

 石川淳「狐の生肝」
春はまぢかといっても、冷えきった夜の底に、星くずの影さえ掠めず、ただ闇、くろぐろと涯なく、もののけはいは絶えて、あたりに人家ありともおぼえないのに、ふっと、ひとのかたちの、二つ三つ五つとつづいて、見るまに十いくつ、そこの草むらに…いや、かたちほの白く浮き出たところが草むらと知れた。



王子稲荷の境内で王子の狐たちの寄り合いが始まった。
伏見稲荷や穴守、笠森の狐らも招かれた。
テーマは江戸市中で流行っている疱瘡の治療薬に、
丹波篠山藩の藩医・柚木桃庵の秘薬として、
狐の生肝を差し出せというお達しに対する対策作戦でした。
桃庵対王子狐の棟梁十郎狐との対決(討論)が火花を散らす。
バトルは意外な結末に導かれて終幕へと……

さすが石川淳、名文の一級文学作品だった。
江戸の狐たちの狐知と人間知の競い合い。
人間になりたかった狐のカップルの末裔は?
意外なファイナルストリー、幕末の著名人が登場します。



 稲垣足穂「荒譚」
タルホ作品のエッセンス。

そして、「文藝妖怪名鑑」です。
古今の妖怪見本市ともいうような、
ダイジェストが知識になりました。



入澤康夫「牛を殺すこと」
土屋北彦「川姫」
龍膽寺旻「小豆洗い」
谷崎潤一郎「覚海上人天狗になる事」
水木しげる「ぬらりひょん」



小田仁二郎「からかさ神」
別役実「すなかけばば」
石川鴻斎「轆轤首」(小倉斉訳)
今江祥智「雪女」
野上豊一郎編「猩猩」
京極夏彦「豆腐小僧」
 妖怪というと、怖いとか恐怖感が語られますが、
とても人間臭い存在ででした。
それというのも要は「妖怪」とは、
人間の深層心理に潜む妬みや恨み、憧れが、
「変化」した姿として日常の隙間に現れた、
影絵のようなものではないでしょうか、
という感じです。

 最後まで拙い妖怪譚をつき合わせまして、
お疲れさんでした。

人魚姫に魅せられた妖怪たちの恋模様――、南條範夫「月は沈みぬ」

2021-12-17 17:24:33 | 本・読書
令和3年12月17日 明け方から時雨模様でしたが……
昼近くから陽ざしが差し始めました。
オミクロン株、市中に出始めたようですね。

最近読んだ「妖怪譚」についてレビューします。
好奇高齢者のボケ防止は「綴り方」です。
例によって、ネタバレバレの長文です。



「月は沈みぬ――越国妖怪譚」南條範夫
妖怪文藝巻之1、小学館文庫 モノノケ大合戦に所集
著者は「武士道」ものに名作を残す時代小説の大家です。



越後国黒姫山の中腹、仙人崖で質屋を開いているガマ仙人。
喘息持ちで「げーっ、げーっ、ぐっわッ、ぐっわッ」と、
質草を値切るとき叫ぶのが癖になっている。

鉾ヶ岳に棲む太郎天狗が来て、
命から二番目に大事な背中の両の翼を質草に、
80両貸してくとせがむが、ガマ仙人はツレナイ扱い。
太郎天狗これまでにも、
「破れかけた笈、毛の落ちた棕櫚団扇」を質草に、
金を借りたが、利子が払えず質流れになっている。

老獪なガマ仙人、難癖をつけて20両に値切ってしまう。
笈も団扇も両翼もない「みすぼらしい」姿になった太郎天狗、
「くそ仙人、因業爺め」など悪態をついて引き上げる。

太郎天狗が帰ると入れ違いに、放れ山のガゴジ鬼がやってきた。
髪が火の如く赤く、眼が碧い色をして、九尺余の全身が真蒼。
ガゴジも腰に巻いていた虎の皮を外して「10両貸せ」と迫る。
15両で質入れした鉄棒を失くした鬼にとっては、最後の一物だった。

ガマ仙人とガゴジ鬼が言い合いしている洞穴の上の岩から、
山姥が首を出して怒鳴った。
「二股大蛇と蜃(みずち、蛟竜ノ一族、気ヲ吐イテ蜃気楼ヲ作ルト言フ)が大喧嘩して、
淵の中で暴れ回っている。止めてやってくれ。」

「喧嘩の素は何だ。」
「みずちが貯めておいた燕の子を、おろちが食ってしまったと言うのじゃ」
「何だそんなことか」
「みずちがこれまで見たこともない喜見城(蜃気楼)を吐き出して、人魚姫に見せたいと、
食うや飲まずで貯めておいた燕の子を食ってしまったと言うのじゃ。
おろちめが燕の子を食えば、己も蜃気楼を吐き出せると、盗み食いしてしまった」と言うのじゃ。

ガマ仙人「人魚姫以来、みんな気が変になってしまった」ようだ。ぐぇッぐぇッ。
問題の人魚姫が現れたのは、三ヶ月ほど前の満月の夜だった。
西頚城の山仲間の例会で、青海の浜、親不知近くの入り江のほとりで一同、
集まって祝宴を開いて、飲めや歌え、踊り騒いでいた。

太郎天狗も立派な山伏姿で、両の翼も、棕櫚の団扇を持っていた。
ガゴジ鬼も鉄棒を横たえ、本物の虎の皮をしめていた。
ガマ仙人も鳥の皮を内剥にした夜会服を着ていた。
二股おろちは、双頭を機嫌よく振って、酒臭い息を吐き出していた。
みずちも、紅の鬣を美しく垂れ、腰から下の鱗を逆立てて、ほおずきのような腹を見せていた。

一同、盛り上がって、泳ぎだすものも居たが、満月が彼らの頭上にきたころ。
一番の耳さとい鬼が「やッ」と叫んだ。
「妙なーー歌声のようなものが聞こえるぞ」
耳を澄ますと、沖のほうから、可憐な、優しい歌声が、潮騒の合間に、波の上に聞こえてきた。



波間に月の光を受けて輝く異形なものが身体をくねらせたとき、
ほんの一瞬だが、はっきり見えた。「あっッ、人魚だ」
宴会に招じ入れた人魚姫を囲んで一同、
それぞれの得意技を披露して、夢心地のひと時を過ごしたのでした。

その夜以来、天狗の、鬼の、おろちの、みずちの、仙人の、
心の中に、煩悩の焔が、かっかっと燃え出していたのです。
妖怪たちの「恋狂いです」

全く、あの夜以来、どいつもこいつも、少々変になった。
片割月の夜も、まして満月の夜も、皆そわそわ浜辺に集まってくる。
人魚姫が現れて、ひばりの囀りのような歌を聞き、楽しい夜を過ごしていた。
幾夜かの後、皆に切迫した空気が感じられるようになった。
お互い恋敵になっていたのである。

それぞれ皆、得意な技で人魚姫の関心を惹こうと仕掛けてみた。
だが、誰も恋に成功することはできないでいた。
人魚姫の関心を得ることができないでいた。
仙人が思い切って、結婚を申し込んでみた。
これを知った他の者たちも結婚を申し込んだ。

人魚姫「ありがとうございます。でも、
一度に皆さんのお嫁さんにはなれませんわ。
よく考えて、この次の満月の夜、お返事しますわ」と、
恥じらいをふくんだ艶麗な瞳を伏せたのでした。

約束の夜が来た。
一同は希望に胸を膨らませて浜に集まっていた。
花婿になるには一同の風体姿は、
何ともみすぼらしいものになっていた。
質屋のガマ仙人に妖怪たる身包みを質入れして、
手にした金で買い求めたプレゼントを持っていた。

沖のほうから人魚姫の悲鳴に似た声を聞いた。
人魚姫の姿が月光の下、波間に浮き沈みしながら見えてきた。
ピーッ、ピーッと悲鳴を上げながら浜辺の砂に横たわった。

「姫よ、どうした」
「海坊主に追われているのです。助けて下さい」
「前から、妻になれと言い寄られていたのです」
「助けてくださるお方のお嫁になります」と、
人魚姫は哀願するのでした。

「ぴゅーん、ぴゅーん」
大ダコのうなるような響きが浜辺に鳴りわたった。
12本の長い足を震わせながら浜に上がってきた。

大ダコ海坊主、
浜辺では怪物の海坊主と人魚姫の夫を目指して、
妖怪たちはそれぞれの妖怪武器を持って闘った、
と言っても、
武器は質に入れてしまって妖怪術は無力だった。

鼻を折られた天狗と、
腰の抜けた鬼と、
頭を一つ砕かれたおろちと、
腹に大火傷した仙人と、
幻を破られたみずちとーー

みんな一様に、ぽろぽろと涙をこぼしながら、
月が沈んで海も空も、次第に蒼白く静まってゆく海辺に、
いつ迄もいつ迄も、沖を眺めて立っているのでした。

美しい人魚姫を巡って、恋に落ちた妖怪たち、
自らの妖怪術のパワーを源泉になる備品を質に入れ、
プレゼントを揃えて伴侶になる時を待っていた。
そこに強敵ライバル・海坊主が現れ闘いになる。
物ぐるしい妖怪たちも「恋の悲しみ」は切ない。

「武士道とは死ぬことなり」
悲劇的な武士の生きざまを描く南條範夫の作品群。
全く異質な作品があることを初めて知りました。

村上元三「貉と奥平久兵衛」狸の皮を借りた出世譚の末路……

2021-11-10 10:00:02 | 本・読書

令和3年11月10日 秋日の陽射しは影が伸びるのが早い。
色づき始めた木立の木漏れ陽が薄くなり急に寂しくなる。
徘徊途中の<ボッチベンチランチ>



一人で山際のベンチに座りオムスビを齧っていた。
背後で何やら「カサコソ」音がする。
首をひねって木の根元を見たら、
たぬちゃんが、こっちを見ていた。



お握りは少なくなっていたので、
頭上に垂れていたヤマボウシの赤い実を手折って、
投げてやったら、たぬちゃん、拾って姿を消した。



最近ハマっている村上元三の「変化物語」の三作目は、
「貉と奥平久兵衛」(むじなとおくだいらきゅうべい)。
例によって、ネタバレバレで長々と書きます。
「綴り方」は老人の「健康ケア」ボケ防止に役立ちます。

さてと、前口上が長くなりました。
「貉と奥平久兵衛」ですが、
本編は人間が生き物に変化(へんげ)しませんが……。
貉狸・源太の「純愛物語」です。毛先まで愛して……。



享保17年の夏のことでした。
松山藩、伊予国一円は蝗(いなご)の大発生により、
農作物はじめ樹木や草木まで食べつくされ、
灰色の世界に変わりつつあった。すさまじい蝗の勢いに、
為す術もなく、住民たちは閉じこもり息をひそめていた。

久万山(くまやま)の中腹にある暗い穴の中では、
16匹の貉(むじな)たちが、互いに身を寄せて、
がたがたと震えていました。
この世の終わりが来たかの心地だった。

ところが一匹の貉だけが、
一族の棟梁五右衛門貉以下15匹の貉とは離れて、
穴の入り口近くにうずくまって居る。
この貉だけは、姿形や毛色具合が少しだけ違っている。
鼻柱に白い筋があって、目も金色に光っている。
この貉は「狸と貉の合いの子」であって、源太と言うオスだった。

源太は物心がついたころから、
五右衛門貉の一族の中で育ってきたので、
貉の一匹に数えられている。
源太は親の顔を知らないが周囲の噂で、
自分はこの伊予で名高い八百八狸の眷属のうちの名門の男狸が、
女貉に生ませた「落し胤」に違いないと自負していた。

この讃岐には狸の名門眷属(けんぞく)が棲んでいて、
貉など仲間に入れない権力を持っている事を知っていたからだ。
狸の体徴が現れるに従い源太は、一族との間が気まずくなり、
なんとなくギクシャクし、寂しい思いをする日々になっていた。

悶々とする日々の中、源太は恋人ができた。
八百八狸の内の名門・藤五郎狸の末娘のお豆というメス狸であった。
二人は相思相愛の仲になり、体も許し合った。
二人は、結婚のお許しを藤五郎狸に願い出たところ、
貉の合いの子に娘はやれないと、大反対されてしまった。

そこで二人は「駆け落ち」するような次第になった。
お豆と落ち合う場所は、
「久万山に近い野尻村の三本松の根本」としていました。

源太は周囲一面を蝗が覆い尽くす中、
洞穴を飛び出すと夢中になって駆け出すのでした。
身体にも、口の中も、息もできないほど、
鼻の穴の中まで蝗が入り込んでくるのでした。

体毛に取り付く蝗は毟り取り、口の蝗は噛み砕き吐き出し、
お豆の居るはずの三本松を目指して、
死に物ぐるで走る源太でした。
案じられる愛しいお豆。

段々畑から、野原、村道を駆け抜け、
野尻村の三本松に駆け付けた。
待っているはずのお豆の姿は見当たらず、
松の幹にも周辺にも蝗がびっしり埋め尽くしているのだった。

小さな盛り上がった蝗の山が目についた。
源太は飛びつくように山になっている蝗を払いのけた。
下から赤黒い毛並みがのぞいた。
死んだように動かないお豆の変わり果てた姿だった。
口にも耳にも鼻にも蝗がぎっしり入り込んで、お豆は息絶えていた。

二人の身体は蝗の群れに埋められようとしたとき、
源太は「おのれにっくき蝗」と、
狂ったように跳ね回り、飛び回り蝗を踏み殺し噛み殺して、
獅子奮迅の動きで蝗どもをやっつけていた。

やがて夜が明け百姓らが松明や棒、鍬などもって、
蝗を払いながら現れた。

荒れ狂うように蝗を踏み潰す狸の源太を見て、
「神の使いか、やれ有難いことだ」
わしらも負けんと追い払え、
村人らも、蝗の一群を追い回しはじめた。
源太は疲れ果てて、足を縮めて気を失ってしまった。
村人たちから、神通力があると祭り上げられた源太。



伊予松山藩十五万石松平隠岐守定秀の国家老奥平久兵衛は、
郡奉行から蝗を退治した狸やら貉やらの獣(けもの)について報告を受けた。

この国家老の奥平久兵衛なる人物、風采も狸に似ているうえ、
小心者であったが、それなりの野望は持っていた。
郡奉行と久万山一帯の蝗被害について巡視に出かけた。

村名主から蝗を退治した獣の話を聞き、
檻に入っている「源太貉」をみて、「あれは狸か貉か」
村名主は、よくわかりませぬと答え、
土産に一匹の狸の毛皮を献上した。
お豆の変わり果てた姿であった。

持ち帰った久兵衛は毛皮を胴着と数本の筆に加工して、
日常使用するようになった。

ある秋の夜、夜中に気配を感じて起きてみると、
何やら得体の知れない獣が部屋の端にうずくまっていた。
「私は源太といものです。しばらくこのお屋敷に留まりたい」
翌日から庭の築山に穴が出来て、狸に似た貉が棲みつくようになった。
久兵衛が所見をしたり書き物をしていると、
庭先から源太がじーっと見つめるようになった。

それ以来、小心者であった奥平久兵衛が、
自分には源太がいる限り「神通力がある」と、
何やら自信ありげな振る舞い野心家に変貌していったのです。
久兵衛は源太が住み着くようになって人が変わったのでした。

藩主が急死したあと相続争いで、久兵衛が担ぐ若い藩主が誕生し、
久兵衛はその後見人を任じて、
権勢を意のままににするようになった。

お豆の胴着を着て、お豆の毛筆で所見をする久兵衛を、
源太貉はいつも悲しげに憂いにみちた目で眺めていた。
久兵衛の思惑なんて関係ありません。
恋しいお豆の形見を見ていたのです。

久兵衛がますます松山藩の政治に増長するようになれば、
当然、敵も多くなり、ついには政争に敗れ、
瀬戸内の小島に幽閉される。

お豆の毛皮の胴着とお豆の毛筆を持って、流人生活をしていた。
幾日か経って、久兵衛は庭先に「源太貉」が座っていた。
「おお、源太」と久兵衛は抱きしめるのだった。

年月が流れ、久兵衛は遠島から脱出を試みる。
それを知った国元の国家老は久兵衛を誅殺したのでした。

幾日か後のことでした。、
瀬戸内の海を一本の丸太の上に、
源太貉は一本の筆をくわえて漂っていた。
お豆狸のあのしなやかな愛らしい毛でできた筆を手にして、
お豆狸と至福の時を漂っているのでした。



今回、楽しませていただいた作家・村上元三とは。

「佐々木小次郎」「源義経」「水戸黄門」など、
大衆時代劇文芸作品を数多く残している直木賞作家・村上元三。
その作品は新聞や雑誌に連載されていて、
爺も目にした記憶はあるが、作品名については記憶がない。

今回図らずも図書館で目にした大活字本、
リブリオ出版「ポピュラー時代小説全15巻」のうち、
第5巻「村上元三集」に収められている三部作、
「河童将軍」(昭和25年)「天狗田楽」(昭和24年)「貉と奥平久兵衛」(昭和25年)について、
村上元三自ら「変化もの」とよんでいたと、尾崎秀樹氏が解説を書いています。

現実に在りえない生き物と人間との非現実な世界を擬人化し、
人間社会の可笑しさや欲望の浅ましさを浮かび上がらせた、
「大人の童話」とでもいえる小説でした。
とにかく面白かった。
村上元三は大衆文芸のエンターティナーです。

このシリーズ、大きな活字で読めるので、
時代小説愛好の爺にはうれしい全集です。
これまでに五味康祐の「秘剣、柳生一族」、南条範夫の「武士道もの」、
中山義秀「剣豪もの」、松本清張の「無宿人別帖」や「西郷札」、
司馬遼太郎作品を読んできました。
いやー、時代小説は楽しい。

最後まで、お付き合いくださった方には、
心より感謝します。――たにしの爺

「グレて」人間になった木の葉天狗の滑稽譚「天狗田楽」

2021-10-30 19:00:41 | 本・読書
令和3年10月31日 October is over
「秋色たけなは(わ)」秋日好天とか。月並みなフレーズを並べてみました(汗)。
この時期らしい、情緒のある詩情を綴りたいが、ポエジーが出てこない。

大衆文芸・時代劇作家・村上元三の「変化物語」、
大型活字本で読んでいます。「河童将軍」に次いで、
今回は「天狗田楽(てんぐでんがく)」読感です。

鞍馬に棲む木の葉天狗八郎が人間界に興味を持ち、
とくに女性(にょしょう)の仕組みを知りたくて、
まあ、未知な世界を見てみたい、触れたい思いは、
とくに若い天狗としては「止み難い」衝動でした。

人間様に憑依してみたが、
色と欲の渦巻くおぞましさを知って、
散々に、逃げ出したという物語です。

作者によると、天狗には性別がない、ということのようです。
天狗は男女の営み、つまり生殖によって産まれるものではなく、
深山に立ち込める幽遠不可思議な山気から、
しずくのように滴り落ち、いつの間にか形を成すものだという。

八郎のような「木の葉天狗」は、
兜巾(とさん)に篠懸(すずかけ)、嘴は青く鳥に似て、
背には羽を生やし、羽団扇を持っている。

木の葉天狗も修業を積み、年数を経れば、嘴はとれて、
顔は赤くなり、鼻が飛び出し、髪は白くなり、
大天狗と称されて、仙術の奥義に達することができるが、
そこまでの道は厳しく、大天狗までになるものは少ない。

物語の木の葉天狗八郎は、
大天狗様から「こっぴどく叱られた」のです。

鞍馬の大天狗白雷僧正(はくらいそうじょう)、
「お前は、本来なら人間に生まれてくるところを、
間違って、天狗界に迷い込んできた。
もっと修業しないと、人間界に堕落してしまうだろう」と、
厳しく叱責を受け、羽をすぼめて意気消沈していた。

叱責された訳というのは、
他でもない「魔が差した」のです。それは、
八郎天狗の生来の人間界への興味からだった。
この日は鞍馬の火祭の夜のことだった。



杉の梢で人間たちの祭りの騒ぎを見ていたら、
「あん、」とか「いい、」とか「うむん、」とか、
木の根元で人間の男女が、うごめいているではないか、
八郎天狗は何事かと、木から降りて覗き込んだのです。

ああ、これが人間界の「営み」というものか、
目が眩みそうになりながら、覗き込んでいるうちに、
身体が熱くなり、姿を消す隠身の術が薄れて、
天狗の姿が現れてしまった。

びっくりした営み中の男女は仰向けに離れて転がった。
八郎天狗は人間の女の仕掛けはどうなっているかと、
見分し始めたとき、運が悪くというか、
鞍馬山の取り締り担当する山城坊に見つかってしまった。

これが木の葉天狗八郎が、大目玉を食らい、
謹慎処分になった所以でした。

魔が差したとはいえ、八郎天狗は師の「あまりの」叱責に、
それなら「いっそ、人間に堕落してやろう」と心に決めました。
魔王堂に忍び込み、あらゆる天狗の秘法を記した「巻物」から、
変身の奥義を記した――
「迦楼羅秘鍵波羅密法(かるらひけんぱらみっぽう)」を拝借し、
天空に飛び去ったのでした。



人間の姿になった八郎天狗は箱根の山中に立っていた。
姿成りは江戸日本橋の呉服問屋の若旦那となっていた。
八郎天狗が術で化身したわけではなく、
若旦那・丹之助に成り代わっていたのでした。

この呉服問屋伊勢屋の若旦那・丹之助は、
この男、実は箱根の山中で刺客に襲われ、
瀕死の状態になっていところ,
八郎天狗が乗り移ったというわけでした。

この丹之助は訳アリの男で、
放蕩が過ぎて商売に身が入らないので当主の儀兵衛が、
京都へ修業に出していたのでした。
儀兵衛の後妻が悪党で、長男の丹之助を差し置いて、
自腹の子を跡取りにしようとたくらんでいたのです。
丹之介を切ったのは、後妻が差し向けた「間男」でした。

久しぶりに江戸にもどった八郎天狗の丹之助は、
伊勢屋の店先に商いに出るのですが、
訳が分からず、番頭にまかせっきりでした。
ある日、掛け取りを任され集金に出た帰り、
丹之助の馴染みだった女に会い、
人間界の興味津々だった例の営みを初体験する。

手練手管を教えられ、散々楽しんだ後、
集金した金を持って吉原に乗り込んだ。
傾城屋の太夫を相手に思う存分楽しんだ。

さすが天狗の神通力でも「精魂果て」、
八郎天狗は前後不覚の態になった果てに、
(このあたり省略しますが)
木の葉天狗の姿が現れてしまい、
大騒動の捕り物騒ぎになってしまうのでした。

八郎天狗は空に向かって悲鳴を上げた。
ちょうどその時、一陣の風が吹きおろし、
八郎天狗は天空に引き上げられて消えた。
後には丹之助の骸が残っていた。

「天狗は天狗でいればよいのだ。今さら人間ごとき、
つまらぬ輩の仲間入りしてなんとなる。
愚かな真似をして、後悔したであろう」
鞍馬の大僧正白雲坊の小言を八郎天狗は、
泪を流して聞くのでした。

まあ、風刺の効いた「大人の童話」という感じの物語でした。
83歳、老境の徘徊爺には、たわいもなく面白かった。
そう言えば、「女性の天狗」って聞いたことがありませんね。
天狗様について、いろいろ知りたい方は、ここで見てください。
「日本文化研究ブログ」

「たわいもない長文」お付き合いさせてゴメンね。
10月27日から11月9日まで2週間にわたり、
読書週間になっています。
皆さん、SNSを中断して読書しましょう。

面白くって、可笑しな物語―村上元三「河童将軍」

2021-10-19 17:47:10 | 本・読書
令和3年10月20日 秋が深まってきました。 
桜の木の葉が黄茶色に代わり、風に舞って落ちています。
久しぶりに大型活字で読む時代小説レビューです。

今回の物語小説は「河童将軍」です。
村上元三の「変化(へんげ)もの」三題シリーズの一遍です。
侍の落第生が縁あった河童の総大将になった話です。
可笑しくって、面白く、笑えた物語でした。
なんとなく既視感やリアル感を覚えました。
人間社会のパロディ小説とも読めました。

「たにしの爺」左目に障害があって、
図書館から借りてくる「大型活字本」をもっぱら読みます。
中でも「時代小説」が大好きです。
出版年は古いですが、とにかく読んで楽しい。



主人公は坂巻太郎蔵源貫之(さかまきたろうみなもとのつらゆき)、
元は印旛・白井の城主原式部少輔の家臣であって、
落城のとき18歳だった。後に徳川方の家臣になって、
関ヶ原の合戦では30人ほどの卒の大将で活躍したが、
故あって、恩賞から外されて浪人の身になっていた。

そんなわけで、坂巻太郎蔵は印旛沼のほとりで、
コイやフナ、ナマズを捕って生計にしていた。
恩賞から外れたのは太郎蔵に原因があった。

「大酒飲みで女に目がない」その上、怠け者で、
陣中での乱行ぶりが祟って、主から縁を切られてしまった。
故郷下総の白井で「河原漁師」に身をやつしていた。
それでも、自分は侍なのだという自負だけは失うまいと、
かつて奉公していた白井の城を崇める日々を送っていた。

沼で捕ったコイフナ、ナマズは乾魚にして売ったりしていた。
あるとき、干し魚が朝になると減っていることに気づいた。
よく見ると足指の間に水かきの付いた足跡が残っていた。

こやつ「カワウソ」めと思い、ある朝、監視していると、
二本足で立っている人間のような素っ裸が干し魚を食べている。
「おのれ」と飛び出し棒で殴りつけた。
棒は撥ね退けられて、一個の「河童」が立っていた。



顔の真ん中にくちばしが突き出ている。
手が恐ろしく長くて、膝下まで伸びている。
太郎蔵、息をのんだまま身動きもできないでいた。
取っ組み合いの上、ようやく組み伏せて押さえつけた。
そのとき、河童の身体から妙な響きを発した。

太郎蔵の鼻孔に嫌な臭気が流れ込んできた。
気が遠くなるような臭気を嗅ぐと、全身がマヒ状態になり、
悪夢の中に引き込まれるような、身体から力が抜けていった。


手賀の丘公園から眺めた手賀沼

泥沼の中をあがき廻り、気が付いたときに、自分の身体から、
全身の肉と骨が溶け失せて、皮の下は空気ばかりになって、
おまけに、あの嫌な臭いが身体から発している自分が、
漁師小屋の床に横たわっていることに気付いた。

床の脇に嫌な臭いを発する女の姿をした河童が座っていた。
「わたくしは」あなた様に悪戯をした河童の妹ですと言った。
その度に、あの嫌な臭気が太郎蔵の鼻孔に流れ込んできた。

「自分たちは……」河童の女が言った。
利根川の上流、榛名山の麓を流れる鳥川の縁に棲んでいた「河童の一族」であって、
私の名は「河女」だという。
私たちは、人間に悪戯をしたために鳥川を遂われ、
利根川に移り棲んでいたところ、
利根川に古くから住む「水虎・すいこ」一族に、
邪魔者あつかいにされ、迫害を受け数日前から、
この印旛沼に逃げ込んできました。

私たち関東に棲む河童は、背中に甲羅はなく、性質も大人しい。
水中の魚やシジミ貝を食用にしている。
ただ時々、人間の尻子玉を頂く癖がある。

水虎は河童と同じ形をしている上に、
背に亀の甲のようなものがついている。
これは敵に襲われたとき甲の下に潜り込んでしまう必要からで、
敵が多いという証拠です。人畜にも害を与えるのが常であると、
太郎蔵に訴ったえたのであった。


手賀沼大橋

河女は太郎蔵に近寄り口の中に何やら、
煉り薬のようなものを押し込んでいった。
それから幾夜か河女が訪ねてきては、
臭い煉り薬を押し込んでいったのでした。

太郎蔵、幾日か過ぎ心気爽快を覚え正気づいた。
長い眠りから覚めたように思った。とき、
思わず飛び起きてしまった。わが身の変化に気が付いた。

自分の手に、水かきが出来ている。
身体は蒼黒く変わって手がいやに長くなり、
肌は水から上がったばかりのように、じめっとしている。
飛び起きて身体を見ると、頭にてっぺんが剥げて湿っている。
顔の真ん中にくちばしのようなものが突き出している。
家の中にふんどし一つの河童が突っ立ているではないか。

自分の居場所はどこだ。川に向かって突っ走った。
どろどろの水の中へ躍り込んだ。
太郎蔵はいきいきと全身に力のみなぎるのを感じた。
何とも言えない快さも覚えるのだった。

やがて太郎蔵は印旛沼の水底の穴にたどり着いた。
一個の河童が立っているのを目にとめた。
胸のあたりに人間と同じように乳房が二つこんもりと膨らみ、
下腹あたりに水草で編んだ腰布のようなものを垂れている。
くちばしのあたりには、恥じらうような笑みを浮かべている。


手賀沼親水広場前か見える河童像

「とうとうおいで下されましたね」
しなやかに腰をくねらせ媚態を示しながら、
「わたくしは河女でございます」と言った。

「おのれ―」と飛び掛かった太郎蔵を抱きとめた河童の河女は、
蒼黒い肌をぴったりと押し付けたまま、
沼の深みに奥深く引っ張り込んでいった。
それっきり、坂巻太郎蔵は湖畔から姿を消してしまった。

その後、印旛沼には、
人間の知恵ではわからぬ異変が度々、起こったという。
あくる年の春の夜、白井の長源寺に太郎蔵が忽然と訪ねてきて、
住職から紙料と硯を借り受け、
一夜で「河童世界での体験」を残していった、
と伝えらている。

そこには、河童の棟梁となった太郎蔵=河童太郎が、
関ヶ原の合戦を思わすような水虎軍たちとの対決や、
河童一族との、特に河女と「契り」や混じりあいを、
非人間的な河童の目線で「人間界のパロディ」に似て、
「河童世界」小説が綴られていた。



河女は「江戸に出て将軍におなり下さい」
しきりに河童太郎にけしかけるのでした。

印旛沼、利根川など現存の地名や川が舞台で、
印旛沼の妖怪「河童伝説」につながるのかな。
面白かった。

河童と言えば黄桜酒造のコマーシャルが記憶にあります。
清水崑さん、小島功さんが描く「河童家族」
美人の妻がお銚子とお猪口を持って、頬を染める。
最近放映されないけれど、どうしたんだろう。

後の2編は後日に書きます。

リルケ「マルテの手記」を読んだ。文章を書いていると「コロナ鬱」が鎮まる。

2021-04-15 10:33:54 | 本・読書
令和3年4月15日 リルケ「マルテの手記」ようやく読み終えた。
ストーリーも、あらすじもないが、詩のような「言葉」があった。
詩人の魂(たましい)を塊(かたまり)にしたような小説であった。

リルケ著「マルテの手記」は文庫本で岩波(望月市恵訳:1946/01/20)書店と新潮(大山定一訳:1953/06/12)文庫がありますが、たにしの爺が読んだのは、最も新しい翻訳版の「光文社古典新訳文庫」(松永美穂訳:2014/06/12)でした。同書のWebサイトでは数ページ試し読みが出来ます。電子書籍にもなっています。

ドイツ語圏を代表するライナー・マリア・リルケは詩人で劇作家であることは、文学史的には知っている。作品は読んだことはない。ただ、古今東西の有名作家や詩人の名句名文を集めた「世界の格言集」とか箴言集「格言の花束」などでリルケと言う名前は見たような記憶があった。あるいはリルケではなく、キケロだったのかな、記憶は定かではない。

★何故この本を読む気になったのか。

なんでこの「マルテの手記」という書物を手に取ることになったのか――。きっかけは最近読んでレビューに書いた「3行で撃つ」(近藤康太郎著)の表紙の扉に印刷されていた一編の詩が目に留まったことからだ(下記の写真)。1行の詩のために、リルケ「マルテの手記」と記され印刷されていた。この本を読んでみたいと思った。



本屋さんを2,3歩いてみたが在庫がなかった。公民館の図書室にもなかったので、県立図書館から取り寄せていただいた。ところがです、手元に届いてから読み始めて「とんでもなく面倒っ臭い」内容であることを知った。まったく面白くない。時代小説を大型活字で読むのが趣味のたにしの爺なのに、この本にはわくわく感が全くないのだ。孤独な詩人の独白が延々と綴られて「病気」「父」「母」「祖父母のお城の館」「間取りや肖像画」「死」「神」「愛」「記憶」が回想され、語られ、思ったりする。

貧乏青年マルテがパリの街を「徘徊し彷徨し回顧し妄想し」(おっと、徘徊と妄想と言うと、耄碌たにしの爺と同じになってしまうのではないか。だが、爺の呟きとは、とんでもなく違います。)詩人リルケの分身とも言える(爺の勝手な想像です。)マルテが街を歩き周り、見たこと、思ったこと、回想と、現在と過去を、行ったり来たりしながら脈絡なく「ぼくは」の一人称で書き連ねる。(途中で彼になったりする。)パリという孤愁の街で悩める詩人の魂を吐露する。詩の塊りのように無垢(ピュア)な言葉が名言のように綴られていくのだ、と言えばレビューらしくなるかな……。

同書を読んで見たいと思った「一行の詩」のためにの記述は、かなり前半部に登場します。<>内は同書のテクストの引用です。

★九月十一日、トゥリェ通りにて

パリに着いたマルテは言う<そう、そいうわけで、人々は生きるためにここに来るのだけれど、ぼくに言わせればむしろ、ここでは人が死んでいっている。ぼくは外出していた。>そう言ってマルテは病院や妊婦を見る。乳母車の子どもを見る。路地の匂いを嗅ぐ。窓を開けたまま眠る。電車が警笛を鳴らして、部屋を駆け抜けていく。騒音はこんな感じだ。<でも、ここにはもっと恐ろしいものがある。静寂だ。>

<見ることを学んでいるいま>ぼくは28歳だが、‥‥論文も戯曲も書いたがひどいものだった。と言って詩について、<早い時期に書くと、あまりにもうまくいかないのだ。詩を書くのは待った方がいい。>として、さらに<詩というのは感情を表現するものだと人々は言うが、それは違う。>感情なら幼いときから持っている。<詩は経験から生まれるべきものだ。>これまでに幾編かの戯曲や詩を発表してきたリルケは振り返る。

<一つの詩のために、たくさんの街や、人間や物を見なければならない。動物を知り、鳥がどんなふうに飛ぶかを感じ、小さな花が朝方開くときの仕草を知っていなければならない。知らない地方で通った道のことを思い返すことができなければならない。>これらのことについて知っても、それだけでは充分でないのだ。

<恋人と愛し合ったたくさんの夜についての思い出がなくてはいけない。どの夜も他の夜とは違っていた。>‥中略‥<思い出そのものが詩に成るというわけでもないのだ。>‥中略‥<ごく稀な瞬間に、詩の最初の言葉が思い出の中心に浮かび上がってきて、そこから出発するということがありえるのだ。>だが、<ぼくの詩はすべて別の生まれ方をした。だから、それは詩とは呼べない。>これまでの幾つかの戯曲や詩について、どんな間違ったものだったかを延々と自問自答していく。



★国立図書館にて

「一行の詩」についての記述はかなり前半で見ることが出来た。
だが同書「マルテの手記」の主要な要素は過去と父母、祖父母らの死と掛り合う人たちの回想、読んだり見たりした読書の登場人物との対話を通じて回想しながら思索を深化させ、さざ波のように広げていく。最後は「神と愛」についての世界になる。

本書の終わり近くになってマルテは、本や詩と対話しながら読書について<すべてを読むつもりでなければ、一冊の本も開く資格はないのだ。>と言う。「たにしの爺」は必死に本を開き続けた。レビューしてみたいと思ったがもう無理です。――かくてもはや耄碌たにしの爺には手に負えない書物になったのでした。

12,3歳にのころだったか、父に連れられて行った祖父母の暮らす館で過ごしたことから、父母の死や祖父母の係累の女性たちや出来事について長い回想が病気のように続く(実際にマルテ本人も病気にも罹った。父母の死、「自分の死の恐怖」に不安に怯える)。リルケは言う「そう、それはありえることだ」。

★天国を見せてくれたアベローネ

「愛」についてはママが亡くなった後、アベローネについて考えるようになる。アベローネは母の妹で、歌を歌う。かなり年上でもあった。<ぼくに別の天国を見せてくれることになる>アベローネ。学生になっていたマルテは休暇でアベローネと再会した。二人はパリ、クリュニー美術館にある「貴婦人と一角獣」のタペストリー画を見て会話する。この後、ママとアベローネと伯爵の館での事が何ページにも渡って綴られる。

<アベローネ、この数年の間にもう一度、君を感じたことがあった。それはヴェネチアでのことだ。秋だった。>ある夜、サロンで集まりがあった。女性が歌った。<アベローネだ、とぼくは思った。>愛されるということは、燃え上がるということだ。愛することは、尽きることのない油で火を灯すことだ。愛されることは消え去ることであり、愛することは持続することである。
支離滅裂になり始めたのでもう読感はやめます。

とにかく最後まで読み切ることで、公民館図書室の職員さんが手数を掛けて取り寄せてくださった本に対する礼儀ではないかと眼を通した次第です。読み終えて思った。さすが岩波、新潮社から文庫本が出ている名著である。心を病んでいるような、孤独な詩人の「生と死」「愛と神」への自問自答ノートだと言えるものでした。なんか、月並みな常套句での締めになってしまったようだ。

訳者の松永氏は「まえがき」で<「マルテの手記」は風変わりな本である。……マルテ、28歳。デンマーク出身。「ものを見る」訓練を自分に課している。だだ、彼が見るものはかなり変わっている。……ヨーロッパ文化の中心地パリで目にする繁栄と雑踏、都市で浮遊する彼の精神がとらえた不安げで不確定な世界の印象を、ぜひ味わっていただきたい。空間的、時間的拡がりを楽しみながら、マルテを追跡していただければ幸いである。>と書いています。
なるほど、そいうことです。

5日後には83歳の誕生日を迎える「耄碌たにしの爺」には、かなりしんどい小説でしたが、終わりまで読めば何かあるのではないかと、ひたすらに読み終えました。読まないで死んでしまうより読んでよかった。

好奇高齢者「一編のブログ記事」を書くために、キイを押していると「コロナ鬱」が鎮まる。

鳥が止まる「電柱」が面白くなる本――「電柱鳥類学」

2021-03-16 11:07:42 | 本・読書
令和3年3月16日 鳥は電線にどうして止まる??
止まって何をしている? 感電して落ちないの?
この本を読んで、新しい視線の先が増えました。

「たにしの爺」は何もすることなく無為の日々です。
徘徊逍遥が日課で季節の気配とお日様と風が友です。
これからは電柱を見上げるのが楽しくなりそうです。

三上修著「電柱鳥類学」(岩波書店)を読んだ。
「電柱鳥類学」とは鳥類学者の著者が造った「研究フィールド」。
要するに「電柱」と「電線」に止まる鳥を「面白がる」研究です。
そのためには「電柱」と「電線」を良く知らねばなりません。

本書の前半は「電柱と電線の基礎知識」が詳述されます。
街中、里山で見かける電柱、電線、配線や仕組みを、
「口絵」や「図解」入りで解説します。
「へーそうなんだ」「そんな仕組みか」なんて……。



本書を読んでから早速、徘徊の途中、
電柱に注目してみました。写真も撮りました。
鳥が止まっている光景は見られませんでした。
カラスが居た個所がありましたが、飛んで行ってしまいました。
それにしても、住宅街からスズメが居なくなったなー。



鳥たちが「電柱・電線」を棲家にするようになったのは、
日本では明治以降でこの先、電柱の地中化が進めば、
「電線のカラス、スズメ」は見られなくなってしまう。
いま生きている私たちは、貴重な歴史的風景を見ている、
そういう時間の中に居ることに「幸せを感じ」ませんかという。



都会に進出した鳥にとって、電柱は木であり、電線は枝になる。
電線に止まるベストスリーは、季節にもよるが、
スズメ、ムクドリ、ツバメ、ガラスが目に付くという。

電線とは「有線でインフラを引く」ために設置された施設。
電柱の種類、電信柱、電力柱、共用柱で、電線の配線は上から、
架空地線、高圧線、低圧線、通信線、引込線、腕金、碍子、変圧器、
これらの機器を支える「支柱・支線」からなっている。



主に電柱に巣をつくる、巣場所にしている鳥はスズメ、カラス。
電柱の付属物、腕金、変圧器の穴部分を利用するのがスズメ。
巣を載せるのはカラスなど体の大きい鳥で、集めてきた巣材を使う。
金属ハンガーなどがあると、感電して停電になる。

カラスという鳥は居ないという。
「ハシブトカラス(ブト)」はカー!と鳴き。
「ハシボソカラス(ボソ)」はガー!と鳴く。
電柱に巣をつくるのは主にボソで、巣が見えても気にしない。
ブトは巣が見えないように気配りする習性があるようだという。



電力会社は「電柱施設」に巣をつくられないよう、
さまざまな「知恵」を凝らしている。
「腕金の端を塞ぐ金具」、支線に付いている「蔦返し」「ヘビ返し」など、
生き物から電柱を守る構造上の工夫や共存も考慮している、という。



「たにしの爺」の周辺には最近、スズメが居なくなりました。
カラスばかりが目に入ります。
朝ゴミ出しに行けば集積場の近くに止まっています。
夕刻になれば、高圧鉄塔に群れて止まっています。



電線に止まって何をしているのか。???
遊んでいる。景色を眺めている。友だちを待っている。
そして最大の疑問、「鳥は感電」して落ちないのか??
なーでか。

まぁ、本を読んでみて。えっッ「知りたいって」
それはねー、電線が被覆されているから、
鳥の身体は電気を通さないから??です。

岩波 科学ライブラリー
「電柱鳥類学――スズメは何処に止まっている?」
2020年11月25日 弟1刷発行

『三行で撃つ』を読んだ――「名文ライター」による、ライター志願者への指南書

2021-02-24 09:55:02 | 本・読書
令和3年2月24日 『三行で撃つ』を2回読んだ。
読感を三行で言えば、――

何の興味を持たない読み手を「振り向かせる」
書き出しの三行に「全集中」しろ。
読者を「のけぞらせろ」ということです。

久しぶりに大活字でない本を読んだ。
それも暮れに出たばかりの新刊本だ。
「爺なり」のレビューを書いてみた。



この本を発見したきっかけは、
「ニューズウィーク日本版」ウェブでした。
このサイトはときどき覗いている。
世界ニュースをフィチャーする硬派な論調が「たにしの性に合う」

BOOKS欄で『三行で撃つ』――〈善く、生きる〉ための文章塾――が取りあげられ、
名文記者が「いい文章を書くための25の文章技法」を惜しみなく明かした本だと紹介されていた。
「たにしのブログ」は三行センテンスが主流だ。
老骨、徘徊爺になっても「情のある名文を書きたい」と願っている。
この本を求めたいと思った。



近くの本屋さんには無かったので、
近くの公民館の図書室に、取り寄せを頼みました。1月の中旬のことでした。
2週間ほどして連絡があって、受け取りに伺うと、
新刊購入したばかりの『三行で撃つ』でした。
「最初の読者ですよ」と言われた。

新刊購入を決めた担当司書さんに敬意を表します。
2回も読了して「買わなくてよかった」と思った。
その理由は、最後に書きます。

前置きが長くなった。
『三行で撃つ』
<善く、生きるための文章塾>
CCCメディアハウス社刊、2020年12月15日、初版発行、1,500円 
著者は朝日新聞編集委員
近藤康太郎氏
日田支局長/作家/評論家/百姓/猟師/私塾塾長、と紹介されている。

「ニューズウィーク日本版」のレビューによると、
<名文記者として知られる朝日新聞編集委員、近藤康太郎氏。
その彼が、いい文章を書くための25の文章技法を惜しみなく明かしたのが『三行で撃つ』だ。
本書には、数多の文章術の実用書と決定的に異なる点がある>と紹介されていた。

<決定的に異なる>とは、言葉、文章、書くこと、つまりは、
生きることの意味を考え抜かざるを得なくなる筆者の生き方だという。
ブックカバーの帯にも書いてある。
「書くとは、考えること。書きたく、なる。わたしに<なる>ために。――と。


――――――――――――――――――――――――――――――
以下は「たにしの爺」の読後感です。

プロのライターたちへ、プロのライターを目指す者たちへ向けた、
名文家になるための<読み方、書き方、生き方の指南書>でした。
まぁ、「至難」の言葉の修行を自分に課す覚悟が待っています。

「どうしたら、飯が食えるプロライター」になれるか――、
現役記者、記者を志す人たちに、心構えの覚悟を要求します。
いい文章を書く意味は「言葉のトレーニング」にとどまらず、
「日常生活、物の見方、本の読み方」それらが総合して、ひいては、
「生き方」までが、文章に反映されるものだとする。

文章を書くということは、考えるということだ。
言い尽くされた「常套句」を並べて書いても、
それは自分で考えた表現ではなく、先人の表現の借り物に過ぎないと。
自分だけの文章を書きなさい。それは考えることに尽きると言う。

まず、日本の古典に限らず、
東西の名著・古典をしっかり読むことだという。
本に限らず、古今の芸術作品、音楽、絵画、映画‥‥、
それらは「生き方」が表現された作者の唯一なものである。
これらの作品に触れないで、ライターになろうなんて思っては困るのだという。



「書くということは、簡単なことではない」
最初の一行が出てこなくて、幾日も、何時間も呻吟し、考え抜き、
自分の知らなかった自分を発見することを歓びとする。
このことが、本書の主要なテーマになっている。

長くなりますが、少し引用します。(72ページ)

<流行語は、流行しているときに使ってはいけない。(少し略)
流行語を使うとは、世間に、言葉を預けることだ。
言葉を預けるとは、自分の頭を、自分の魂を、世間に預けることだ。
うわついて、邪悪で、移り気で、唾棄すべき、
しかしこれなしには、どんな人間も生きられない「世間」という怪物に、
自分をそのまま預けてしまうことなのだ。
なぜ、わざわざ文章など書くのか。
みなが見ていること、みなが感じていることを、見ないため、感じないためだ。
感性のマイノリティーになることが、文章を書くことの本質だ。>


ここが、筆者が描くライターの本質部分ではないかと思う。
文章を書く第一は「語彙を磨く」ことだ。
道具立てと筆者の実践法が詳述されている。
本を読み、辞書を引く、言葉を知ることだ。



お恐ろしく「博覧強記」な内容の詰まった、
モノ書きに与える文章指南書だ。

古今東西の古典、名著は言うに及ばず、稀覯本・書物に精通しておられれる。
さらに英語、仏語、独語、西語で原書を読み、
知識として蓄積されて、散り混ぜられて、生かされています。

後半になると氏の筆は「神がかった」様相を呈します。
文書を書く「言葉」は「道具」ではない。
言葉はmojoだという。まじない、魔術。
何を書くか分からない内に書き始めるとmojoが働き、
女神が現れ、グルーヴに乘って言葉が現れてくる。
自分の書いている文章が、当の自分を追い越す。
文章が、自分の思想、感情、判断を超えていく。
……mojoの働きだと。(288~290ページ)

表紙の見返しに記されている。
わたしにしか、書けないものは、ある――
文章は、見えなかったものを見えるようにすること
文章は、見えていたものを見えなくすること



読後一考「そういうことなんだ」
名文を書く、そこまでしなければならないとしたら、
「たにしの爺」もう間に合わない。
駆け出し記者に戻れたとしても、到底できない。
「このようなデスク」が居たら、恐ろしくて原稿を出せなくなる。



始めに「買わなくてよかった」と書いた理由はそこです。
こんな恐ろしい本が、ベット脇の本棚で四六時中、目に入ったら、
ウナされて、寝られなくなる恐れがある、と思ったからです。
今でも「締め切り、降版時間」が夢に出て、バタバタする「たにしの爺」なのだ。
はたっと、夢から覚めると「尿意がテンパっている」

「たにしの爺」は「朝日新聞」は見ないので、
氏の存在は全く知りませんでしたし、
何冊かのご著書があるようですが、読んだことがありません。
本書が初めて読んだ氏の著作でした。
訳の分からない「レビュー」になってしまったこと、
83歳になる「徘徊爺」が好奇心から、
2回も読んだということで、ご容赦いただきたい。

文章を書くとは、――
「言葉の迷路を徘徊し自分を発見」することだと知らされた「たにしの爺」でした。