長居植物園、中之島公園と続いたので、今回は靱公園のバラ園と、中国清朝末期に清国の専制君主だった西太后、その27歳までの人生を紹介しましょう。・・・フランス印象派の絵のようなバラ園へのアプローチ
「現代中国の国家戦略は、世界における中国のプレゼンスを清朝末期以前に戻すこと。(清朝末期を支配していた)西太后(1835〜1908年)の治世は、現代中国の原点」という説は、傾聴に値すると思います。・・・靱公園のバラも次々と開花していました。
満州人中堅官僚の娘として生まれた彼女は、咸豊帝(1831〜1861年、31歳で没)の貴人(当時、皇后から3番目の地位)となり、咸豊帝の即位から6年後(1856年)に皇子(後の同治帝)を生んでいます。・・・絵画調モード
咸豊帝と皇后(後の東太后)との間には子供は無く、貞淑でおっとりした性格の皇后は咸豊帝の相談相手になるタイプでは無かったようです。 ・・・白とピンクを重ねてみました。
一方、西太后は、才気煥発なうえ、当時の中国女性としては珍しく読み書きができたので、いつのまにか咸豊帝の秘書役のような存在となっていました。・・・これは、ノーマルモードです。
第二次阿片戦争(1857〜1860年)の末期、欧州連合軍の攻撃を避けた清朝中枢は、北京から180km離れた熱河離宮山荘に移転、連合軍との交渉を弟(恭親王)に任せた咸豊帝は、芝居三昧の生活を送り、31歳の若さで亡くなっています。・・・靱公園のすぐ北側には高層マンションがあります。
清朝の大臣達(8名)は、亡くなる直前の咸豊帝に西太后は危険人物となるとして処刑を進言しますが、咸豊帝は承諾しませんでした。(1861年、運よく第一の危機を回避) ・・・靱公園が以外と狭い公園であることが判ります。
それどころか咸豊帝は、老練な大臣達によって同治帝(6歳)、東太后(25歳)、西太后(27歳)の権力が削がれないよう、二つの皇帝印を東西両太后に渡し、皇帝の公文書に押印する権限を与えています。・・・バラとマンション。
1861年に同治帝(6歳)が即位すると、大臣級の下にいる官僚達から、東西両皇太后に垂簾聴政(皇太后が背後から皇帝を指導する政治)を願う懇願書が提出されています。・・・バラとマンション
官僚達は、煙たい存在の大臣よりも政治実務に疎い二人の皇太后(東は25歳、西は27歳)をトップに頂くほうが御しやすいと思ったからでしょう。最近の北朝鮮でも同じようなことが起こっているのかも知れません。
参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著
つづく
冬、ベンチに座っていると
向こうからアリダヴァリが歩いてきそうです。
観覧車は見えませんが。
しかし、靱公園もこのポイントなら実際より広く見えますね。
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