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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大山巌(当時は弥助)の子息、大山柏の著書「戊辰役戦史」に鳥羽伏見での幕府軍敗退の理由が描かれていましたので、トウネンの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

慶応4年(1868年)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いの幕府側兵力は1万5千名、官軍は5000名程度(薩摩3000、長州1000、土佐200、因幡500余)とされていますが、錦旗が登場(1月5日)する以前の初戦から幕府側が連戦連敗しています。

大山柏氏は<著者の解し得ぬ点は、軍配書によれば鳥羽街道部隊司令官として幕府若年寄兼陸軍奉行竹中重固(しげかた・当時41歳)が鳥羽に向かわずに伏見に赴いていたことで、鳥羽方面の幕府軍に部隊を総括する司令官がおらない>

小枝橋のある鳥羽街道には<滝川倶挙(ともたか42歳・倶知とも)がいるも、この人は幕府大目付で、(徳川将軍家から朝廷への)上表伝奏の使者(武官では無く文官)であって、軍隊とは系統を異にする>

<だが彼はその後も第一線に留まっておったとこからすると、例の(大阪城で最も主戦的な発言をして徳川慶喜・32歳も制止できなかった)調子で、筋違いにもかかわらず、平気で兵を指揮しておったらしい>

<これは著者の想像だが、打倒薩摩一色の「滝川」が鳥羽方面に行くなら、俺は伏見の方を指揮する」と言い、「竹中」は伏見に行ったのかも知れない>幕府組織では滝川の大目付より竹中の若年寄が上位ですが、主戦論者に逆らうわけにはゆかなかったのでしょう。

<ともあれ鳥羽方面には幕府軍の総指揮官(陸軍奉行)がいない。その上、薩摩軍の第一発目の砲弾が幕府軍大砲に命中炸裂した。滝川はちょうど乗馬したばかりで、その身辺で砲弾が破裂したので乗馬が仰天して鳥羽街道を(大阪方向に)疾駆狂奔した>

<鳥羽街道の道路いっぱいの幕府軍の隊列は、ただでさえ混乱している。そこに大目付の乗った奔馬が突然出てきてメチャクチャにかき乱され、収拾のつかぬ大混乱を惹起し、先頭にあった部隊は一時使い物にならなくなった>

伏見でも遅れて戦闘が始まりますが、竹中重固陸軍奉行は、翌1月4日、協議と称して老中格(名目的な)総司令官松平豊前守(大河内正質・25歳)のいる淀に脱出、これが全軍の総退却を誘発しています。鳥羽伏見で幕府が負けたのはこの二人のせいかも知れません。

 



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日露戦争での満州軍総司令官だった大山巌の子息、大山柏の著書「戊辰役戦史」に父親の勇猛ぶりが描かれていましたのでアオサギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

慶応4年(1868年)、鳥羽街道小枝橋での開戦の翌々日(1月5日)大山巌(当時は弥助・数え年27歳)は、薩摩軍2番砲隊長として、伏見から激戦中の鳥羽本道(千本通り)の富の森(現在の横大路前川町辺り)に到着。・・・クチバシを水中の獲物に

<2番砲隊は(幕府軍に向けて猛烈な大砲)射撃をした結果、用意した弾薬を使用し尽くし、大山隊長は抜刀して「砲を捨て銃を取れ」の号令を下したため、砲隊はたちまち小銃隊に早変わりした>・・・アオサギが何かをゲット

<続いて「散開前へ」の号令で大山隊は歩兵線を乗り越え、幕府軍の銃砲火中を一意前進、そのまま敵の陣地に突っ込んだ。その突撃前進を見た両隣の小銃隊(篠原国幹3番隊長・32歳と野津鎮雄5番隊長・34歳・1隊約80名で編成)は「砲隊に遅れては小銃隊の名折れだ」と続いて突進>・・・エビを咥えていますね。

<突撃直後、大山隊長は右耳に銃弾を受けたため(止血用の)手ぬぐいで頬被りして続行、この姿が期せずして官軍の「総突撃」を誘発、頑強に抵抗していた幕府軍は持久し得ず、脆くも崩れて第二戦陣地へ敗退した>・・・エビが必死に暴れて

この激戦で薩摩軍小銃5番隊の監軍(副隊長格)椎原小弥太(29歳・鳥羽小枝橋の守備隊長で、橋の通行を求めた幕府大目付・滝川倶挙(42歳?倶知とも)を通さず、鳥羽伏見開戦のきっかけをつくった人物)と薩摩軍小銃6番隊長(市来勘兵衛・30歳)などの人材が戦死しています。・・・エビのハサミの部分を咥え

椎原小弥太の戦死で、西郷信吾(従道・26歳)が代わって小銃5番隊監軍となりますが、西郷も銃弾を受け後退(重傷)、小銃6番隊は監軍(副隊長格)野津七次(道貫・28歳)が隊長となって奮戦しています。・・・ハサミを噛んで無力化中?

鳥羽街道での1月5日(錦旗が登場する直前)の戦闘がいかに過酷であったかを物語っていますが、その中で大山巌(弥助)隊長が先頭を切って突撃した行為は後に「弥助ドンの頬被り斬り込み」としてその勇気を賞賛されています。・・・シッポを咥え直して

西郷隆盛(当時が41歳)がリーダーとして尊敬を受けるきっかけは、4年前の「蛤御門の戦い」の指揮であり、大山巌が尊敬を受けるきっかけとなったのは鳥羽伏見1月5日の戦いの指揮であったというお話でした。・・・一挙に呑み込みました。



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淀城から桂川(途中合流する鴨川の)左岸に沿って京都に至る鳥羽街道は、小枝橋で鴨川を西に渡り北上、千本通りとなって京都中心部に至る道です。151年前に小枝橋であった戦いと、新政府軍が鳥羽伏見の戦い勝利した6つの要因を紹介しましょう。・・・下の地図の左上が小枝橋(地図の現在地は京セラ本社前)

幕末の慶応413日(新暦1868127日)午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩兵(椎原小弥太・28歳と山口伸吾が監軍)と旧幕府軍先鋒が小枝橋で接触しています。これが「鳥羽伏見の戦い」直前の状況でした。・・・鳥羽離宮跡公園も激戦地だったようです。

二条城に向かって小枝橋を渡ろうとする旧幕府軍に、命令がないと通せないと薩摩側が回答。結局日没前に旧幕府軍が強引に通ろうとしたため薩摩軍大砲4門を発砲して、両軍の戦闘が始まっています。(その1、薩摩軍が幕府軍を先制砲撃)・・・鳥羽離宮跡公園の内部、小枝橋の戦いの石碑が正面の築山に残っています。

最初に戊辰戦争の火ぶたが切られたのがこの小枝橋付近なので、小枝橋はもっと注目されても良いと思います。ところで幕府先鋒を率いた大目付滝川具挙(当時40歳前後か)の馬が砲声に驚き、鳥羽街道を逆走したようです。(その2、幕府側先鋒大将が逃走)・・・鳥羽離宮跡公園の鳥羽伏見方面戦闘図(鴨川左岸に布陣していた薩摩藩が最初に発砲)

両軍の全兵力は薩長を主体とする新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われますが、寄せ集めの旧幕府軍側の戦意は低く、緒戦に先制砲撃を受けたことと先鋒大将の逆走による指揮の混乱があって旧幕府軍は苦戦、下鳥羽まで一旦引いています。・・・鳥羽伏見戦跡の石碑

14日、新政府側は仁和寺宮嘉彰親王(21歳)を征討大将軍とし錦旗を持たせて出馬させています。この時点から薩長軍は官軍、旧幕府軍は賊軍という立場となって幕府側諸藩が動揺、一旦4km下流にある淀城付近まで引いたのです。(その3、仁和寺宮征討大将軍と錦旗の出現)・・・鳥羽伏見の戦い勃発の地

15日、旧幕府軍は淀城(城主は稲葉正邦34歳・当時幕府老中として江戸に滞在中)に入城しようとしますが、淀城の留守居役が(賊軍とされた旧幕府軍の)入城を拒否、現役老中の城下町に旧幕府軍が放火して八幡方向へ後退しています。(その4、淀藩が淀城への入城を拒否)・・・この正面に旧小枝橋があったようです。

さらに16日、多勢の旧幕府軍は新政府軍を八幡・山崎ラインで迎撃しようとしますが、淀川右岸の山崎に駐屯していた津藩(藤堂家)の家老が新政府側の要請を受けて旧幕府軍への砲撃を開始、旧幕府軍は雪崩を打って大坂に撤退したのです。(その5、津藩からの砲撃)・・・旧小枝橋があった鴨川。右は新たに架けられた小枝橋

その16日の夜、将軍慶喜(当時30歳)は、少数の側近を連れて大阪城を脱出、海路江戸へ退却したことによって旧幕府軍は戦争の目的を喪失、各藩は戦いを停止して兵を帰し、戊辰戦争の帰趨が決定したのです。(その6、将軍慶喜の大阪城逃走)・・・旧小枝橋から見た鳥羽離宮方向。交差点の右方向が淀城に続く鳥羽街道



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