日露戦争での満州軍総司令官だった大山巌の子息、大山柏の著書「戊辰役戦史」に父親の勇猛ぶりが描かれていましたのでアオサギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部
慶応4年(1868年)、鳥羽街道小枝橋での開戦の翌々日(1月5日)大山巌(当時は弥助・数え年27歳)は、薩摩軍2番砲隊長として、伏見から激戦中の鳥羽本道(千本通り)の富の森(現在の横大路前川町辺り)に到着。・・・クチバシを水中の獲物に
<2番砲隊は(幕府軍に向けて猛烈な大砲)射撃をした結果、用意した弾薬を使用し尽くし、大山隊長は抜刀して「砲を捨て銃を取れ」の号令を下したため、砲隊はたちまち小銃隊に早変わりした>・・・アオサギが何かをゲット
<続いて「散開前へ」の号令で大山隊は歩兵線を乗り越え、幕府軍の銃砲火中を一意前進、そのまま敵の陣地に突っ込んだ。その突撃前進を見た両隣の小銃隊(篠原国幹3番隊長・32歳と野津鎮雄5番隊長・34歳・1隊約80名で編成)は「砲隊に遅れては小銃隊の名折れだ」と続いて突進>・・・エビを咥えていますね。
<突撃直後、大山隊長は右耳に銃弾を受けたため(止血用の)手ぬぐいで頬被りして続行、この姿が期せずして官軍の「総突撃」を誘発、頑強に抵抗していた幕府軍は持久し得ず、脆くも崩れて第二戦陣地へ敗退した>・・・エビが必死に暴れて
この激戦で薩摩軍小銃5番隊の監軍(副隊長格)椎原小弥太(29歳・鳥羽小枝橋の守備隊長で、橋の通行を求めた幕府大目付・滝川倶挙(42歳?倶知とも)を通さず、鳥羽伏見開戦のきっかけをつくった人物)と薩摩軍小銃6番隊長(市来勘兵衛・30歳)などの人材が戦死しています。・・・エビのハサミの部分を咥え
椎原小弥太の戦死で、西郷信吾(従道・26歳)が代わって小銃5番隊監軍となりますが、西郷も銃弾を受け後退(重傷)、小銃6番隊は監軍(副隊長格)野津七次(道貫・28歳)が隊長となって奮戦しています。・・・ハサミを噛んで無力化中?
鳥羽街道での1月5日(錦旗が登場する直前)の戦闘がいかに過酷であったかを物語っていますが、その中で大山巌(弥助)隊長が先頭を切って突撃した行為は後に「弥助ドンの頬被り斬り込み」としてその勇気を賞賛されています。・・・シッポを咥え直して
西郷隆盛(当時が41歳)がリーダーとして尊敬を受けるきっかけは、4年前の「蛤御門の戦い」の指揮であり、大山巌が尊敬を受けるきっかけとなったのは鳥羽伏見1月5日の戦いの指揮であったというお話でした。・・・一挙に呑み込みました。